(2)
翌日の八月五日。
朝の七時に叩き起こされた薫たちは、祖母特製の朝食を前に大あくびだった。
前日の夜は、宇宙の部屋でダラダラとテレビを見たりゲームをしたりして過ごした。
宇宙が実家にいるときは日常茶飯事だった光景だ。皆で騒いでいると、瑛太との間に生まれた僅かな気まずさが、全部消えてしまったかのようだった。
それがひどく気楽で、楽しくなってしまったため、ついつい夜更かししてしまったのだ。
薫は先に寝落ちしてしまったけれど、瑛太と宇宙は積もる話でもあったのか、遅くまでひそひそと話をしていた気がする。
『俺がいなくなったら、あっさり変わると思ってたんだけどなあ……おまえが変身してるからてっきりそうかと』
『そんな簡単にいかないし』
『だよなあ。アイツそういや鈍かった。ってか、相変わらずこの油断の仕方すげえな……ちょっと同情する。まあ、お兄ちゃんにいつでも相談したまえ』
あれは一体何の話だったのだろう? 薫は首を傾げたが、湯気の上がる具だくさん味噌汁に思考を遮られる。
たっぷり厚みのある卵焼きに甘い醤油をかけて食べていると、だんだん目が覚めてきた。
こちらの明太子は名物なだけあって、熱々のご飯に載せるとそれだけで三杯くらい行けそうな気がする。みずみずしいトマトときゅうりは朝、庭からちぎってきたばかりらしく、シャキシャキとしておひさまの味がした。
瑛太も黙々と食べておかわりをしていたから、きっと美味しかったのだろう。
兄の運転するのは祖母の車で、十年もの軽自動車だ。あまり乗っていないらしく状態はいいが、運転者が宇宙というのがひたすらに不安だった。
海沿いを走ってしばらくいくと、車は大きな通りに出る。国道三号線だ。家の近くの道とまったく違って本気で広い。片道三車線の道ではトラックや乗用車がすごいスピードで走っている。道路が広いとスピードが上がるのかと軽いカルチャーショックだった。
小さな車は走行車線を西鉄バスに挟まれて走る。福岡という街はバスが大量に走っているが、同じ行き先のバスが何台も連なっているのを見ると、どれだけの需要があるのだろうと驚いてしまう。
「九大も移転するしねえ、このあたりはどうなるんやろね」
助手席の祖母がしんみりという。
「ほんと、ここだったらめちゃくちゃ近かったのに」
宇宙がブツブツという。箱崎という地区には宇宙が在籍している九州大学があった。けれど、ここ数年で糸島地区に移転してしまったのだ。街中にある大学というのが魅力の一つだったと宇宙は言うけれど、宇宙工学が学べるところが全国でも限られているからしょうがないのだ。
「駅も筥崎宮から遠くなったしねえ」
前はお宮の近くに駅があったらしい。
昔を懐かしむ話が響く中、宇宙が駐車場に車を入れる。案外スムーズで安心する。小型車というのがいいのかもしれない。
車を降りると、熱気が体にまとわりつく。
顔をしかめながらも薫は思わず上を見上げた。
「……おっきいね……」
鳥居のサイズがすごかったのだ。車が二台余裕で通れる道を跨いだ大鳥居。圧倒される。
「ここね、四つの鳥居があるんよ」
祖母が言う。
「ほら、そこの大鳥居から道路側みてみんしゃい」
言われて覗くと、道路を渡った先、フェンスの向こうに海が見えた。そして砂浜には赤い小さな鳥居がある。
そして反対側を見ると、鳥居が二つ。その二つを抜けた先に本殿あるようだ。
といっても、鳥居から鳥居までの間隔はかなり広い。鳥居が大きいから近く感じるけれども、結構な距離がありそうだった。
「多分十分位かかるよな。本殿まで一キロくらい?」
夏の日差しは容赦ない。湯気の出ているアスファルトを見ると鉄板の上で焼かれているようだ。汗が吹き出してくる。宇宙がもっと近くに停めればよかったか? とぼやくが、祖母はシャキシャキと参道を歩き始める。
大鳥居から五分ほど歩くと二之鳥居に行き当たる。と同時に地下鉄の駅があって、瑛太が「ふうん、参道に駅がある」と面白そうに観察する。
「放生会のときとかここ凄いんだよ。夜店が大鳥居のところから本殿近くまで、道の両端にずらーって並んでて。これだけ広い道なのに、人がぎっしり。全然前に進めないんだよ」
「ほんと、どこからこれだけの人が集まるんだって感じだったよな」
小学生の時に一度だけ連れて行ってもらった。けれど迷子になりかけたのと、人混みを親が嫌ったせいでそれ一度っきりだ。そのときに買ってもらったのは――。
「梅が枝餅食べたいなー」
思い出して呟くと「それは大宰府にとっておけ」と宇宙が言う。
「それもそっか」
梅が枝餅はそもそも大宰府天満宮の名物なのだが、お祭りや縁日では福岡の各地で売られているからどこの名物か忘れがちだった。
想像しているとさっき朝食を食べたばかりなのにお腹が空く。
やがて一之鳥居にたどり着く。鳥居の前には小さな公道が通っていて、車が行き来している。鳥居の隣には狛犬がいて、その奥には大きな楠木が聳えている。
その奥にあった手水舎で手と口を清めると、参道をまっすぐに行く。突き当りにようやく本殿が鎮座していた。
今までに見た中で一番大きな楼門のように感じたのは、高さもあるが建てられている敷地に対して屋根が大きいからかもしれない。雄大な屋根を見上げるが、後ろにひっくり返りそうだと思う。
そして楼門の屋根の笠、中央には、
「敵国降伏……って、字面が強そう」
「地元の球団が毎年揃ってここに初詣に来るもんな」
柵にはプロ野球チームや、サッカーチームの寄せ書きのようになった大きな絵馬が掲げてある。
「ここんとこの結果見てると、ご利益ありそうだよな」
宇宙が笑う。薫も笑うが、瑛太だけはどこか難しそうな顔をしていて、薫は心配になった。
(あ……もしかして具合悪いとかだったらどうしよう)
「瑛太? 大丈、夫?」
尋ねると彼は表情を少し緩めた。
「大丈夫。ちょっと考え事してただけ。とにかく、参拝しよう」
頷いて前へ進もうと思ったが、楼門は賽銭箱で塞がれている。
「あれ?」
前に来たときはここは通れた気がするのだけれど、と首を傾げていると、祖母が笑う。
「普段は中に入れんのよ。放生会のときくらいしか来んけん、知らんかったんやろ」
つまり、ここでお参りをするということなのだろう。
薫たちは賽銭箱にお賽銭を入れると、いつもの手順で参拝を済ませた。
ふと賽銭箱の前に『敵国降伏のいわれ』という立て札が目に入る。
「『武力で相手を降伏させる(覇道)ではなく、徳の力をもって導き、相手が自ら靡き降伏するという王道である我が国のあり方を説いています――』……か。なんか思ってたのと違うな。元寇のこともあって、武力でねじ伏せてやったぞ――みたいないわれかと思ってた」
瑛太が口にした後に皆で、おもむろに上を見上げる。
こめかみを揉む瑛太は少し苛立っているように感じる。雰囲気がなぜか刺々しい。
「何か……手がかりはありそう?」
「いや……。アイツ、でてこないし。ここはやっぱり違うのかも。消去法が一番確実だと思うから、まあ、いいんだけど」
(……やっぱり?)
その言葉に違和感があった。八幡は違うと思っていたということだろうか。だとしたら、どうしてそのことを薫に言わなかったのだろう。
「瑛太、やっぱりってどういう――」
とその時、何か言い争う声がして薫の気が削がれた。
「――おい、そこのババア、後ろに並べよ! こっちは急いでんだよ!」
大声が上がっているのは、社務所の方。
一人の男がつばを飛ばさんばかりの剣幕で怒鳴っている。相手は社務所の前に並んでいた女性だった。歳は母と同じくらいだろうか。日傘をさして、小綺麗な格好をしている。
「だってあなた参拝まだでしょう。御朱印より先に参拝を済ませるものよ。手水舎で身を清めて――」
「ちゃんとしたっつーの!」
「いいえ、さっき裏から出てきてすぐ並んだの見てたもの。だからわたし、参拝を先にって言ってるわけ。近頃は御朱印をスタンプみたいに軽く考える人が多いのねえ。昔から集めている人まで同じに思われるのは、本当に迷惑なのよ」
「あ〜〜〜〜だから、それは――」男はもどかしげに時計を見ると「ってか、俺もう金払ってんだよ! そもそも、アンタが文句言うの筋違いだろ!?」と怒鳴り散らした。
(うわあ、これはもしや、お客様は神様な人!?)
思わず顔をしかめてしまう。だが、女性は女性で譲らない。どうやら御朱印にかなり思い入れがあるのだろう。しかも気が強そうだ。一触即発の空気をなんとかしたいが、さすがに割って入るのは怖い――と思ったときだった。
「あんた、ここをどこだと思ってんだい。神様を前になにお客様面してんだね!」
「ば、ばあちゃん……!」
ふと気がつくと隣りにいたはずの祖母が、社務所の男のところに行っている。
「なんだこの、ババア」
「ババアで結構だよ。アンタが何のために参拝しとるんか知らんけど、身の程を知らんやつに、神様は力を貸してくれんよ」
祖母がそう言うと、男の顔にさっと血が上るのがわかった。男が祖母に向かい合ったとき、社務所のカウンターに置かれていた御朱印帳が男の手にあたって落ちる。
蛇腹になっている帳面が風に流され一枚の長い紙になる。朱色の印と墨で書かれたアーティスティックな神社の名が、ずらりと並んだ。
男の目が見開き、眉間に深い皺が刻まれる。怒りが膨らむのを察知した薫は、祖母を守らねばと「ちょっと待ちなさいよ! うちのばあちゃんに何する気!?」と足を踏み出す。
男の目がぎろりと薫を射る。足がすくみそうになったとき、薫の腕を誰かが掴む。瑛太だった。
「もしかして、薫ってばあちゃん似か?」
そう呟くと瑛太が薫を差し置いて飛ぶように駆けだす。宇宙も続く。男は瑛太と宇宙に向き直ると、がなりたてた。
「なんだおまえら! やるつもりか!?」
ヤバい、と薫は思う。喧嘩なんか瑛太が勝てるわけがない。背ばっかり高いけれど、ひょろりとしているし、薫にさえ勝てないだろうと思えるのだから!
だが、瑛太は腕を脇に添えたまま、静かに口を開いた。
「あんたはここの祭神を知っているか?」
「はっ?」
「ここで祀られているのは、第十五代天皇、応神天皇だ。古事記では誉田別命と呼ばれ、実存する最古の天皇だという諸説がある」
男が毒気を抜かれている内に瑛太は続けた。
「母親は神功皇后。三韓征伐を行ったと言われる方だ。神功皇后は妊娠中に新羅を降伏させ、帰還後、誉田別命を産んだと言われる。その場所が福岡県の宇美町。宇美八幡宮もあり、縁の強い土地だから、八幡様と、地元の方に慕われるのもわかる。氏神のように思われている方が多いのかもしれない」
男は突如始まった薀蓄に固まってしまう。何を考えているのかわからない瑛太に、薫も同じ顔をしたいと思う。
「その神功皇后は香椎宮に祀られている」
そこで瑛太は、びろんと蛇腹が伸び切ってしまった御朱印帳に目を落とし、
「どうやら参拝はまだのようだから、同じ東区だし、母子で並べてもらうといいかもな。でもせっかくなら宇美八幡宮にも足を伸ばしたほうがご利益はあるかもしれない。有名な安産の神様だ」
と言った。
「な、何なんだお前」
スラスラと出てくる薀蓄に気味が悪くなったのか、男は引き気味だった。瑛太のことをよく知っているつもりだが、状況が状況だけに薫も戸惑う。この一触即発の状況で何を考えているのだろう。
ガヤガヤと野次馬が集まっている。
注目されていることに気がついたのか、男ははっと我に返り時計を見ると、慌てた様子になる。地面に落ちた御朱印帳を拾い上げる。白い御朱印帳にはオレンジやピンクの蝶と花びらの模様が描いてあって華やかだ。男が持つにしては可愛らしいデザインをしていた。
そして社務所をちらりと見た後、小さく舌打ちして立ち去っていく。地下鉄の方へと走っていく男を見届けた瑛太は「……ふうん」と小さく呟くと肩をすくめた。
揉めていた女性が瑛太に礼を言う。だが瑛太が「あなたもお急ぎなら、余計な揉め事にならないようにしたほうがいいと思います」と言うと、ぎょっとしたように立ち去っていく。
祖母があっけにとられた顔で瑛太を見ている。宇宙がニヤニヤと笑いながら瑛太の肩に手を回す。
「……瑛太、ちょっとどうしちゃったわけ。敵国降伏ってやつ? まじかっこええ」
「気味悪いの間違いだろ」
瑛太は引き気味の周囲の心の声を代弁するかのように言ってしまうと、逃げるように社務所の方へと向かう。
そして、例外なく今のやり取りに戸惑っていたらしい巫女さんに「御朱印をいただけますか」と言う。
瑛太に正面から見つめられた巫女さんは、我に返るなり「あ、ありがとうございました。どうしようかと思っていたので助かりました」と少し頬を染めている。その様子を見て、これが、ただしイケメンに限るというやつか、と薫は思ってしまう。
前の姿だったら、巫女さんの反応は確実に違っただろうと予想できてしまったのだ。そんなことを考えていた薫だったが、瑛太の発言が理解できたとたん、ぎょっと目を剥いた。
「え……瑛太も御朱印集めるの!?」
この間の京都ではまったく興味を示さなかったのにいきなりどうしたのだろう。薫が尋ねると、
「ちょっと気になることがあったから。念のため」
瑛太は小さく首を横に振る。
「三百円をお収めください。御朱印帳はお持ちですか」
むくむくと物欲が湧き上がる。瑛太が貰うなら薫も欲しいと思った。それに先程の御朱印帳の、可愛らしいデザインを見て心がくすぐられたのだ。もっと地味なものだと思っていたので、気になった。
「こちらで売っていますか?」
口を挟むと巫女さんは首を横に振った。
「あいにく置いておりません。文具店などでも購入できますよ」
「では半紙でいただければ」
瑛太は慣れた様子で返す。それが不思議で考え込み、ふと思いついた。
二ノ宮神社にも御朱印はある。そして、社務所でバイトをしている彼は、いつもは授与する方なのだ。もしかしたら書いたりするのかもしれない。
(確か、瑛太って選択科目、書道だったよね……)
御朱印を書いてもらっている間に待っている間に、瑛太はぼそぼそと説明する。
「そもそも御朱印っていうのは、神社仏閣に参拝した証に頂けるものであって、本来なら写経して納経した者への受付印だったと言われている。この頃、以前に比べて御朱印貰いに来る人は増えてるけど、さっきみたいなのも、たまにいる。じいちゃんとかめちゃくちゃ腹立ててる」
「そうなんだ……」
「……まぁ、信仰の形なんて人それぞれだし、人がとやかく言ってもな、とも思うけど」
瑛太が小さくつぶやき、薫は片眉を上げる。なんとなく瑛太らしくない発言に思えたのだ。どちらかと言うと、おじいちゃんと一緒になってマナーがなっとらん、と怒りそうな感じがしていた。
「瑛太は――」
薫が疑問をこぼそうとしたその時、御朱印を書き終わったらしく、巫女さんが半紙を差し出す。瑛太は丁寧に両手で受け取ると、それを『解説 日本書紀』と書かれた本の間に挟み込んだ。




