第1話「もう一度、生きる」
――午前6時17分。
鳥の鳴き声が聞こえる。
静かな風が、窓の隙間から部屋へ入り込んでくる。
そして――
「……ん」
少年はゆっくりと目を開けた。
「…………」
白い天井。
木造の壁。
見たことのない部屋。
少年はしばらく天井を見つめていた。
「……ここ、どこだ?」
身体を起こす。
その瞬間――
「……軽い」
違和感。
身体が異様なほど軽かった。
少年は自分の手を見る。
細い指。
小さな手。
「…………」
しばらく固まる。
そして――
「……子供?」
慌ててベッドから降りる。
しかし、足に力が入らず――
「うわっ!」
ドサッ!
床に倒れた。
「……痛っ」
少年は額を押さえながら立ち上がる。
「何なんだよ……」
部屋を見渡す。
鏡がある。
恐る恐る近づく。
そして――
鏡に映った自分を見た瞬間。
「…………誰だ、こいつ」
そこにいたのは、十五歳ほどの少年だった。
以前の自分とはまったく違う。
痩せた身体。
青白かった肌もない。
苦しそうな表情もない。
健康そのものだった。
少年は鏡に触れる。
「……これが、俺?」
その瞬間。
記憶が一気に蘇る。
三十五歳。
何も成し遂げられなかった人生。
いつか変わると思っていた。
明日になれば。
来月になれば。
いつか――。
そして。
人生は終わった。
「……俺、死んだんだよな」
静かな部屋に声だけが響く。
少年は目を閉じる。
「……そうだ」
死んだ。
なのに――
「なんで……生きてる?」
その時。
――コンコン。
ドアを叩く音がした。
「アルス?」
少年が振り返る。
「……アルス?」
ドアが開く。
一人の女性が入ってきた。
そして、少年を見ると――
「アルス!」
女性は驚いたように駆け寄ってきた。
「起きたのね……!」
「え?」
「本当に……よかった……!」
女性の目から涙がこぼれる。
少年は困惑した。
「えっと……」
女性は彼を抱きしめる。
「もう大丈夫よ……」
「…………」
少年は何も言えなかった。
知らない人。
知らない部屋。
知らない身体。
そして――
知らない人生。
――しばらくして。
「……つまり」
少年は椅子に座りながら話を聞いていた。
「俺……いや、アルスは病気だった」
「そうよ」
女性は頷いた。
「ずっと身体が弱くてね。昨日までほとんど起きられなかったの」
「……昨日まで?」
「ええ」
女性はアルスの顔を見る。
「でも、今朝起きたら……まるで別人みたいに元気になっていた」
「…………」
「だから、みんな奇跡だって言ってるわ」
アルスは自分の手を見る。
健康な身体。
自由に動く手足。
痛みのない身体。
「……奇跡、か」
女性は微笑んだ。
「そうよ」
アルスはしばらく黙っていた。
そして、小さく笑う。
「……そっか」
――奇跡。
前の人生では、一度も起きなかったもの。
それが今、自分の目の前にある。
「魔法」
朝食の席。
アルスは周囲を観察していた。
木造の家。
知らない食べ物。
知らない服。
そして――
「ほら、火をつけるわね」
女性が指を軽く動かす。
すると。
ポッ。
小さな炎が指先に灯った。
「…………」
アルスの目が見開かれる。
炎。
間違いない。
「……魔法?」
女性が首を傾げる。
「そうだけど?」
「…………」
アルスは黙り込む。
そして、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「魔法が……本当にあるのか?」
「もちろんあるわよ」
「誰でも使える?」
「基本的な魔法なら、ほとんどの人が使えるわ」
「魔物は?」
「いるわよ」
「王国は?」
「もちろんあるけど……」
「冒険者は?」
「いるけど……」
「ドラゴンは?」
「……アルス?」
「はい」
「あなた、本当に大丈夫?」
「…………」
アルスは真顔で答えた。
「たぶん」
女性は頭を抱えた。
――昼。
アルスは家の外へ出た。
太陽が眩しい。
風が気持ちいい。
街には人がいる。
子供たちが走っている。
商人が声を上げている。
魔法を使って荷物を運んでいる人もいる。
「…………」
アルスは立ち止まった。
ただの街。
ただの日常。
でも――
前の人生では、こんな光景すら遠かった。
「……すごいな」
自然と笑みがこぼれる。
「俺、本当に異世界に来たんだ」
その時。
一人の少年がアルスの横を走り抜けた。
「待てー!」
「捕まえてみろよ!」
「こらー!」
アルスはその光景を見つめる。
そして。
「……楽しそうだな」
小さく呟いた。
――その夜。
アルスは窓辺に座っていた。
月を見上げる。
前の世界とは違う月。
違う星。
違う空。
「……前の人生」
静かに呟く。
「俺はずっと……明日を待ってた」
「明日になれば変わる」
「いつか、本気を出せばいい」
「まだ時間はある」
アルスは目を閉じる。
「でも……」
拳を握る。
「明日は、何も変えてくれなかった」
しばらく沈黙する。
そして――
「だったら」
目を開く。
「今度は俺が変える」
立ち上がる。
「待つだけなんて、もうやめだ」
窓を開く。
夜風が顔に当たる。
「この人生は――」
アルスは空を見上げた。
「俺自身のものだ」
――翌朝。
「魔法を教えてください!」
「……急ね」
アルスは庭に立っていた。
目の前には家族。
「まずは簡単な魔法からね」
「はい!」
アルスは手を前に出す。
「……火!」
何も起こらない。
「…………」
もう一度。
「火!」
何も起こらない。
「…………」
さらに一度。
「火ぁぁぁぁ!」
「力みすぎよ」
「……はい」
アルスは肩を落とす。
「魔法って難しいんだな」
「最初は誰でもそうよ」
「……そうか」
アルスは手を見る。
「じゃあ、もう一回」
手を前へ。
集中する。
魔力を感じる。
――何かが動いた。
「……え?」
一瞬。
アルスの指先に、黒い光が走った。
しかし――
消える。
「…………」
「今、何か出た?」
「……分からない」
アルスは自分の手を見つめる。
「気のせい……かな」
誰も気づかなかった。
ただ一人。
アルス自身だけが感じていた。
胸の奥で。
何かが――
ほんの一瞬だけ反応したことを。
――数日後。
アルスは少しずつ新しい生活に慣れていった。
朝起きる。
食事をする。
魔法を練習する。
家族と話す。
街へ行く。
何気ない毎日。
けれど――
アルスにとっては、その一日一日が新鮮だった。
「……これが」
アルスは街を歩きながら呟く。
「普通の生活ってやつか」
その顔には笑顔があった。
――そして、その帰り道。
「アルス、少し離れるなよ」
「分かってるって」
森の近く。
突然――
ガサッ。
「……?」
アルスが振り向く。
茂みが揺れた。
「何かいる」
「下がれ!」
一匹の小さな魔物が飛び出してくる。
「――っ!」
アルスは驚いて後退する。
魔物が唸る。
しかし。
次の瞬間。
同行していた大人が魔法を放った。
「火炎弾!」
――ドンッ!
魔物は吹き飛び、動かなくなった。
アルスは呆然とする。
「…………」
「大丈夫か?」
「ああ……」
アルスは魔物を見る。
これが――
この世界の現実。
魔法もある。
魔物もいる。
そして。
「……怖いな」
初めて。
この世界がただの夢ではないと実感した。
その時。
魔物が僅かに動いた。
「……?」
アルスが近づく。
魔物の目が開く。
そして――
アルスを見る。
「…………」
魔物の身体が震えた。
「……え?」
アルスが一歩近づく。
魔物は――
一歩後ろへ下がった。
まるで。
何かを恐れているように。
「……どうした?」
魔物は小さく唸った。
しかし、アルスがもう一歩近づいた瞬間。
魔物は怯えるように身を縮めた。
「……変だな」
同行者が呟く。
「何が?」
「いや……」
その人物は魔物とアルスを交互に見る。
「……なんでもない」
アルスは首を傾げた。
「?」
――その夜。
静かな部屋。
アルスは眠っていた。
「…………」
窓から月明かりが差し込む。
風がカーテンを揺らす。
そして――
ドクン。
アルスの心臓が一度だけ強く脈打った。
「……ん」
眠ったまま、胸元を掴む。
「……熱い」
一瞬。
アルスの身体の奥で、何かが蠢いた。
けれど――
すぐに静かになる。
「…………」
アルスは再び眠りについた。
何も知らずに。
何も疑わずに。
ただ、二度目の人生を生きるために。
そして――
その夜。
遠く離れた場所で。
古びた石碑に刻まれていた文字が――
ほんの僅かに光った。
誰も気づかない。
誰も知らない。
何が起きたのかも。
なぜ光ったのかも。
ただ一つだけ。
世界のどこかで――
何かが、静かに目を覚まし始めていた。
次回予告
第2話「初めての魔法」
「俺も……魔法を使えるようになりたい!」
アルスの魔法修行が始まる。
しかし、何度練習しても魔法をまともに発動できない。
そんな中、アルスは自分の中にある「奇妙な感覚」に気づき始める。
――二度目の人生は、まだ始まったばかり。




