(2)
八月六日、日曜日。空は青かったが、天気予報を見ると、雷注意報が出ていた。
朝起きたら、すでに高校野球の第一試合は始まっていて、祖母は出かけていた。
友達と約束があると昨晩言っていたが、置き手紙と朝食だけがテーブルに残されている。祖母の交友関係は広く、七十を超えているとは思えないほどに活動的なのだ。そういうところは母に似ていると思う。
「海に行こう」
朝食を食べ終わるなり宇宙が言い出して、薫は瞠目した。
「何言ってんの、いきなり」
「ほら、やっぱり、若者は家の中でうじうじしてたらいけない。いらんエネルギーを貯めてしまう」
宇宙はなぜか瑛太をじっと見ているが、瑛太は素知らぬ顔で、御飯の上の明太子の薄皮を除けている。
「何か間違いが起こる前に、外で発散させたほうが絶対いい」
そこまで宇宙が言ったとき、味噌汁を飲んでいた瑛太が、なぜか突如ぶはっとひどくむせた。
いちいち熱血教師のようで鬱陶しいなと思いつつ、海というフレーズには心惹かれるものがある。
昔、こちらの海水浴場で遊んだ覚えがあるが、海水も砂浜もすごくきれいだったのだ。
ゴホゴホ咳をしていた瑛太が顔を上げる。
「宇宙兄……じゃあ、宗像の方に連れて行ってくれる?」
宗像市は、福岡市と北九州市のちょうど真ん中あたりにある海沿いの自治体だ。祖母の家から車で三十分ほどで着く、水と緑の豊かな街だった。
「宗像、か。あのへん、海の家はないけどなあ」
「俺、宗像大社に行ってみたいんだけど」
瑛太は宇宙に対しては遠慮がない。交通費を上手く削ろうとしているのだろう。ここから宗像大社へ向かうには、JRとバスを乗り継がなければならないので時間とお金が結構かかるのだ。
「じゃあ宮地嶽神社も行く? あそこテレビCM効果でめちゃくちゃ有名になったんだよな」
「そうなの?」
「『光の道』っての。見たことないか?」
「あー見たことはないけど、聞いたことはある」
某有名アイドルグループが出てたやつかと頷く。
「でも確か、あれって季節は夏じゃないよね」
アイドルたちは長袖を着ていた気がするのだ。
「ああ。でも光の道が見えるときはめちゃくちゃ混むらしい。まあ、普通のときに言っても十分見ごたえあると思う。薫も昔、ばあちゃんに連れて行ってもらったろ」
「小さかったからあんまり覚えてないなあ……あ、奥の方に古民家みたいなのあったのは覚えてるけど。あと、チャボがいたよね」
「確か、そこも神功皇后が祀られてた気がする」
薫が思い出に浸っている間に、瑛太も自分の頭の中のデータベースを検索していたらしい。
「神功皇后って――」
最近その名を聞いたばかりだ。
「応神天皇――誉田別命の母親。光の道はまあ置いておいても、興味ある。参拝したいかも」
「え、じゃあ海は? 薫の水着姿とか興味ないわけ?」
当初の計画から完全にずれてしまった。宇宙が愕然とした顔をするが、瑛太は興味なさげに
「そもそも水着がない」ときっぱり。
「そうだよ。水着持ってきてなかった!」
失敗したと薫が肩を落とす隣で、宇宙も呆れたようなため息を吐く。
「お前らここに何しに来たわけ?」
「え? 神社巡り、だけど」
瑛太が不思議そうに言い、消去法で、本日の予定は決まってしまった。
*
ブロッコリーのような入道雲が、水平線からニョキニョキと生えている。
晴れているけれど波は高く、海風も強い。ちらほらと見える人影は海水浴客ではなくサーファーのようだ。
「今日は海、無理かー」
そういえば朝の天気予報で、何か注意報が流れていたような気がする。午後からはにわか雨と言っていたけれど、この空を見ていると信じがたい。風が雨雲を連れてくるのだろうか。
祖母の家からは宮地嶽神社の方が近かったため、先にそちらに参拝することにする。
参道にはなにか甘い香りが漂っているが、その正体は『松が枝餅』。
梅が枝餅と同じく、餡の入った焼き餅だ。これもどちらが先なのか、どちらが本物なのかなどという討論があったりするのだろうかと思っていると、瑛太が小さくため息を吐いた。僅かにげっそりした顔をするのは、きっと昨日食べすぎたせいではないかと心配になる。
「そういえば、昨日大量に食べてたけど、大丈夫だったわけ?」
「一つ一つは量がなかったから、なんとか。でも、さすがにしばらく和菓子はいらないかも」
そう言いながら瑛太は、鳥居をくぐり、長い階段を登り始める。
階段はかなり急で、そして長い。足を滑らせたら一気に下まで転がり落ちそうだ。手すりをしっかり掴んで登っていると出遅れる。
先に登りきった宇宙と瑛太が、こちら側を向いて目を細めている。薫も続いててっぺんにたどり着くと後ろを振り返り、目を見開いた。
「わあ」
階段から連なる道が、海まで延びていたのだ。
「こんなふうになってたんだ……初めて知った!」
何度か来たはずの場所だったけれど、言われなかったらこうして振り向いたりしなかっただろうと思う。
「ここの道の先に太陽が沈んでいくらしいけど、道が夕日色に照らされたら、そりゃあ神々しいだろうなって思う――って、あ、こうなるんだ」
宇宙が説明の途中で指差す。そちらを見ると、光の道ができた時のパネルが飾ってあった。
オレンジ色に染められた道。その先に朱く膨らんだ太陽が沈んでいく。写真だとわかっているのに、先程の実際の風景と重なって鳥肌が立つ。
「日本は太陽の女神の国だから……特別な感動があるだろうな」
瑛太が神妙な顔で海を見つめた。
「いつか見てみたいね」
瑛太が頷き、宇宙が「また秋分の辺りに来ればいいんだよ」と言う。
「今度はばあちゃんも連れてくる。喜ぶだろうしさ」
手水舎に行き、そして本殿に向かう。そして楼門の向こうの『それ』が目に入ったとたん、薫は目を見開いた。
「……あああ、そうだった!」
思い出して声を上げる。瑛太がどこか呆然として胸を抑えている。
「日本一のしめ縄だ!」
どうやって編んでいるのだろうと悩むくらい、太いしめ縄が本殿に掲げてあるのだ。
長さは十メートル以上あるだろうか。だが長いだけではなく、太さが尋常じゃないのだ。薫の身長よりも直径が大きい気がする。いくらわらで編んであろうとも、あの太さであれば重さの単位は『トン』であろう。
長い間参拝していなかったのもあって、存在をすっかり忘れていた。この神社は三つの日本一があるとされていて、他に大太鼓と大鈴があるのだ。
宇宙がさっさと本殿の前に進み、薫もそれに続こうとするが、ふと、ここの神社の祭神について詳しく聞いていないなと思い出す。
「瑛太?」
足音が続かないことに気がついて足を止めた。
瑛太に声をかけるが、「なに?」と返ってくるものの反応が薄い。瑛太はどこか呆然と、周囲を見回していた。反応を不可解に思いながら薫は問いかけた。
「ここの祭神って神功皇后って言ってたっけ?」
「ああ……神功皇后、別名を息長足比売命。筥崎宮で祀ってあった応神天皇の母に当たる神様だ。新羅に渡る際に、この奥にある宮地嶽の山頂に祭壇を造り、勝利を祈願された。その由緒から、『何事にも打ち勝つ開運の神』として有名な神社だ」
なんだか薀蓄にいつもより熱量がないように感じた薫は、はっとする。
「気分でも悪い!?」
もしかして拒絶反応の一種だろうかと思っていると、瑛太は苦しげに胸を抑えてうずくまる。
「瑛太!?」
慌てて背を擦ると瑛太は首を大きく振る。
「だ、大丈夫……だ。なんか、気分が悪いって言うより、急に胸がざわざわして」
「ざわざわ?」
「胸騒ぎとか、なんかそういうやつかも――多分、俺じゃなくて」
瑛太は宇宙を気にする。宇宙は瑛太の不調に気が付かずにさっさと参拝を済ませていた。確認した薫は小さく問いかける。
「……カミサマ?」
「多分。何か、今のは別の反応だった――って、こんなに反応あるくせに、なんで出てこないんだろ」
瑛太は悔しそうに僅かに足を鳴らす。本当は地団駄を踏みたい気分なのだろうけれど、境内だからと抑えているのだと思った。
「なんでだろうね。小さい神社だったら結構な確率で出てきてくれるのに、有名神社ではほとんど顔見せない……」
大きな神社で出てきたのは、伏見稲荷大社と太宰府天満宮だけではないだろうか。
しかも本殿ではなく、山と、空き地である。
意味がわからない。願い事に反応して出てくるはずなのに、出てくるのは皆が祈る本殿ではない。矛盾していると思う。
「とにかく、確かめてみる」
本殿に向かう瑛太につきそう。一足先に参拝を終えた宇宙は「俺、久々にちゃぼ見てくるから、若い人だけでごゆっくり~。終わったら電話して」と本殿裏へと回る。そちらには確か遊歩道などがあるのだ。
勘違いを正したくてならないが、とりあえず今は参拝だ。
薫は瑛太と並んで二拝、二拍手をする。
頭上にあるしめ縄がどうしても気になる。落ちることはないとは思うけれど。圧迫感が凄いが、手を合わせて祈る。
いつものように、瑛太が早く解放されますようにと祈るはずだった。
(瑛太が)
だが、湧き上がってきた願い事は、なぜかいつもと違うものだった。
直前によぎったのは、昨日、太宰府で感じたばかりのこと。彼がいつか遠くに行ってしまうかも、という懸念だ。
薫はかすかに息を呑みながら、一拝し、本殿を後にする。
一体どうしてそんなふうに願ってしまったのか、わからなかった。
(――ずっと今のまま、そばにいてくれますように――って、わたし、どうして?)




