(8)
瑛太が言ったとおりに、祖母の家に帰っても、薫も、それから瑛太も怒られることはなかった。
不思議に思っていたが、何事もなく千葉に帰った十日後、その理由は発覚した。
あれ以来全然会えないなあと、不審がっていた薫に母が気まずそうに言ったのだ。
「瑛太ちゃんね……。京都での怪我に続いて今回の熱中症でしょ。責任感じたらしくってさ。『二度と薫に近づきません、今まで本当にお世話になりました』って謝ったんだよ。あんなふうに言われちゃあ、こっちもそれ以上怒れなかった」
もちろん、そこまでする必要ないし、そんなのはみんな嫌だって言ったんだけどねえ……という母の言葉は、薫の耳にはもう聞こえなかった。
瑛太の家のチャイムを鳴らすと、瑛太のお母さんが出てきた。
「……瑛太ねえ、ちょっと出かけてて」
そういってやんわりと断られたが、薫は引き下がれなかった。瑛太のスニーカーは玄関に並んでいた。
「じゃあ、帰ってくる時間教えてください。外で待ちます」
そう言うと、瑛太のお母さんは困ったようにため息を吐いて「ちょっと待っててね」と二階に上がっていく。
「取り次ぐなよ!」などと言い争う声がしたのを聞いて、薫は思わず「おじゃまします」と呟いて二階へ上がる。部屋のドアから中を覗き込むと、部屋の中で瑛太が目を剥いた。
「薫……!?」
彼の部屋は雑然としている。見ると床には、なぜか古事記と日本書紀の解説書が何冊も散らばっていた。だが今は、そんなことはどうでもいいと思う。
「勝手に入ってごめんなさい、ちょっとだけ話、させてください」
瑛太のお母さんに頭を下げると、彼女は困惑した顔で下に降りていく。
ドアを閉めると「だから、おまえは、どうしてそう――」と、瑛太はものすごく動揺した顔をして、薫を押しやるようにして自分から部屋の外に出る。そして階段を降りると外に飛び出した。
「ついてくるな!」
瑛太は駆け出す。どこへ行くつもりなのかわからないが、七森町の奥へ、奥へと入っていく。その背中に大声で訴える。
「なんなの一方的に絶縁とか! ふざけないでよ!」
瑛太は無視。振り向きもせず、足を速める。だが、舐めてもらっては困る。弓道部は案外走り込みをするのだ。
「勝手に『全部俺が悪い』みたいな顔して――そんなの頼んでないよ!」
道の先は行き止まりだ。薫は勝利を確信する。逆に瑛太は引き離せないのに気がついたのか、やがて諦めて足を止めた。
たどり着いたそこは、奇しくも、元ハルさんの家。今は家屋が取り壊された空き地だった。
外灯が照らす敷地はまだ買い手がついていないのか、黒い除草シートがかけられている。
「だから、さ……もう、関係ないだろ。ほっとけよ」
瑛太は向こうを向いたままぽつりとつぶやく。
「関係ないってなに!?」
カッとなる。くわっと噛み付くように尋ねると、瑛太は言い直す。
「神様の名前探しが終わったんだから、薫はもう自由だ。わざわざ俺に関わる必要、ないだろ」
「なにそれ。名前探しが終わったとしても、瑛太とわたしが離れる必要なんか、まったくないじゃん!」
「だから……言ってたろ。あの弓道部の先輩だっけ。俺たちはもう、このままじゃあ不自然だ」
「不自然? なにが不自然?」
「もう、ただの幼馴染じゃ、いられないってことだよ」
「だから距離を置きたいってこと?」
「いや、そうじゃなくって――」
何か奥歯に物が挟まったような物言いに、薫はキレる。
「ほんと、なにそれ。みんなが言うのはまだ我慢できても、瑛太が言うのは我慢できない。なんでわたしと瑛太がこのままじゃいけないって、勝手に決めつけるわけ!? いいじゃんべつに、幼馴染でもなんでも」
怒りで頭が煮えそうだった。噴火寸前の薫は、その勢いのまま、一息で言った。
「瑛太がわたしの何だって関係ない! 関係なんてなんでもいいから、わたしは、瑛太にずっと傍にいてほしいよ! 誰よりも近くで瑛太の幸せを祈ってあげたいよ! それじゃあ、だめなわけ!?」
それは薫の本音中の本音だった。
瑛太の背中がビクリと震える。だが、彼はそのまま後ろを向いたまま。やがて小さくため息を吐いた彼は、振り向いた。
「な、なに…………???」
動揺する。というのも、瑛太の顔には眼鏡がなかったのだ。
「え………」
薫は目玉が落ちるのではないかというくらいに目を見開いた。そんな薫を見て、《彼》はふわりと目元を緩めて雅びに笑う。
こんな甘い笑い方は、瑛太は、しない。そう思ったとたん、薫は全身を震わせた。
「ええ――――!?」
「呼んだか? 薫。壱岐以来ではないか?」
そこだけ空気の色が違う気がした。
久々のカミサマがいたのだった。
「か、帰ったんじゃ……!」
確信はなかったものの、実際に目にすると驚いてしまう。
「何を言う? 名前がわからねば、帰ることなどできないと言っただろうが」
「でも、瑛太が月讀命だったって」
カミサマは肩をすくめる。
「そうか。倒れたから知らぬのか。にしても、あれほど下手な嘘もないと思うが……。あの場所に見覚えはなかった。だからおそらくは違うのだろう。同調と言うか……何か縁を感じないこともなかったが、さほど縁が強いとも感じなかった」
「じゃあ、瑛太はなんでそんな嘘を?」
「やはりおぬしは鈍いな……荒療治がなかなか効かぬくらいだから仕方もないが。……格好をつけようとして、格好がつかぬのは気の毒なことだ」
「荒療治って、何かされたんですか!? 瑛太だけじゃなくって、わたしにも!?」
「どうにも面倒くさく縺れている縁があれば繋たくなるのだ。まぁ、『幼馴染だ』と言っただけだが、少しは効果があったような気がせぬでもない。エイタは自ら動かざるを得なくなったし、そなたは己の中の矛盾に多少は気がついたであろう? 自分がどこに立っておるのかわからぬままでは、どこに進んでよいかもわからぬからな」
「……はあ」
さすがに抽象的すぎてどういう意味かさっぱりだったが、わかるところだけ考えようと試みる。
(幼馴染……って言ったって……いつ?)
そんな言葉、いつ出てきてもおかしくない――と思いかけた薫だったが、ふと思い出す。
《彼》がそう言ったからこそ、薫は瑛太のことを意識し始めたような気がするのだ。
「え、じゃあ、あれってもしかして瑛太じゃなくって」
となると、色々考え直さなければならないことが出てくる気がする。
だが、カミサマは笑うだけで答えをくれない。そういえばそんな神様だったと思い出す。
「カミサマ、あなたは一体……」
ふと縁をつなぐという言葉が気になった。そんな神様がどこかにいたような気がしたのだ。
考え込む薫の前で、カミサマは自宅の方へ歩き始める。
「さて、そろそろ夕食か。このまま帰ればありつけるな。久しくまともなものを食べていないから、食べてから眠ることにしようか」
すぐにでも瑛太と相談したいと思うけれど、カミサマはしばらく眠るつもりはないようだ。
もどかしい、と思いながらも、薫は心がだんだん踊りだすのがわかって困ってしまう。
カミサマから早く解放してあげたいのは確かなのに、こうして瑛太と一緒に旅を続けられるのがたまらなく嬉しいのだ。
そんな矛盾に戸惑っていると、カミサマが楽しげにつぶやいた。
「それにしても、そなたたちの祈りはおもしろい。互いに逆方向を向いているというのに、願うことは同じだ」
相変わらずカミサマの言うことはよく意味がわからない。
それを仕事をしない――と思っていたけれど、実は、答えは自分で見つけるしかないのだと、言っているのかもしれない。
空を見上げると、月が太陽に続いて西の空に沈んでいく。その追いかけっこはまるで瑛太と自分のようだと、薫は小さく笑った。
*
スマホが震え、瑛太はディスプレイを覗き込んで顔をしかめた。
『で、瑛太くん。あなたの中にいるのは、一体何?』
相手は波多野あゆみ――例の神社オタクだった。突っぱねたいけれども、瑛太は彼女に弱みを握られてしまっている。
『薫ちゃんを助ける代わりに、なんでも言うこと聞くって約束したよねー? 約束守らないと、薫ちゃんにスポーツドリンクがなんで減ってたか教えちゃうぞ☆』
思わずスマホを握りしめる手が震えた。
それは、壱岐の男嶽神社の展望台で薫が倒れたときのことだ。
とにかく水分を取らせねばと慌てた瑛太は、頭が真っ白になった挙句に、とある行動に出てしまった。結果、それを居合わせたあゆみに見られたのだ(ちなみに、あゆみに止められてから知ったのだが、熱中症のときには、自力で水分を取れるかどうかが症状の重さを量るバロメーターなので、人が無理に飲ませてはいけないらしい)。
質が悪い大人だと思う。金も時間もある大人がオタクになると、たいてい手段を選ばないから手がつけられない。
誰かに似ている――と考えて、答えはすぐに出た。陸だ。
扱いの難しさを思い出した瑛太は、うんざりする。
『誰にも言わないでくださいよ』
と書きながらも、誰にも言わないだろうなと思う。こんな話、口にすればあゆみのほうがおかしいと思われる。
(あー……それにしても……下手打った)
墓まで持っていかねばならない秘密は、いつか瑛太を滅ぼすかもしれない。
そう思うと憂鬱になるけれど、ああするしか思いつかなかった。あとで罵られようと絶縁されようとかまわないと思っていた。
あのとき、瑛太は自分の無能さと非力さと、さらには自分のエゴで彼女を縛ってしまっていたことを恥じた。
だからこそ、もう薫を巻き込みたくないと、必死で慣れない嘘を吐き、一方的に絶縁を言い渡した。そうして名前探しを、無理矢理に打ち切るつもりだったのだが……。
(『関係なんてなんでもいいから』とか。……敵わねーな)
薫の気持ちは震えるほどに嬉しかった。だが――薫の方はそれで満足なのだろうけれど、瑛太の方はそうはいかない。
(俺は、なんでもいいとは思わない)
関係には名前が必要だ、と瑛太は思う。幼馴染という関係では許されないことを、瑛太は望んでいる。
己の唇に触れ、薄れそうになる記憶をつなぎとめていると、もっと欲しいという望みに気がついてしまう。
瑛太は瞑目し、そして何度目になるかわからない深いため息をついたのだった。
《完》




