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八月七日月曜日、晴れ。
博多港を十時に出るフェリー便に乗り込み、定刻通り、十二時十分に壱岐島の郷ノ浦港に着く。本当はもっと早い便に乗りたかったのだけれども、ジェットフォイルはフェリーの二倍の料金。予算の都合で断念したのだ。
強めの海風が熱気を運んでいってしまうのだろう。福岡よりはかなり過ごしやすいと思う。
「月讀神社へはどう行けばいいんですか?」
薫がタクシーの運転手に尋ねている。夏の壱岐島はマリンリゾートなので、薄着にサンダルの人間が多いが、薫も瑛太もTシャツ、ジーンズに長袖パーカー持参、頭にはキャップを被り、足元は長時間の徒歩に耐えられるようにスニーカー、さらには大きなリュックを背負っている。そのせいで、少々周囲からは浮いていた。
「バスもあるけど、一時間に一本やけん、ちょっと不便かもしれんね」
時間もない。ぐだぐだと悩んでいる暇はないと瑛太は薫をタクシーに押し込む。
「えっ、タクシー!? タクシーって金持ちが乗る乗り物だよ!?」
薫が唖然とした顔をしているが、一体どういう感覚をしているのだ。タクシーの運転手さんも苦笑いだ。
「あっ、もしかして――」
はっと息を呑んで正体を疑う気配がある。皆まで言わないでもわかった瑛太は、薫の発言を遮る。
「俺は瑛太だし、正気だし、タクシーは金持ちが乗るんじゃなくて、他に公共交通手段がないときに乗るものだ」
「でも高いよ! 財布の中身が死ぬよ!?」
「こういうときのために貯めてるわけ。俺が払うから大丈夫。時間が惜しい」
そう見得を切るものの、瑛太の財布の中身はもう大分涼しくなってきている。宇佐に行く予算を充てているので、一応なんとかなりそうだけれど。
(帰ったらまた働かないと……)
そう思っている時点で、ここで終わらせるつもりがない自分に気がついて、瑛太は己の中に巣食う矛盾に気がついてぐったりとする。
正直に言うと高校生にタクシー代金往復四千円弱の出費はとても痛い。それだけではない、すでにここに来るまでにフェリー代も支払っているのだ。
そこまでしてどうして――? と薫の表情は語っていた。
正直に言うと『ここだ』と確信を持ったわけではない。現れたヒントを全て当てはめていくと納得行かない部分はあるし、また空振りに終わる可能性を考えなかったわけでもない。
だが、薫と一緒に来るならば、最後のチャンスに思えてしまった。
今回の福岡滞在がどれだけ特別なものか、瑛太には身に沁みている。
たとえ幼馴染であろうとも、祖母の家までついていくなどというのはさすがに厚かましい。宇宙の招待があり、薫の祖母が薫の母と同じくおおらかであるからこそ叶うこと。
そして来年は受験でそれどころではない。高校二年生というギリギリの学年だからこそ、こうして自由に旅ができるのだ。
偶然に偶然が重なったこの機会だ。逃したくないと思ってしまった。一期一会。それが瑛太の背中を強く押したのだ。
このところ、瑛太の中では二つの気持ちがせめぎ合っている。
神様の名前が早くわかればいいというもの。そして、わからないままでもよいのではないかというもの。矛盾する二つの気持ちは、時に激しくぶつかりあう。
わかればこの理不尽な状況から解放される。カミサマによる散財は終わり、《瑛太の夢》を邪魔する者は消え去る。それこそが正しい未来であり、目指すべき目標である。
だけど、旅の終わりと同時に瑛太は薫を失ってしまう。そんな気がして仕方がない。
責任感の強い薫は、途中で瑛太を見放せない。きっと瑛太が無事にカミサマに解放されるまではつき合ってくれる。
だが、瑛太が解放されたら、瑛太は薫を解放せねばならないのだ。
彼女は自由になった瑛太を見て、良かったね、もう心配いらないねと笑い、そして他の男のところに行ってしまう。そんな悪夢を何回見たことか。
瑛太はその時が来るのが心底怖い。恐怖が彼に回り道をさせているのかもしれないと思う。
そんな自分に気がつくと、臆病さと卑劣さを感じて吐きそうになるのだ。
タクシーは十分ほどで神社に到着した。
参拝の間、タクシーに待ってもらうかどうか悩んだが、どれだけかかるかわからないので止めておく。電話番号だけ教えてもらってタクシーを降りる。
公道から垂直に交わった道の先、『月讀神社』と書かれた石碑があった。
「瑛太?」
足が固まっている。一歩も動けない気がしたが、足を止めているのはカミサマではない。
旅の終わりを恐れる瑛太だった。
*
入り口にある由緒を読むと、瑛太が言っていたような、古事記と日本書紀に書かれている月読命の誕生神話が掲げられている。しばしじっと読み込んでいた瑛太が、読み上げを始める。
「『壱岐の県主の先祖「忍見宿祢」が西暦487年月読神社を分霊して壱岐から京都に祭りに行かた。忍見宿祢により、神道が中央に根ずく事になったとされております。つまり、壱岐島が神道の発祥の地といわれております。京都、洛西、松尾大社の横の月読神社はあり。伊勢神宮の内宮に月読宮、また外宮に月夜見神社があります。壱岐島の月読神社が全国の月読社の「元宮」とされております』……か」
「元宮って総本社みたいなものなのかな」
「うーん、総本社っていうと元締めみたいな感じだから、ちょっと違うと思うけど。少なくともここが一番歴史が古いってことには間違いなさそうだけど……」
瑛太はなぜか鳥居の前で佇んだまま。
「……入れそうにない?」
ここまで来て入れなかったらどうしようと一瞬不安になる。
だが、その時はその時でヒントが増えたと切り替えようと思っている。
下はもう向かないと、ここに来るときに決めたのだ。瑛太がいくら強く見えようとも、無理しているにきまっている。薫だけはそれを忘れてはいけないと思った。
「行ける。拒絶はされてない」
瑛太は木々の間の階段を一歩ずつ登り始める。左右には杉の木がたくさん生えていて、ひどく薄暗かった。夜の神様を祀るにふさわしい場所だと思う。
空気は水分をたっぷり含んでいるせいかどこか重い。薫は息苦しさを感じて深呼吸をした。畏怖というのは、この感覚なのかもしれないと思う。
後ろを行く瑛太はまだ眼鏡を掛けている。
カミサマはまだ現れていないようだった。
下を見て歩いていた薫は、右手に手水舎を見つけて立ち止まった。上を見上げると狛犬の姿が見える。
(あと一息だ)
身を清めて気合を入れ直す。そして階段を登りきった薫の目の前に、突然現れたのはお社だった。
唐突さに心の準備が間に合わない。後ろを見ると、瑛太も驚いているようで、目を見開いている。
今までに見た社とはまったく趣が違う。屋根は瓦葺きだし、壁は木製。社殿という感じではなく、むしろ民家の方が印象が近い質素な佇まい。
本殿の隣には授与所があり、宮司さんが中で作業をしていたが、とても小さな神社だった。
(こ、ここで合ってるんだよね?)
戸惑うけれども、その建物自体は不思議と周囲の景色と調和している。シンプルだが、社はあくまでおまけだと言っているような気がした。
瑛太の顔は張り詰めている。
彼は深呼吸をすると、いつもより丁寧に二拝二拍手をして、静かに手を合わせた。
薫も続く。祈りが届くようにと、真剣に心のなかで呟く。
(カミサマ、どうか、瑛太に体を返してあげてください。旅を終わらせて――)
そこまで念じた薫だったが、ふと気がつく。
(そっか。カミサマが帰っちゃったら……もう瑛太との旅は、終わり……?)
とたん、薫は自分の祈りが揺らいだのがわかる。
こんなことではいけないと、何度も念じる。だけど、たどり着きたい場所が揺らいだせいで、願いが空回りしている気がしてしょうがない。
「薫」
声が聞こえて薫は目をあける。
瑛太は眼鏡を外していなかった。
「……瑛太……?」
嫌な予感に顔が引きつる。
「ああ、俺だ」
彼はどこか悲しげに、そしてどこか安心したような複雑な顔をしていた。




