学院祭
学院祭当日の朝、王立学院は普段とはまるで違う場所になっていた。正門から校舎へ続く道には各学級が作った看板が並び、中庭には簡易舞台まで設置されている。招待客を乗せた馬車も次々と到着し、開場前から学院全体が賑やかな空気に包まれていた。
シオンたちの教室でも、最後の準備が進んでいる。厨房では《春包み》の具材を用意し、教室側では会計用の木札や包装紙を確認する。何度も模擬営業をしたおかげで、誰が何を担当するか迷う者はいなかった。
「材料は予定通り。釣り銭も木札も問題なし。最初の二時間はこの人数で回して、混雑具合を見て交代時間を調整しよう」
ノアが帳面を閉じると、ディランが待ちきれない様子で厨房を覗き込んだ。すでに甘辛く焼かれた鶏肉の香りが漂っており、朝食を済ませてきたはずの生徒まで何度もそちらを見ている。
「なあ、開店前に一個くらい食べてもいいよな? 味の最終確認って必要だろ?」
「さっき担当者が確認したから必要ない。それに一人を許したら、全員が食べ始めるだろう」
ヴァルターに即座に止められ、ディランは露骨に肩を落とした。以前ならこの二人が言い合えば少し険悪な空気になったものだが、最近では周囲も完全に慣れている。
シオンは入口付近から教室全体を見渡した。注文場所と受け取り場所を示す案内板もあり、客が一方向へ進めるよう机の配置も変えてある。少なくとも、今になって直すべき場所は見当たらなかった。
「シオン、そろそろ開場ですよ」
セレナに声を掛けられ、シオンは入口から離れた。彼女も今日は接客担当で、学院の制服にクラスで揃えた簡素な前掛けを身につけている。
「緊張してる?」
「少しだけ。でも、楽しみの方が大きいです。シオンは随分と落ち着いていますね」
「何回も練習したからね。失敗したとしても学院祭なんだし、店が潰れて生活できなくなるわけじゃないから」
口にしてから、シオンは自分の基準がおかしいことに気づいた。一度目の人生で小さな店を経営していた頃なら、一日の売上が生活へ直接響いていたが、今日は学生の行事に過ぎない。
セレナも妙な言い方だと思ったのか、少し首を傾げている。
「ずいぶん現実的な考え方ですね」
「母上の影響ってことにしておいて」
「便利ですね、エレノア様」
二人で笑っているうちに、学院祭の開始を知らせる鐘が鳴った。
十四歳の学院祭が始まった。
最初の客は、同じ学院の下級生たちだった。
珍しい料理を販売しているという話が準備期間中から広がっていたらしく、開店からそれほど経たないうちに十人ほどが教室へ入ってくる。模擬営業で経験した人数なので、最初は問題なく対応できた。
「《春包み》を一つですね。先にこちらで代金をお願いします。その木札を奥の受け取り場所へ持っていってください」
ノアが会計を進め、その隣でシオンが木札を渡す。厨房から運ばれてきた料理をセレナたちが包装し、客へ手渡していく。ディランは厨房と教室を往復し、ヴァルターは不足している材料がないか確認していた。
一人目の客が《春包み》を口にすると、すぐ近くにいた友人が感想を尋ねた。
「美味しい。これ、初めて食べたけど、中の肉と生地が合うよ」
その声が聞こえた瞬間、厨房側で様子を窺っていた生徒たちの表情が明るくなった。試食では何度も美味しいと言われていたが、何も知らない客から評価されるのはやはり違う。
シオン自身も少しだけ安心した。
未来で流行していた料理を参考にはしたものの、今販売している《春包み》は皆で作り直した料理だ。それが知らない相手にも受け入れられたことが、思っていた以上に嬉しかった。
開店から一時間ほど経つと、状況が変わった。
「シオン、次が五個! その後に三個!」
「分かった! 厨房へ五個追加!」
教室の外まで客が並び始めていた。
どうやら最初に購入した生徒たちが友人へ話したらしく、口コミで客が増えている。さらに片手で食べられるため、他の出し物を見て回りながら食べられることも好評だった。
シオンは会計を手伝いながら列の進み方を確認した。模擬営業より客は多いが、準備した手順が機能しているため、大きな混乱は起きていない。
「ノア、まだ材料は大丈夫?」
「午前中の分は問題ない。ただ、午後もこのペースなら予定より早くなくなるかもしれないね」
「追加できる?」
「多少なら。でも、売り切れるくらいでいいと思う。学院祭で無理に利益を増やす必要もないし」
ノアがそう判断したので、シオンも賛成した。未来の料理だからと大量に売る必要はない。今日の目的は商売ではなく、あくまで学院祭を楽しむことだ。
ところが、その考えを忘れかけている男が一人いた。
「ディラン! お前、今食べただろ!」
ヴァルターの声が厨房から響き、教室にいた何人かが振り返った。少しして、口を動かしているディランが気まずそうな顔で現れる。
「違う! 形が崩れたから商品にできなかったんだ! 捨てるより食べた方がいいだろ!」
「それで今日何個目だ?」
「……二個目だ」
「四個目だ。俺は見ていたぞ」
周囲から笑いが起こり、ディランが悔しそうにヴァルターを睨む。シオンも笑ってしまったが、商品として出せないものだけを食べているなら、そこまで厳しくする必要もない。
「まあ、廃棄するよりいいよ。ただし、それを理由にわざと崩すのは禁止ね」
「俺を何だと思ってるんだよ!」
「《春包み》を一番食べてる人」
ノアが横から答えたため、再び笑いが広がった。
忙しいことに変わりはない。それでも誰かが怒鳴り続けるような慌ただしさではなく、失敗さえ笑える程度の忙しさだった。
昼が近づいた頃、入口付近が急に騒がしくなった。
シオンが顔を上げると、見覚えのある一団が教室へ入ってくる。父と母、その後ろにはレオンとリシアがいた。
「本当にお店になっているのね。思っていたより本格的だわ」
エレノアは教室を見回した後、すぐに《春包み》を作っている厨房へ視線を向けた。息子の学院生活を見に来た母親というより、新商品を確認しに来た商人のような目をしている。
「母上、今日は商談禁止だからね」
「まだ何も言っていないでしょう?」
「その顔を見れば分かるよ」
シオンが警戒すると、エレノアは楽しそうに笑った。父も教室の作りを興味深そうに眺めており、レオンは会計をしている弟の姿が珍しいのか、しばらく黙って見ている。
「シオン、随分と慣れているな。学院で会計の授業でも始まったのか?」
「ノアに教えてもらったんだよ。あとは母上の商売を見てたから」
「便利ね、私」
エレノアに言われ、シオンは思わず視線を逸らした。どうやらセレナへ使った説明まで見抜かれた気がする。
そのセレナは接客担当としてアルヴェリア家の面々を迎えていた。
「いらっしゃいませ。四つでよろしいですか?」
「私は一つでいいわ。あなたたちも食べるでしょう?」
エレノアが家族へ確認すると、全員が注文することになった。シオンが木札を渡そうとしたところで、リシアがわざわざセレナのいる受け取り場所を確認し、意味ありげに弟を見る。
「へえ。セレナちゃんと一緒にお店をやってるのね」
「同じクラスだから当然だろ」
「そうね。何もおかしくないわね」
「その言い方、絶対何かあるだろ」
リシアは答えず、受け取った木札を持ってセレナのところへ向かった。直後に二人が何かを話して笑っていたため、シオンは嫌な予感がしたものの、客が来たので追及できなかった。
家族が《春包み》を食べ終えた頃、エレノアがシオンを呼んだ。
「美味しかったわ。あなたが未来で食べたものと同じなの?」
「結構変わってるよ。最初は再現しようとしたんだけど、材料も作り方も分からない部分が多かったから、途中からみんなで美味しいものを作る方向になった」
「それで正解だと思うわ。未来で売れたものを、そのまま今へ持ってくれば必ず売れるなんて保証はないもの」
エレノアはそう言ってから、残っていた《春包み》をもう一口食べた。商売へ使うかどうか聞かれると思っていたシオンだったが、母は意外にもそれ以上踏み込まなかった。
「今日はあなたたちの学院祭でしょう? 商売の話は帰ってからにしましょう」
「やっぱり帰ったらするんだ」
「もちろん」
シオンが苦笑すると、父まで小さく笑った。
家族はその後、別の展示を見るため教室を出ていった。去り際にリシアだけがセレナへ何か囁き、彼女の頬が少し赤くなったように見えたが、今度も内容までは聞こえなかった。
午後になると、シオンたちは予定通り交代時間へ入った。
売れ行きが予想以上だったため残りの材料は減っているものの、午後の担当者だけでも十分に回せる。ノアは最後まで残ろうとしたが、クラスの生徒から半ば強制的に追い出された。
「僕は売上の集計をした方がいいと思うんだけど」
「閉店してからでいいだろ。せっかくの学院祭なんだから、少しくらい遊ぼうよ」
シオンが背中を押すと、ノアは未練がましく会計箱を振り返った。それを見たディランが呆れた顔をしながら、今度はノアの背中を押す。
「行くぞ! 他のクラスにも食い物があるんだからな!」
「君はさっきまで散々食べてたでしょう!」
「他の店の料理は別腹だ!」
二人が騒ぎながら廊下へ出ていき、ヴァルターも少し離れて後を追う。セレナは前掛けを外してから、シオンの隣へ並んだ。
「私たちも行きましょうか」
「そうだね。せっかくだし、全部は無理でも気になるところを見て回ろう」
教室を出ると、午前中よりさらに多くの人が廊下を歩いていた。演劇の衣装を着た生徒、研究展示の案内板を抱えた生徒、両手に食べ物を持ったディランのような者までいる。
シオンたちは最初に中庭へ向かった。
そこでは上級生による魔法演舞が行われており、色とりどりの魔法が空へ打ち上げられている。攻撃魔法を競う授業とは違い、威力を抑えながら形や色を制御する演目らしい。
「綺麗ですね。あれなら私もやってみたいです」
「セレナなら普通にできそうだね」
「簡単ではありませんよ。威力を出す方が、細かく形を保つより楽な場合もありますから」
セレナは魔法演舞を見ながら楽しそうに説明した。シオンには実践できない話だが、彼女が好きなことについて話しているのを聞くのは嫌いではない。
少し先ではディランが別の屋台を見つけ、ノアを連れて走っている。ヴァルターは呆れながらも結局ついていき、いつの間にか四人の距離が離れていた。
「追いかけますか?」
「場所は分かってるし、あとで合流すればいいんじゃない? ディランの食べ歩きに全部付き合ったら、夕食が入らなくなるよ」
「それもそうですね」
二人はそのまま中庭を歩いた。
特別な目的があるわけではない。面白そうな展示があれば立ち寄り、知り合いのクラスを見つければ挨拶する。途中で小さな焼き菓子を一つ買い、半分ずつ味見した。
シオンにとっては、それだけで十分に新鮮だった。
一度目の人生にも学院祭はあったはずなのに、こんなふうに誰かと歩いた記憶はない。周囲と距離を取り、自分には関係ない行事だと思っていたのだろう。
「シオン、楽しいですか?」
突然セレナに尋ねられ、シオンは少しだけ驚いた。
「楽しいよ。どうして?」
「さっきから、時々不思議そうに周りを見ていますから。何か考えているのかと思いました」
「昔なら、こういうのを楽しめなかったかもしれないって思ってただけ」
未来視を知っているセレナには、それだけでもある程度意味が伝わったらしい。彼女は詳しく聞こうとはせず、少しだけ歩く速度を緩めた。
「では、今日はたくさん見て回りましょう。まだ時間はありますから」
「そうしようか」
シオンも歩調を合わせた。
未来を変えたから学院祭が楽しくなったのか、それとも自分自身が変わったからなのか。おそらく、その両方なのだろう。
夕方が近づいた頃、シオンたちは教室へ戻った。
入口にはまだ数人の客がいたものの、厨房から漂う香りは朝より弱くなっている。残っていた材料を確認したノアが、帳面を見ながら嬉しそうに振り返った。
「あと十二個で終わり。追加分までほとんど売れたよ」
「本当に?」
「計算間違いじゃなければ、予想よりかなり多い。利益も出てるけど、それより売れ残りがほとんどないのがいいね」
ノアの報告を聞き、クラスの生徒たちから歓声が上がった。午前中から厨房に立っていた者も、装飾を担当した者も、それぞれ満足そうな顔をしている。
最後の十二個もほどなく売れ、学院祭終了を待たずして《春包み》は完売した。
「終わったあ!」
ディランが大きく伸びをすると、ヴァルターがすぐ隣で顔をしかめた。
「まだ片付けが残っている。勝手に終わらせるな」
「今日くらい余韻に浸らせろよ!」
「片付けながら浸れ」
結局、最後まで二人の調子は変わらなかった。
シオンも笑いながら机を運び始めた。疲れてはいるが、不思議と嫌な疲れではない。何日もかけて準備したものが終わる寂しさと、無事に終えられた満足感が混ざっている。
未来で流行する料理を思い出したところから始まった学院祭だった。
けれど、今日売った《春包み》は未来の料理そのものではない。名前も味も作り方も、自分たちで変えてしまった。
未来の知識を使えば、未来と同じものが生まれるわけではない。
今を生きている人間が手を加えれば、そこから別のものが生まれる。
シオンは空になった材料箱を畳みながら、そのことを少し面白く感じていた。
片付けが終わる頃には、窓の外が夕日に染まり始めていた。
クラスの生徒たちは明日の最終確認だけ済ませ、それぞれ寮や自宅へ戻っていく。ディランとノアも先に教室を出て、ヴァルターは忘れ物がないか最後まで確認してから後を追った。
シオンが残った紙をまとめていると、隣でセレナも装飾を箱へ戻していた。
「終わってしまいましたね」
「始まったら早かったな。準備してる時間の方がずっと長かった気がする」
「私は準備も楽しかったですよ。失敗した料理を何度も食べましたけれど」
「最初の生地、硬かったよね」
思い出して二人で笑った。
窓の外からは、まだ学院祭を楽しむ人々の声が聞こえている。教室の中だけが少しずつ静かになり、朝から続いていた騒がしさが嘘のようだった。
「シオン。来年も、何か一緒にできるといいですね」
セレナは片付けていた手を止めず、何気ない調子でそう言った。
「もちろん。来年はもっと楽な出し物にしよう。飲食店、思ったより大変だったから」
「もう、そういう意味ではありません」
少し呆れた声が返ってきたが、セレナは笑っていた。
シオンには、その言葉に別の意味があったのか分からない。
ただ、来年も同じように友人たちと笑っていられれば、それで十分だと思った。
十四歳の学院祭は、大事件も起こらず、誰かの運命を救う必要もなく、賑やかなまま終わろうとしていた。
そしてシオンはまだ知らない。
この一年の後半には、六十年の人生で一度経験したはずの場所へ、十四歳の自分としてもう一度足を踏み入れることになる。
今度は一人ではなく、友人たちと共に。




