プロローグ ――世界の裏側で眠るもの
――この世界には、誰もが知ることのない「始まり」がある。
人々が魔法を使い、王国を築き、剣を振るい、神に祈るよりも遥か昔。
まだ大地に国境すらなく、現在の人類が生まれるよりも前。
世界には三つの存在がいた。
それらは神ではない。
人間でもない。
魔王ですらない。
――原初の存在。
その中でも、最も恐れられた者がいた。
その名は――
ベルゼブス。
「……くだらない」
暗闇の中で、一人の男が呟いた。
そこには空も、大地もない。
ただ黒い霧だけが広がっている。
男はゆっくりと歩いていた。
黒い髪。
鋭い瞳。
人間の姿をしている。
しかし、その存在から放たれる魔力は、人間という言葉では到底説明できるものではなかった。
一歩。
また一歩。
男が歩くたび、周囲の空間が歪む。
重力そのものが彼に従っていた。
「この世界は……あまりにも脆い」
男が右手を上げる。
すると、何もない空間に巨大な亀裂が走った。
――ゴゴゴゴゴ……。
大地が揺れる。
空間が軋む。
そして、男の背後に無数の魔法陣が浮かび上がった。
炎。
氷。
雷。
闇。
そして、名前すら知られていない禁忌の魔法。
男はそれらを見ても、興味を示さなかった。
「力を持つ者が世界を支配する」
「弱き者は強き者に従う」
「王は民を支配し、民は王に祈る」
「……そんなものが、世界の秩序だというのか?」
男は笑った。
その笑みには、喜びなどなかった。
ただ、世界そのものを嘲笑うような冷たさだけがあった。
「ならば――」
男の瞳が赤く輝く。
「その秩序ごと、壊してしまえばいい」
その瞬間。
空から巨大な光が落ちた。
――ドォォォンッ!!
男の足元が吹き飛ぶ。
だが、男は動かなかった。
ただ、空を見上げる。
「……来たか」
遠くから、二つの巨大な気配が近づいてくる。
一つ。
巨大な魔力をまとった存在。
そしてもう一つ。
その存在すら飲み込むような深い闇。
男は二つの気配を感じながら、静かに笑った。
「ニャル……」
「そして、タナトス……」
三つの原初が、同じ世界に存在していた。
その時代、人々はまだ知らなかった。
この三つの存在が、後の世界そのものを変えることを。
幾度もの戦いが起きた。
国が生まれた。
国が消えた。
魔族が生まれ、人間が増え、魔法という力が文明を発展させていった。
そして――
ある日。
ベルゼブスは、自らの死を悟った。
「……そうか」
長い沈黙の後。
彼は自分の胸に手を当てた。
そこには、強大な魔力が渦巻いている。
「俺も……ここまでか」
ベルゼブスは、自分の手を見つめた。
これまで数え切れないほどの命を奪ってきた。
数え切れないほどの魔法を生み出した。
世界を支配することさえできるほどの力を持っていた。
それでも――
死は、彼を例外にはしなかった。
「……ならば」
彼は静かに目を閉じた。
「俺の力が消える必要はない」
次の瞬間。
世界中で異変が起きた。
山脈の奥深く。
海の底。
古代遺跡。
忘れ去られた神殿。
そして、人々が決して足を踏み入れることのできない場所。
――そこへ、ベルゼブスの力が散っていった。
一つ。
また一つ。
彼の身体に存在していた力が、世界各地へと分散されていく。
「いつか……」
ベルゼブスは呟く。
「俺の力を受け入れられる器が現れる」
「その時――」
彼の口元が僅かに上がった。
「俺は、もう一度この世界に戻る」
その言葉を最後に。
ベルゼブスの姿は消えた。
だが――
彼の消滅によって、世界に平和が訪れたわけではない。
むしろ。
それは、新たな時代の始まりだった。
ベルゼブスが消えた後。
残された二つの原初。
ニャル。
タナトス。
二人は世界の深淵へと姿を消した。
そして、やがて人々はその場所をこう呼ぶようになった。
――冥界。
そこは、生者の世界とは異なる場所。
光の届かない世界。
悪魔たちが支配する世界。
そして、その最深部には――
二人の原初が封じられた。
「……封印する」
一人の老人が震える声で呟いた。
目の前には巨大な門があった。
門には十二の紋章が刻まれている。
星。
月。
獣。
鳥。
蛇。
そして、人間には理解できない奇妙な形をした星々。
十二の紋章が、巨大な円を形成していた。
――十二星座の封印。
「この封印がある限り……奴らは出てこない」
老人の隣に立つ少女が尋ねる。
「……本当に?」
「何がだ?」
「この封印は……永遠に続くの?」
老人は答えなかった。
ただ、十二の星を見つめた。
そして、しばらくしてから口を開く。
「……永遠など、この世界には存在しない」
少女の顔が青ざめる。
「では……」
「封印を破る方法はある」
「どんな方法?」
老人は静かに答えた。
「二つの力が必要だ」
「一つは――星座魔法」
「そして、もう一つは――闇魔法」
少女は息を呑んだ。
「そんな魔法を使える人間なんて……」
「滅多に現れん」
老人は十二の星を見上げる。
「それらの力を持つ者が現れるのは――」
一瞬、風が吹いた。
「一万年に一度」
――静寂。
「……もし、その二人が現れたら?」
老人は答えなかった。
ただ、門の向こうを見つめた。
その奥から。
何かが――
こちらを見ているような気がした。
そして時代は流れた。
原初の存在たちは伝説になった。
ベルゼブスは神話になった。
ニャルとタナトスは悪魔たちの王として語り継がれた。
そして、彼らの力の一部を宿した者たちは――
魔王と呼ばれるようになった。
魔王たちは、自らの力を完全には制御できなかった。
強大な力は、宿主の魂を少しずつ侵食する。
怒り。
憎しみ。
欲望。
絶望。
その感情が増幅されるほど、力は強くなっていく。
だから人々は恐れた。
魔王を。
悪魔を。
そして――
それらに対抗する者を。
「……選ばれた」
一人の少年が鏡を見つめていた。
その右目に、奇妙な紋章が浮かんでいる。
「これ……何?」
周囲にいた大人たちは、誰も答えられなかった。
少年の目に刻まれた紋章は、星の形をしていた。
一つ。
二つ。
三つ。
まるで夜空そのものが、瞳の中に宿っているようだった。
その日から。
彼はこう呼ばれるようになった。
――パラディン。
運命によって選ばれた者。
魔王と対等に戦うことのできる存在。
そして世界は、再び動き始めた。
しかし。
これは、世界を救う英雄の物語ではない。
少なくとも――
最初は。
「……死んだ、のか?」
男は暗闇の中にいた。
何もない。
音もない。
ただ、自分の意識だけが残っている。
「俺……死んだんだよな」
返事はない。
男は目を閉じた。
最後に何をしていたのか。
何を食べたのか。
誰と話したのか。
そんなことさえ、もうどうでもよかった。
三十五年。
長かったようで。
短かった。
「……結局」
男は小さく笑った。
「何もできなかったな」
夢はあった。
やりたいこともあった。
行きたい場所もあった。
誰かと笑いたかった。
普通の人生を送りたかった。
けれど――
いつも何かを理由にして、先延ばしにした。
「いつかやればいい」
「まだ時間はある」
「明日から変わればいい」
そう思っているうちに。
人生は終わった。
「……馬鹿みたいだ」
男の声が震える。
「もし……」
暗闇の中で、彼は呟いた。
「もし、もう一度だけ……」
その瞬間。
――光が生まれた。
「……え?」
眩しい。
あまりにも眩しい。
暗闇を埋め尽くすほどの光。
男は思わず目を閉じた。
そして――
誰かの声が聞こえた。
『――人生を、やり直したいか?』
男は目を見開いた。
「……誰だ?」
返事はない。
『――今度こそ、自分の人生を生きるか?』
男はしばらく黙っていた。
そして。
ゆっくりと笑った。
「……そんなの」
拳を握る。
「決まってるだろ」
光がさらに強くなる。
「――生きたい」
その瞬間。
世界が――
白く染まった。
「――ッ!」
男は勢いよく目を開いた。
「……っ、はぁ……!」
荒い呼吸。
心臓の鼓動。
風の音。
鳥の鳴き声。
「……ここ……どこだ?」
男は起き上がろうとした。
だが――
「……あれ?」
身体が軽い。
あまりにも軽い。
自分の手を見る。
小さい。
細い。
そして――
「……子供?」
そこにあったのは、十五歳ほどの少年の手だった。
「なんだ……これ」
男は混乱した。
記憶はある。
自分が死んだことも。
三十五歳だったことも。
そして――
もう一度、生きたいと願ったことも。
「まさか……」
彼は周囲を見渡した。
見たことのない部屋。
木製の家具。
窓。
壁に掛けられた古いランプ。
そして、窓の外。
そこには――
巨大な木々。
見たことのない鳥。
そして、空を飛ぶ何か。
「…………」
男は数秒間、固まった。
「……異世界?」
その言葉が口から漏れた。
すると。
胸の奥で――
ドクン。
心臓が、一度だけ強く脈打った。
「……っ!」
男は胸を押さえた。
一瞬。
自分の身体の奥に――
何か別のものがいるような感覚がした。
しかし。
次の瞬間には消えていた。
「……気のせいか」
男は深く息を吐く。
そして、窓に映った自分の姿を見る。
十五歳ほどの少年。
健康な身体。
以前とは比べものにならないほど軽い身体。
「……俺、本当に……」
鏡の中の少年を見つめる。
そして――
小さく笑った。
「……生きてる」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
男は拳を握る。
「今度は……」
窓の外を見る。
知らない世界。
知らない空。
知らない未来。
それでも。
「今度は、後悔しない」
少年は立ち上がった。
「待ってるだけの人生なんて――もういらない」
そして。
新しい人生を始める少年の名前は――
アルス・エイサク。
その日。
世界の誰も知らないところで。
一人の少年が生まれ変わった。
そして同時に――
遥か昔に消えた存在の「何か」が。
再び、この世界で静かに鼓動を始めた。
――ドクン。
世界はまだ、それに気づいていない。
だが。
いずれ。
人々は知ることになる。
少年の中に眠るものが――
この世界の歴史そのものを揺るがす存在へと繋がっていることを。
そしてアルス自身も、まだ知らない。
この二度目の人生が。
彼がかつて失ったものを取り戻す物語であると同時に――
世界の深淵に眠る「何か」と向き合う物語になることを。
――これは、人生をやり直す一人の男の物語。
『エレバス ― 異世界で人生を書き直す ―』
第一章へ――。




