開店準備
最初の試作から十日ほどが経ち、シオンたちの料理はようやく学院祭で販売できそうな形へ近づいていた。薄く焼いた柔らかな生地に、甘辛く味付けした鶏肉と刻んだ野菜を包み、最後に少量の調味液を加える。未来でシオンが食べていたものとは少し違うが、クラスの生徒たちが何度も試作を重ねた結果、むしろ現在の材料にはこちらの方が合っているようだった。
問題は、美味しい料理が完成したからといって、それだけで学院祭に店を出せるわけではないことだった。少人数で十個作るのと、何十人もの客を相手に同じ品質の商品を作り続けるのでは、必要になる準備がまるで違う。
「一個作るのに今のやり方だと結構時間がかかるね。学院祭当日に同じことをやったら、たぶん客を待たせすぎると思う」
放課後の教室でシオンがそう言うと、机の上に帳面を広げていたノアが頷いた。今日集まっているのは試作に参加してきた生徒たちで、料理そのものではなく、当日の運営方法を決めるための話し合いだった。
「僕もそこが気になってた。注文を受けてから生地を焼いて、肉を焼いて、野菜を切っていたら間に合わない。ある程度は事前に準備しておかないと駄目だろうね」
「だったら全部先に作って並べておけばいいんじゃないか? 客が来たら渡すだけなら早いだろ」
ディランが簡単そうに言ったものの、シオンは首を横へ振った。未来で屋台から買った時の記憶でも、あの料理は温かい状態で食べた方が圧倒的に美味しかった。
「完成させて長時間置くと、生地が具材の水分を吸うと思う。それに肉も冷めるから、途中まで準備して最後だけ注文後にやった方がいいよ」
「途中までって、どこまでだ?」
「野菜は切っておく。肉もある程度まとめて調理して、冷めないように保温する。生地も全部その場で一枚ずつ焼く必要があるか確認したい。最後に具材を包む担当を置けば、かなり早くなると思う」
シオンが答えると、何人かの生徒が不思議そうにこちらを見た。料理そのものの知識なら未来で食べた経験として誤魔化せるが、店の回し方まで妙に詳しい十四歳の侯爵令息は、さすがに少し不自然だったらしい。
その視線に最初に気づいたのはノアだった。
「シオンって、こういう時だけ僕より商人っぽくなるよね。前から思ってたけど、客を待たせない方法とか在庫の置き方を考えるのが妙に早いんだよ」
「褒められてると思っていい?」
「半分はね。残り半分は、侯爵家で何を教わったらそうなるんだろうって疑問かな」
ノアが笑いながら答えたため、周囲の空気も軽くなった。シオン自身には答えようがない。商会勤めをした後に小さな店まで経営していたとは、当然ながら説明できなかった。
「母上が商売好きだから、その影響ってことにしておいてよ。それより、実際に一度やってみない? 客役も作って、十人くらいが一気に注文した時に何分かかるか測ればいい」
「それは面白そうですね。料理の味だけではなく、学院祭当日の練習にもなりますし」
セレナが賛成すると、他の生徒たちも次々に頷いた。こうして次の休日には、調理実習室を使った二度目の大規模な試作が行われることになった。
休日の朝、調理実習室へ入ったシオンは、前回とは明らかに違う光景を目にした。調理台の上には材料だけでなく、木製の札や紙袋、釣り銭を入れる箱まで並べられている。
「……ノア、これは試作だよね?」
「もちろん。ただ、どうせなら会計まで練習した方がいいと思ってさ。今日は本番と同じように注文を取って、商品を渡して、代金を受け取るところまでやってみよう」
ノアは楽しそうに説明しながら、小さな木札を一枚持ち上げた。札には商品一個分を示す印が付けられており、注文を受けた客へ渡す仕組みらしい。
「先に会計を済ませて札を渡す。受け取り場所で札と商品を交換するんだ。そうすれば、料理を作る人が金銭を触らなくて済むし、誰が支払い済みなのかも分かりやすい」
「いいと思う。混んできた時にも注文数を把握しやすいしね」
シオンが素直に感心すると、ノアは満足そうに笑った。店を経営した経験があるシオンでも、学院祭という限られた条件ならノアの方が柔軟な案を出すことも多い。未来の大商人という肩書きを抜きにしても、商売そのものが好きなのだろう。
その一方で、部屋の奥ではディランが大量の材料箱を運んでいた。前回の試作で力仕事に向いていると判明した結果、本人の希望とは関係なく搬入担当の中心にされている。
「おいシオン! 見てないで一箱くらい手伝ってくれ!」
「俺よりディランが持った方が早いよ。適材適所って大切だから」
「お前、自分が非力なのを便利な言葉で正当化するなよ!」
文句を言いながらも、ディランは両腕に箱を抱えて軽々と運んでいく。シオンが同じ量を持てば途中で休憩が必要になるので、実際に適材適所なのは間違いなかった。
そこへヴァルターが紙の束を持って現れ、材料箱を置く位置についてディランへ指示を出した。昨日のうちに調理室の配置を確認し、当日に人がぶつからないよう動線まで考えてきたらしい。
「肉は奥へ持っていけ。そこに置いたら生地を運ぶ人間の邪魔になる。それと空箱は入口付近へ積むな。客役が入ってきた時に通れなくなるだろう」
「お前、なんでそんなに細かいんだよ。学院祭だぞ?」
「学院祭だからだ。やると決めた以上、中途半端にする方が気持ち悪い」
ヴァルターは当然のように答え、次の箱の位置まで確認し始めた。最初は飲食店そのものに反対していたはずなのに、今では誰より真面目に準備している。
シオンとノアが顔を見合わせていると、ヴァルターがこちらを睨んだ。
「何だ、その顔は?」
「いや、頼りになるなと思って」
「だったら笑うな」
「笑ってないって」
実際には少し笑っていたが、追及される前にシオンは調理台へ向かった。
午前中は、本番を想定した大量調理の確認から始まった。前回決めた配合を基準に、生地をまとめて作り、肉も一度に多く調理する。ところが量が増えただけで、今まで問題にならなかった部分に次々と不都合が出てきた。
生地は一度に作りすぎると厚さにばらつきが出て、肉は鍋へ入れすぎると火の通り方が変わる。野菜も大量に刻めば水分が出やすくなり、長時間置いたものほど食感が落ちてしまう。
「十個作る時と百個作る時では、同じやり方が通用しないんですね。料理だけでなく、準備する順番まで考え直した方がよさそうです」
セレナは出来上がった生地を確認しながら、隣の生徒と厚さを比べていた。魔法なら非常に細かな制御ができる彼女でも、麺棒を使って生地を均等に伸ばす作業にはまだ慣れていない。
「セレナ、魔法で全部同じ厚さにできたりしない?」
「できますけれど、それを始めると私が休憩できなくなりませんか?」
「……確かに」
「学院祭なのですから、私もお店を見て回りたいです」
少しだけ不満そうに言われ、シオンはすぐに提案を撤回した。便利だからとセレナへ何でも任せてしまえば、彼女だけが一日中働くことになる。
そこで木の板を二本用意し、その間へ生地を置いて伸ばす方法を試すことになった。板の厚さを揃えておけば、誰が作業しても極端な差が出にくい。完全に同じにはならないものの、学院祭の商品としては十分だった。
「これなら私がいなくても大丈夫ですね。シオン、当日に私だけ厨房へ閉じ込めようとしたら怒りますからね」
「しないって。俺だって学院祭を見て回りたいし、全員交代制にしよう」
「それなら賛成です。せっかくですから、一緒に回れる時間もあると嬉しいですね」
セレナは自然にそう言ってから作業へ戻ったが、シオンは少しだけ言葉の意味を考えた。二人で回りたいという意味なのか、いつもの友人たち全員でという意味なのか判断できない。
聞き返そうとしたところで、反対側の調理台から大きな音が響いた。
「ディラン! 鍋を持ち上げる必要はない! 台ごと移動させろ!」
「こっちの方が早いだろ!」
「床に落としたら全部終わりだと言っている!」
ヴァルターの怒鳴り声が飛び、シオンは考えるのをやめた。どうやら今は、恋愛らしき何かより料理を無事に完成させる方が重要らしい。
昼前には、いよいよ模擬営業を始めることになった。調理担当と接客担当を分け、参加していない生徒や教師に客役を頼み、短時間に注文が集中する状況を作る。
シオンは最初、厨房側へ入るつもりだった。しかしノアから全体を見る役を頼まれ、調理室と受け渡し場所の間に立つことになった。
「始めます! 最初は十人、間を置かずに注文してください!」
ノアの合図で客役が動き始める。会計担当が代金代わりの札を受け取り、木札を渡す。そこまでは順調だったが、五人目が注文した頃には受け渡し場所に列ができ始めた。
シオンは原因を探し、すぐに気づいた。料理そのものは出来上がっているのに、具材を包む担当が一人しかいない。
「包む担当をもう一人増やそう。セレナ、今だけこっちを手伝って! ディランは完成した料理を受け渡し場所まで運んで!」
「分かりました。具材の量はこれくらいですね?」
「そう。それで統一して!」
セレナが加わると、詰まっていた料理が一気に流れ始めた。ところが今度は会計側で木札が足りなくなり、ノアが慌てて予備を取りに走る。
「ノア、最初から全部出しておいた方がいいんじゃない?」
「紛失が怖かったんだけど、この人数で足りないなら本番はもっと必要だね。枚数そのものを増やそう!」
模擬営業は予定していた時間を大幅に超え、最後の客へ料理を渡した頃には全員が疲れていた。それでも、一回やっただけで問題点がいくつも見つかったのは大きな収穫だった。
シオンは紙へ改善点を書きながら、どこか懐かしい気分になっていた。小さな店を始めたばかりの頃も、似たような失敗を何度も経験した。商品を置く場所が悪くて客を待たせたり、釣り銭が足りなくなったり、仕入れすぎた商品を抱えて頭を悩ませたりしたものだ。
あの頃は失敗するたびに生活が懸かっていたため、笑って済ませる余裕などなかった。今は友人たちと失敗を笑いながら、次はどうすればいいか相談できる。
同じような経験でも、随分と違うものだった。
休憩を挟んだ後、今度は担当を入れ替えて二回目の模擬営業を行った。先ほどの問題を修正し、具材を包む担当を二人に増やし、木札も最初から十分な数を用意する。
さらにヴァルターの提案で、調理済みの肉と野菜を置く場所を受け渡し側へ少し近づけた。わずかな変更だったが、料理を運ぶ距離が短くなったことで作業は明らかに速くなった。
「次、三つです! その次が二つ!」
接客側に回ったセレナが厨房へ注文数を伝える。普段の落ち着いた声がよく通るため、周囲が騒がしくても聞き取りやすい。本人も接客を楽しんでいるらしく、客役の生徒へ笑顔で商品を渡していた。
一方のシオンは会計を担当していた。木札と代金代わりの札を交換しながら、客が途切れた瞬間に手元の数を確認する。久しぶりの感覚だったが、身体は意外なほど手順を覚えていた。
「シオン、速くない? さっきから一回も数え直してないよね」
隣で補助をしていたノアに指摘され、シオンは一瞬だけ手を止めた。無意識に昔の店でやっていた方法を使っていたらしい。
「同じ金額の商品だけなら難しくないよ。受け取った分を途中で分けず、一定数ごとにまとめておけば確認しやすいから」
「なるほど。だったら本番もその方法にしよう。誰でもできるように、手順を書いておけばいいね」
ノアは疑うより先に方法を吸収し、すぐ自分の帳面へ書き込んだ。シオンは内心で少し安心しながら、再び客役へ木札を渡していく。
二回目の模擬営業は、一回目の半分近い時間で終わった。
「やった! 今度は待たせなかったぞ!」
最後の商品を運んだディランが嬉しそうに声を上げる。本人は調理より運搬の方が忙しかったはずだが、それでも店全体が上手く回ったことが嬉しいらしい。
「まだ客役が少ない。本番はこの倍以上が一度に来る可能性もあるから、喜ぶのは早いぞ」
「ヴァルター、お前はもうちょっと達成感ってものを味わえよ!」
「達成感と反省は両立するだろう」
いつもの調子で言い合いを始めた二人を見て、周囲から笑いが起きた。シオンも笑いながら記録用紙へ最後の数字を書き込み、今日の練習を終えた。
午後は教室へ移動し、店舗の飾り付けを決めることになった。料理を作る場所とは違い、こちらでは普段あまり目立たない生徒たちも積極的に意見を出している。
店の名前については最後まで意見が割れた。未来で料理が何と呼ばれていたのか、シオン自身がはっきり覚えていなかったため、最終的にはクラスで新しい名前を付けることになった。
「包んで焼くんだから、《包み焼き》でいいんじゃないか?」
ディランの案は分かりやすかったが、ノアから「そのまますぎる」と却下された。ヴァルターも珍しくノア側へ付き、もう少し学院祭らしい名前にすべきだと言い出す。
何人かが候補を出した末、最終的には《春包み》という名前に落ち着いた。季節そのものは学院祭の開催時期と合わないが、十四歳の春から試作を始めた料理という意味を込めた名前だった。
「未来では別の名前だったのでしょうか?」
話し合いが終わった後、セレナが小さな声で尋ねてきた。秘密を知らない生徒たちには聞こえないよう、シオンも声を落として答える。
「たぶんね。でも、もうこっちの方がいい気がする。未来の料理をそのまま作ったわけじゃないし、みんなで変えた部分の方が多いから」
「では、これは未来の料理ではなく、私たちの料理ですね」
「そういうことになるかな」
セレナの言葉に、シオンは改めて教室を見渡した。飾りを作っている者、値札を書いている者、当日の交代表を相談している者がいる。自分が思い出した一つの料理から始まったが、すでに自分だけのものではなかった。
学院祭まで残り一週間となった頃、準備はほぼ完成していた。
ノアが作った予算表によれば、予定数を大きく売れ残らせなければ赤字にはならない。利益を最大化する必要はないため、価格も比較的買いやすい範囲に抑えられている。
ディランを中心とした搬入担当は材料と器具の配置を確認し、ヴァルターは当日の交代表を何度も見直していた。セレナたちは教室の装飾を進め、普段の教室とは思えないほど明るい雰囲気に変えている。
シオン自身は、全体を見ながら足りないものを探す役に回っていた。
「シオン、入口で何をしているのですか?」
飾りを持ったセレナが近づいてきたため、シオンは教室の中を指差した。
「客が入ってきた時に、どこで注文するのか分かるかなと思って。俺たちは何日も準備してるから分かるけど、初めて来た人には分からないかもしれない」
「それなら、入口に案内を書いておきましょうか。注文する場所と、商品を受け取る場所を分けていることも書いた方がよさそうですね」
「うん。それがいいと思う」
セレナはすぐに他の生徒へ相談し、新しい案内板を作り始めた。シオンはその背中を見送りながら、また昔の店のことを思い出す。
客にとって分かりにくい店は、それだけで入りづらい。
そんな当たり前のことを覚えたのも、一度目の人生だった。
剣も魔法もろくに使えず、華々しい才能とは縁のなかった人生。それでも六十年間の中で覚えたことは、思っていた以上にたくさん残っている。
未来の大事件を知っていることだけが、自分の持つものではない。
十四歳になってから、そのことを少しずつ実感する機会が増えていた。
学院祭前日の夕方、最後の準備を終えた教室には、完成した看板が掲げられていた。大きく書かれた《春包み》の文字を囲むように、生徒たちが描いた料理の絵や飾りが並んでいる。
「明日、本当に客が来るかな」
ディランが珍しく不安そうに呟くと、ノアは残っている予算表をまとめながら笑った。
「来なかったら僕たちで食べればいいよ。材料を無駄にするよりはいいでしょう?」
「それはそれで悪くないな。でも、ここまで準備したんだから売れてほしいぞ」
「大丈夫ですよ。少なくとも、私はもう一度食べたいと思っていますから」
セレナの言葉に、準備を続けていた生徒たちも頷いた。何度も失敗して、味付けを変え、作り方まで工夫した料理なのだから、最初の試作品とは比べものにならないほど完成度は上がっている。
シオンも看板を見上げ、自然と笑みを浮かべた。
一度目の人生では、学院祭の前日に何をしていたのかすら覚えていない。おそらく最低限の役割だけ果たし、早く終わればいいと思っていたのだろう。
今回は違う。
明日が少し楽しみだった。
「まあ、ここまで来たら考えても仕方ないよ。明日はちゃんと売って、交代になったら俺たちも学院祭を楽しもう」
「賛成です。シオンも途中で仕事を増やして、休憩を忘れたりしないでくださいね」
「それ、俺よりノアに言った方がいいんじゃない?」
「僕は売上を確認する仕事があるからね」
「ほら、もう休む気がないぞ!」
ディランの声に笑いが広がり、準備最後の日は賑やかに終わった。
未来で流行していた料理を思い出したことから始まった学院祭の店は、もう未来を再現するためのものではない。十四歳の自分たちが試して、失敗して、相談しながら作った《春包み》を売る店になっている。
そして翌朝。
王立学院の門が開き、シオンが一度目の人生ではほとんど覚えていなかった学院祭が、今度こそ彼自身の思い出として始まろうとしていた。




