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無能の逆襲 ~無能は回帰しても無能のままだった~  作者: にゅん


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24/53

未来で見た雪麦

 森での野外実習が終わってから数日が経ち、シオンの右腕からもようやく痛みが消えた。


 学院周辺の森では騎士による巡回が続いているものの、生徒たちの生活はすっかり日常へ戻っている。授業を受け、実技をこなし、放課後になれば友人たちと過ごす。シオンにとっても、灰爪猿との戦闘より雪麦について考えている時間の方が長くなっていた。


 クロフォード領で始まった試験は順調だった。


 ヘンリクが考案した蒸しと乾燥を組み合わせた処理によって、雪麦特有の強い苦味はかなり抑えられている。農家でも小規模なら再現できることが確認され、これまで家畜の飼料か食糧不足時の非常食としてしか扱われなかった穀物が、人間の食事として利用できるところまで来ていた。


 ただし、問題もはっきりしてきた。


 加工に手間が掛かる。


 普通の麦より味が劣る。


 そして何より、わざわざ雪麦を買う理由が弱かった。


 寒さに強く、痩せた土地でも育ち、長期間保存できる。その特徴からノアは冬季備蓄や非常食としての価値を見出していたが、それだけでは普段から大量に売れる商品にはなりにくい。


 シオンは、そのことがずっと気になっていた。


 一度目の人生で知っていた雪麦は、そんな穀物ではなかったからだ。


 北部へ行けば当たり前のように市場へ並んでいた。


 冬季の保存食として使われるだけではなく、宿屋や食堂でも料理に使われていた。商人だった頃には自分でも仕入れたことがあり、小さな店を持ってからも北部から運ばれてきた加工済みの雪麦を何度か扱っている。


 だが、そこへ至る過程を知らない。


 品種改良が行われたことは知っている。


 加工方法も今とは違った。


 しかし自分は農業研究者でも加工職人でもなかった。


 完成した商品を知っているだけだ。


 その日の放課後、シオンは研究棟へ向かう前にセレナを呼び止めた。


「セレナ。少し話してもいい?」


「もちろんです。雪麦の研究へ行くところですよね?」


「その雪麦についてなんだ。できれば二人で話したい」


 セレナの表情が僅かに変わった。


 シオンがこういう言い方をする時、普通の相談ではないことを彼女は知っている。


「では、中庭へ行きませんか? この時間なら人も少ないと思います」


「そうしよう」


 二人は校舎裏手にある小さな中庭へ向かった。


 授業が終わった直後なので、ほとんどの生徒は寮や部活動、研究棟へ移動している。中庭にも数人の生徒がいたが、離れた場所にいるため声を落とせば会話を聞かれる心配はなかった。


 シオンは念のため周囲を確認してから口を開いた。


「前に話した未来視のことなんだけど」


「はい」


「雪麦について、少し視えてるものがある」


 セレナは驚かなかった。


 ただ、真剣な表情でシオンを見る。


「どんな未来ですか?」


「未来では、雪麦が今よりずっと普通に食べられてる。北部だけじゃなくて、王都でも商品として売られてた」


「今研究している雪麦が、ですか?」


「たぶんね」


 シオンは慎重に答える。


 未来視という説明をしている以上、何でも断定するべきではない。


「ただ、今のものとは結構違うんだ。俺が視た雪麦は粒がもう少し大きかった。色も少し違ったと思う。それに、今みたいな強い苦味はほとんどなかった」


「では、品種そのものが変わっている可能性がありますね」


「俺もそう思う」


 実際にはそうだった。


 長い年月を掛けて品種改良された結果、未来の雪麦は現在のものより粒が大きく、収穫量も増えていた。


「それから、食べ方も違った」


「どのように?」


「普通の麦みたいにパンへするのが中心じゃない。少なくとも俺が視た範囲では、煮込み料理やスープに入ってることが多かった。乳と一緒に煮た料理もあったと思う」


 セレナが考え込む。


「粒のまま使うんですか?」


「うん。下処理された状態で売られてたと思う。料理する人が毎回蒸して、乾かして、外皮を取るわけじゃない。袋から必要な量を出して、そのまま鍋に入れてた」


「……それは今とはかなり違いますね」


「そうなんだよ」


 現在の雪麦は、人間が食べるためには面倒な下処理が必要になる。


 ヘンリクたちの研究でかなり改善されているが、それでも家庭で気軽に使えるものではない。


「製法も視えているんですか?」


「そこが全然分からない」


 シオンは苦笑した。


「出来上がった雪麦は視えてる。でも、どうやって作ってるのかは視えてない。農家がどう育ててたのかも、工房でどう加工してたのかも分からないんだ」


「完成した料理だけ見えているようなものですね」


「そんな感じ」


 未来視という設定としても、その説明が最も自然だった。


 シオンが一度目の人生で知っているのも完成品だけなのだから、嘘と事実の境界も少なくて済む。


「でも、それだけ分かっていれば大きいと思います」


 セレナが言った。


「そうかな?」


「はい。私たちは今まで、雪麦をどうすれば食べられるかを考えていました。でも未来では、すでに普通の商品として売られているのでしょう?」


「そうだね」


「なら、目標が違うのではありませんか?」


 シオンは彼女を見る。


「どういうこと?」


「食べられるだけでは足りないということです」


 セレナは少し考えながら続ける。


「今の雪麦も、ヘンリク先生の方法なら食べられます。でも、普通の麦が買える人なら、わざわざ雪麦を選ばないでしょう?」


「ノアも同じこと言ってた」


「だからノアは備蓄食として考えたんですよね。それは正しいと思います。でも、シオンが視た未来では、備蓄だけではなく普通の料理にも使われている」


「うん」


「だったら、今の雪麦を未来の雪麦と同じものにするより、まず今の雪麦で同じ使い方ができないか試してみませんか?」


 シオンは少し考えた。


 品種改良には時間が掛かる。


 一年や二年で未来の雪麦を再現することはできない。


 だが、加工方法なら違う。


「下処理した状態で保存できれば……」


「家庭では煮るだけで食べられます」


「それなら今よりずっと使いやすい」


「ですよね?」


 セレナが少し嬉しそうに笑う。


 シオンも頭の中で考えを整理する。


 未来の雪麦を再現する必要はない。


 未来の商品がどのように使われていたかを参考にして、現在の技術で近い商品を作ればいい。


「セレナ、研究棟へ行こう」


「はい。ノアたちにも相談しましょう」


「ただ、未来視のことは――」


「言いません。分かっています」


 セレナは当然のように答えた。


 五年前から守ってくれている秘密だ。


 シオンもそれ以上念を押さなかった。


 研究棟へ入ると、すでにディランとノアがヘンリクを囲んでいた。


 机の上にはクロフォード領から届いた雪麦と、小型の木製器具が置かれている。


「遅いぞ!」


 ディランが二人に気づく。


「シオンと少し話していました」


「何の話?」


「雪麦のこと」


「それならここで話せばいいじゃん」


「考えを整理してたんだよ」


 シオンは自然に答えた。


 嘘ではない。


「ちょうどいい。こっちも新しい試作品が届いた」


 ノアが木製器具を指す。


「外皮を削る道具?」


「うん。クロフォード領の職人に作ってもらったらしい。まだ試作だけど、手で一粒ずつ処理するよりはかなり早い」


 簡単な回転式の器具だった。


 雪麦を中へ入れ、取っ手を回すことで表面を擦り、硬い外皮を削る構造になっている。


 ヘンリクが実際に動かしてみせる。


「問題は削りすぎることだ。力を掛けすぎると粒まで割れる。逆に弱ければ外皮が残る」


「調整できるようにする必要がありますね」


 シオンが言う。


「職人にも伝えてある。それより、お前たちは何を話していた?」


 ヘンリクに尋ねられ、シオンはセレナを見る。


 彼女が僅かに頷いた。


「雪麦の売り方についてです」


「売り方?」


 ノアがすぐに反応する。


「まだ売る段階じゃないよ」


「分かってる。でも、どういう状態まで持っていけば売れるのかを先に考えてもいいと思って」


「それは確かにそうだね」


 ノアが椅子を引き寄せる。


 商売の話になった途端、明らかに目の色が変わった。


「今は雪麦を蒸して、乾燥させて、外皮を処理してるだろ?」


「うん」


「それを全部、生産地側で終わらせられないかな」


 ヘンリクが眉を上げる。


「加工済みで出荷するということか?」


「はい。買った人が面倒な下処理をしなくても、そのまま料理へ使える状態にするんです」


 シオンは未来で見た商品を思い出しながら説明する。


「パン用の粉にしなくてもいいと思います。粒の状態で、スープとか煮込み料理に使うんです」


 ディランが首を傾げる。


「美味いのか?」


「それをこれから試すんだよ」


「じゃあ試食できるのか?」


「ディランはそこしか聞いてなかったの?」


 ノアが呆れる。


「大事だろ! 売るなら美味くないと駄目じゃん!」


「珍しく正しいこと言ってる」


「珍しくって何だよ!」


 言い合う二人を横目に、ヘンリクは雪麦を手に取った。


「粒のまま煮るという発想自体は珍しくない。北部では他の雑穀でもやっている。ただ、雪麦は硬いからな」


「蒸して乾燥させた後ならどうでしょう?」


 セレナが尋ねる。


「試す価値はある」


 ヘンリクが頷く。


「問題は乾燥の程度だ。完全に乾燥させれば保存性は高くなるが、再び水を吸わせるのに時間が掛かる。逆に水分を残せば調理は早いが、長期保存には向かん」


「その中間を探す?」


「そうなるな」


 ノアがすぐに口を挟む。


「それと、商品として売るなら調理時間も測った方がいいです」


「調理時間?」


「同じ値段なら、半刻煮るものより短時間で食べられる方が宿屋や食堂では使いやすいでしょう?」


 ヘンリクが感心したようにノアを見る。


「お前は本当に商人だな」


「商家の息子ですから」


「褒めている」


 ノアが少し得意そうな顔をする。


「それなら条件を分けよう」


 ヘンリクが紙を取り出す。


「蒸す時間を三段階。乾燥時間も三段階。外皮の処理についても削る量を変える。それぞれ保存状態と煮込み時間を記録する」


「九種類以上になりますよ?」


 ディランが顔をしかめる。


「だから研究なんだ」


「またいっぱい食べるのか……」


「さっきまで試食できるって喜んでただろ」


「美味しい試食だと思ったんだよ!」


 シオンたちは笑った。


 それから数日間、研究棟には様々な状態の雪麦が並ぶようになった。


 短時間だけ蒸したもの。


 十分に蒸したもの。


 乾燥を強くしたもの。


 少し水分を残したもの。


 外皮を多めに削ったもの。


 粒が割れてしまった失敗品もある。


 セレナは小規模な試験に限って乾燥魔法を使い、一定の条件で水分を抜く作業を手伝った。


 ただし、それを量産方法にはしない。


「魔法使いが一人ずつ乾燥させる方法では、村で大量に作れませんからね」


 セレナ自身がそう言った。


「今は、どのくらい乾かせばいいのか調べるために使います」


 ヘンリクも同意した。


 セレナの魔法で理想的な乾燥状態を見つけた後、同じ状態を乾燥炉や天日干しで再現できる方法を探す。


 魔法は答えではなく、研究の道具だった。


 シオンはその進め方が気に入っていた。


 自分の未来の知識も同じだ。


 答えそのものではない。


 どこへ向かえばいいのかを示すだけのものだ。


 一週間ほど経った日の放課後、最初のまともな試作品が完成した。


 蒸した後に十分乾燥させ、外皮をある程度削った雪麦。


 見た目は未来の商品とはまだかなり違う。


 粒は小さく、色も濃い。


 それでも最初に研究棟へ持ち込んだ雪麦より、遥かに扱いやすくなっていた。


「今日はこれを煮る」


 ヘンリクが鍋を用意する。


「水だけですか?」


 ディランが不安そうに尋ねる。


「まずはな」


「肉入れません?」


「最初から味を付けたら雪麦そのものの変化が分からん」


「研究って厳しいな……」


 ディランが肩を落とす。


 鍋の中で雪麦を煮る。


 時間も計測した。


 普通の麦よりは時間が掛かる。


 だが、以前の雪麦とは明らかに違った。


 粒が水を吸い、少しずつ膨らんでいく。


「そろそろいいだろう」


 ヘンリクが火を止めた。


 五人分の小さな器へ分ける。


 シオンも一口食べた。


 まだ硬さはある。


 僅かな苦味も残っている。


 未来で食べた雪麦には遠く及ばない。


 それでも。


「……食べられる」


 ディランが呟いた。


「前より全然いいぞ」


「美味しい?」


 ノアが聞く。


「そこまでじゃない」


「正直だなあ」


「でも、肉とか野菜と一緒なら普通に食べられると思う」


 それは重要な評価だった。


 セレナもゆっくり噛んでいる。


「食感は悪くありませんね。少し硬いですけど、スープに入れるならむしろ合うかもしれません」


「俺もそう思う」


 シオンは答えた。


 未来で食べたものと同じではない。


 だが、方向は近い。


「次は肉を入れよう!」


 ディランが勢いよく言う。


「まだ研究終わってないよ」


「実際の料理に使えるか試すんだろ? だったら必要だ!」


「さっきまでの中で一番説得力あるな」


 ノアまで賛成する。


 結局、その日の二鍋目には干し肉と根菜、それに少量の塩が加えられた。


 出来上がったものは、雪麦入りの簡単なスープだった。


 今度は全員の反応が違った。


「これ、普通に美味いぞ」


 ディランが二口目を食べる。


「雪麦が肉の汁を吸ってる」


 ノアも食べながら考えている。


「パンがなくても、これだけで結構お腹に溜まりそう」


「保存した雪麦と干し肉なら、冬でも作れますね」


 セレナが言う。


「根菜も保存できるものを使えばいい」


 ヘンリクも頷いた。


「北部向けの料理としては悪くないな」


 シオンは器を見る。


 未来で食べた料理と同じではない。


 けれど、確かにそこへ続く道の途中にいる気がした。


「ねえ」


 ノアが突然口を開いた。


 全員が見る。


「これ、備蓄食だけで売るのはもったいなくない?」


 シオンは思わず笑った。


 やはりノアはそこへ気づいた。


「どういう意味だ?」


 ディランが尋ねる。


「今までは、雪麦は寒さに強くて保存できるから、冬の備蓄や食糧不足に備える商品として考えてた。でも、それだけだと安くないと売れない」


「まあ、非常食だからな」


「でも、こうやって料理として食べられるなら話が変わる」


 ノアは器の中の雪麦を匙で掬う。


「同じ雪麦でも、売り方を二つにできる」


「二つ?」


「クロフォード領や寒い地域では、安く大量に作れる保存食として売る。こっちは生活に必要な商品だから、できるだけ安くする」


 ノアは続ける。


「でも王都では、最初から同じ売り方をしなくてもいい」


「王都じゃ雪麦なんて誰も欲しがらないだろ?」


 ディランが言う。


「だから雪麦を売るんじゃない」


 ノアが笑った。


「料理を売るんだよ」


 ディランが黙る。


「宿屋とか食堂に、この雪麦を使ったスープを作ってもらう。最初は少量だけ加工済みの雪麦を渡して、料理として出してもらうんだ」


「食べ方ごと広めるのか」


 シオンが言う。


「そう。知らない穀物を袋で置いても誰も買わない。でも食堂で美味しい料理を食べて、その中に入っていたものなら興味を持つ人がいるかもしれない」


 シオンは感心した。


 一度目の人生でノア・フェルドが大商人になった理由を、また少し見た気がする。


 ただし、それを口にはしない。


「ベルナード商店に相談してみる?」


 シオンが提案した。


 ノアの表情が一瞬で変わった。


「……本当に?」


「母に相談して、カイルさんに話を通してもらえば聞いてくれると思う。まだ商品化できる段階じゃないけど、売り方について意見をもらうくらいなら」


「カイル・ベルナード本人に?」


「たぶん」


「行く」


「まだ日程も決めてないよ」


「絶対行く」


 普段は冷静なノアが珍しく前のめりになっている。


 ディランが笑った。


「お前、カイルさんのことになると変になるよな」


「憧れてるんだから仕方ないだろ」


 シオンも笑う。


 未来では最大の競争相手になる二人。


 だが、今のノアにとってカイルは憧れの商人だった。


 その未来まで変わるのかもしれない。


 それでいい。


 未来と同じ道を歩かせる必要などないのだから。


 研究を終えた後、シオンとセレナは二人で寮へ戻っていた。


「少し近づきましたね」


 セレナが言う。


「未来の雪麦に?」


「はい」


「まだ全然違うよ」


「でも、方向は同じなのでしょう?」


 シオンは少し考える。


「うん。たぶん」


「それなら十分だと思います」


 セレナは前を向いたまま続けた。


「未来でどう作っていたのか分からなくても、未来でどう使われていたかは分かる。それなら私たちは、そこへ行く方法を今から探せます」


「俺一人じゃ無理だけどね」


「一人でやる必要がありますか?」


 シオンはセレナを見る。


「ヘンリク先生が研究して、ディランがクロフォード領と繋いで、ノアが売り方を考える。私は研究を手伝えます」


「俺は?」


「最初に雪麦を見つけた人です」


「見つけたのはディランだよ」


「では、みんなを繋いだ人ですね」


 その言葉に、シオンは少しだけ黙った。


 一度目の人生では、自分に才能がないことをずっと恥じていた。


 兄のように剣を振れない。


 姉のように魔法を使えない。


 何か一つでも自分だけの才能が欲しかった。


 今も才能がないこと自体は変わらない。


 雪麦を改良する技術もない。


 加工道具を作る技術もない。


 商品を大きく売る商才なら、ノアやカイルの方が遥かに上だろう。


 それでも、知っていることを誰かへ渡すことはできる。


 人と人を繋ぐこともできる。


「それくらいなら、俺にもできそうだ」


「もうやっていますよ」


 セレナが笑った。


 シオンも笑い返す。


 未来で売られていた雪麦と、今日食べた雪麦はまだ別物だった。


 それでも、未来の完成品をそのまま持ってくる必要はない。


 今を生きる人たちが、自分たちの方法でそこへ近づいていけばいい。


 そして、もしかすると。


 自分が知っている未来より、もっと美味く、もっと便利な雪麦が生まれる可能性だってある。


 その未来なら、シオンにもまだ何も視えていなかった。

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