第三章 天照とその娘(1)
隣には幼い薫が眠っている。小学生の頃の薫だろうか。まだあの頃は割りと髪が長かった気がするが、兄のお下がりを着ているせいでまるで少年のようだった。
その姿を見て、瑛太はひどくホッとする。この薫になら、不埒な感情を抱くことはない、隣で幼馴染として笑っていられる、と。
だが、そんな瑛太をあざ笑うかのように、薫はみるみる成長してしまう。
中学生になった薫は、今までのようにズボンを履けないとふくれっ面だ。瑛太はその制服姿を見て、ああ、この子は自分と違うのだと初めて強く意識した気がした。
一度意識するとなかなか元には戻れなかった。
長い前髪と眼鏡に隠れた瑛太の目は、気がつくと薫を追っていた。教室でも家庭でも、始終傍にいるというのに、飽きることなく見つめていた。
そして今、隣には高校生の薫がいて。瑛太を誘うように目を閉じていた。
瑛太は、いつの間にか自分が半身を起こして薫を見下ろしているのを知る。
背後霊のように後ろから見ている感覚は、独特の感覚だ。
大分慣れたけれど、だからといってコントロールすることは未だできない。
己を取り返せたのは、わずかに一回。必死過ぎてどうやったか覚えていないせいで、未だ『彼』を止める術がわからない。
『薫』
小さな、愛おしそうな声が耳に届く。それが自分の声だと気がつくと、俺はそんな声を出さない! と羞恥で悶える。だがそれでも目は覚めない。
瑛太は暴れる。だが生ぬるい湯の中で泳いでいるかのようで、指先は何も掴まなかった。
『この土地に着いてから、なぜか人恋しくてたまらぬ。そろそろ、わたしの傍に侍らぬか』
瑛太の指が薫の顎にかかる。滑らかな白い喉、細い顎、そして柔らかそうな唇に目が釘付けになる。息が止まる。
少しだけでいい。触れてみたい――と願ったのがまずかったのか。
「はいはい、ストップストップ!」
「――ぐ!?」
喉に圧迫感を受けて気が遠くなる。だが次の瞬間ハッと我に返った。気がつくと、瑛太は薫の顔を覗き込むような恰好で――あと少しで触れそうな位置で――宇宙に首根っこを掴まれていたのだった。
「まあ、俺は別にいいんだけどさ。陸兄みたいにガッチガチにガードするつもりもないし、っていうか、瑛太が本当に弟になればいいって、ずっと思ってるくらいだし」
宇宙は面白そうに瑛太の反論を待っていた。だが瑛太が何も言えずにいると、少しだけ重い声で言い聞かせる。
「だからこそ、順番は間違えるなよー? 取り返しつかねーぞ?」
「……」
瑛太は結局言い訳の一つも言えなかった。
カミサマのせいだ――そう信じたかったけれど、夢うつつの瑛太には、自分が操られていたという確証は持てない。外から観察されてはじめて、自分の意志ではない行動をしていたと知ることができるのだ。
そんな自覚があるからこそ、カミサマのことを宇宙に話す事はできなかった。
理系だが、ロマンティストな、なにより瑛太のことをよく知っている宇宙ならばきっと信じてくれるだろう。
だけど、今の段階で打ち明ければ、それはまるで言い訳だ。
不埒な真似は人ならざるもののせいだ。自分のせいではないと否定するほど浅ましくなるくらいなら、魔が差したと認めたほうがまだいいと思った。
カミサマがやったのであろうとなかろうと、結局やめられなかったというのは、そういうことなのだろうと思ったのだ。
薫は騒ぎを知らず幸せそうに眠っている。その無邪気すぎる顔がいっそ憎らしいと思う。
そもそもなぜこのような事態に陥っているのかというと、薫が昨日に続いて瑛太の布団の上で眠ってしまったからである。
夕食後、冷房のきいた宇宙の部屋で、薫はハルさんの手帳、瑛太は日本書紀を読んでいたのだが、疲れていたのだろう。ハルさんのとりとめのない記録の書かれた手帳は、薫には睡眠薬のような作用を施してしまったらしい。一瞬目を離した隙に寝落ちしてしまっていたのだ。
眠っている人間ほど重いものはなく、瑛太と宇宙は薫をそこに放置することに決めた。昨晩と同じく、瑛太と薫の間に宇宙が眠ることで対処したのだ。というのも、冷房がある部屋が宇宙の部屋しかないからであった。
宇宙の証言によると、昨晩、瑛太は多少うろついたらしく、夢遊病を心配された。だが薫に対しては何もしていなかったから、宇宙が間にいれば今日も大丈夫だと思った。その油断が間違いの元だったようだ。
「ごめん、俺、部屋移るけど……宇宙兄、この部屋、鍵かからないわけ?」
宇宙は結局、あれ以上追及はしなかった。だが窺うような光は簡単には消えないだろう。
「鍵? そんなもん普通家につけないだろ。必要ないし」
瑛太は頭を抱えたくなる。事は結構深刻だ。滞在は五日。あと三日は、ここに世話になる予定なのだから。
「まあ、さっきみたいなことになったらまずいもんなあ。俺はいいけど母ちゃんと陸兄が切れる」
宇宙は軽く笑うが、次のときには、死を覚悟した方がいいと思う。この兄弟は粗雑に扱っているようで、薫のことをとても大事にしている。
(アイツ、早く追い出さないと、本気でヤバい)
やはりのんびりしすぎていたのではないかと後悔する。焦燥感が身を焼く。
「……寝ぼけてさっきみたいなことしたら、また取り押さえてもらえる?」
「任せておけ。薫はこれでも俺たち兄弟のお姫様だからな」
瑛太はほっと息をつくと、枕だけ持って部屋を移った。
よくよく考えると、最初から宇宙と薫が一つの部屋に寝るという配置にしていればよかったのだ。宇宙が守ってくれる限り、瑛太は薫に手を出せないのだから。
そう思いながら部屋に入った瑛太は、とたんに顔をしかめる。
薫の祖母が薫のために用意した部屋は、昔薫の母親が使っていたままらしく、カーテンはピンクだし、ぬいぐるみまで置いてある。パステルカラーのリネンに包まれて眠る自分を考えると頭が痛い。
ただ、薫がここに一度も寝ていないことは救いだった。薫が寝た布団では、とてもじゃないが眠れる気がしない。
ため息を吐くと布団に横になる。
冷房のない部屋は、昼間の熱気が未だ残っていた。
だが、電気を消し、年代物の扇風機を回すと、全開の窓からひんやりとした外の風が流れ込んでくる。
虫の声が大きい。月が出ているのか、空は明るい。瑛太は黙って目をつぶる。
瞼の裏には薫の寝顔が焼き付いている。
もし宇宙が止めていなくて。そして瑛太の暴挙を知ってしまったとしても、薫はきっと「カミサマのせいだから、気にしなくていいよ」などと言うのだろう。この間、瑛太の自宅の玄関で彼女の口をふさいだときのように、なんでもない顔をしてしまうのだろう。
あの時、いっそ奪ってやれば、男だとはっきり意識させられたのだろうか。
そう考えたけれど、瑛太は小さく首を横に振った。
もし、唇を塞いだのが瑛太の唇であったとしても、同じ反応が返ってきた気がする。瑛太が自分に手を出すなど、欠片も想像しないのだ。
『瑛太のせいじゃないって。ほら、犬に舐められたみたいなもんだよ』
そんな声が聞こえてきそうで、自らの妄想に傷をえぐられがっくりと沈み込む。
今のままでは、瑛太が何をしようとも薫に届くことはない気がした。
カミサマのせいだなどと言い訳できないように、早く全てを解決したいと思った。




