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無能の逆襲 ~無能は回帰しても無能のままだった~  作者: にゅん


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森の騒動、その結末

 灰爪猿との遭遇から三日が経っても、学院周辺の森に出されていた立入禁止は解除されていなかった。


 野外実習に使われた管理区域そのものは、学院騎士による確認がほぼ終わっている。倒された灰爪猿以外に危険な魔物は発見されず、逃げた個体についても北東方向へ移動した痕跡が確認されていた。


 それでも調査が続いているのは、灰爪猿だけでは説明できない痕跡が見つかっていたからだ。


 学院から北東へ離れた山側では、本来ならもう少し奥に生息している複数種類の魔物が確認されている。


 大型魔物に追われたのか。


 餌を求めて移動したのか。


 縄張り争いが起きたのか。


 いくつかの可能性が考えられていたものの、学院側はまだ原因を特定していなかった。


 もっとも、シオンたち一年生にできることはない。


 学院は通常通り授業を行っており、森の調査は教師と学院騎士、それに王都から派遣された騎士団へ任されている。


「まだ少し痛む?」


 午前の授業が終わったところで、セレナがシオンの右腕を見る。


「強く動かすとね。でも治癒術師には、あと数日もすれば大丈夫だって言われてる」


「今日の実技は?」


「見学するよ」


「本当に?」


「どうして疑うの?」


「灰爪猿の前へ木剣を持って出た人だからです」


「そこはもう反省してるって」


 シオンは苦笑する。


 灰爪猿の攻撃を逸らした時の痛みは、今もはっきり覚えている。


 攻撃が来る方向は分かった。


 どう受け流せばいいのかも分かった。


 それでも身体が追いつかなかった。


 六十年分の経験があっても、今の自分は十二歳の少年だ。


 しかも《無能》。


 剣術の才能も、優れた身体能力も持っていない。


 知っていることと、実際にできることは違う。


 今回の一件で、その当たり前の事実を改めて身体へ刻み込まれた。


「次はちゃんと逃げるよ」


「そうしてください。シオンが魔物を倒す必要なんてないんですから」


「それは俺もそう思う」


「だったら最初からそうしてください」


「ヴァルターが危なかったんだから仕方ないだろ?」


「そういうところを言っているんです」


 セレナは呆れているようだったが、本気で怒っているわけではなさそうだった。


 そこへディランが教室の後方からやってくる。


「シオン、バルガス先生が呼んでるぞ」


「俺を?」


「俺とヴァルターもだって。森の調査について話があるらしい」


「結果が出たのかな」


「たぶんな」


 ディランの後ろを見ると、ヴァルターも立っている。


「行こう」


 シオンは席を立った。


「話せる内容なら、後で教えるよ」


 セレナへそう伝える。


「はい。でも、無理に聞くつもりはありませんから」


 三人で教室を出た。


 バルガスが待っていたのは、前回と同じ小さな会議室だった。


 机の上には学院周辺から北東の山地までを描いた地図と、数枚の報告書が置かれている。


「来たな。座れ」


 三人が腰を下ろす。


「先に結論から話しておく。今回の件について、お前たち一年生が関わる部分はこれで終了だ」


 ディランがすぐに身を乗り出した。


「原因が分かったんですか?」


「いや」


 バルガスは首を横に振った。


「原因は分かっていない」


 シオンも僅かに眉を寄せた。


「分からなかったんですか?」


「ああ。調査隊は灰爪猿が移動してきた経路をある程度まで追った。だが、なぜ奴らが学院管理区域まで来たのかを断定できるものは見つからなかった」


「大型魔物に追われた可能性は?」


 ヴァルターが尋ねる。


「候補ではある。ただ、それを裏付けるだけの痕跡はない」


 バルガスが地図の一角を指した。


「代わりに、別のものを見つけた」


 三人の視線が集まる。


「人が使っていたと思われる簡易的な拠点だ」


「人?」


 ディランが聞き返す。


「ああ。学院の管理区域から北東へ進んだ森の中だ。正規の街道からは外れている。猟師が普段使う道からも離れている場所だった」


 バルガスは一枚の紙を取り出した。


 そこには簡単な見取り図が描かれている。


 数本の木を利用して作られた雨除け。


 焚き火跡。


 簡単な荷物置き場。


 さらに少し離れたところにも、似た構造物があったらしい。


「立派な野営地ではない。長期間住むための設備もない。だが、一人や二人が一晩休んだだけとも考えにくい。調査した騎士によれば、十人前後が数日間滞在する程度なら使えたのではないかという話だ」


「誰がいたんですか?」


 ディランが尋ねる。


「分からん」


「持ち物とかは?」


「ほとんど残っていなかった」


 バルガスは見取り図の一部を指した。


「それに、発見された時にはかなり荒らされていた」


「魔物に?」


「その可能性が高い。天幕代わりに使われていた布は引き裂かれ、木箱らしきものも壊されていた。周辺には複数種類の魔物の足跡が残っている」


 シオンは黙って見取り図を見る。


 それだけなら、野営地へ魔物が入り込んだと考えられる。


 だが、バルガスの話し方からすると、それだけではないのだろう。


「人は?」


 シオンが尋ねた。


「見つかっていない」


「遺体も?」


「ない。人間のものと断定できる血痕も発見されていない」


「じゃあ、襲われる前に逃げた可能性もある?」


「ああ。あるいは拠点を放棄した後に魔物が入り込んだ可能性もある。現状では判断できん」


 ヴァルターが見取り図を見ながら尋ねる。


「そもそも、なぜそんな場所に拠点を?」


「それも不明だ」


 バルガスはあっさり答えた。


「密猟者、無許可の採取者、冒険者、盗賊。可能性はいくつもある。だが、身元につながる物は見つかっていない」


「何かを採取していた跡とかは?」


 シオンが聞く。


「今のところ確認されていない。周辺に特別珍しい薬草や鉱石があるという報告もない」


「なら、本当に何をしてたのか分からないんですね」


「そういうことだ」


 バルガスが頷く。


「ただし、これは学院が調べ続ける問題ではない」


 ディランが顔を上げる。


「調査をやめるんですか?」


「学院は教育機関だ。管理区域の安全を確認するところまでは我々の仕事だが、区域外に作られた正体不明の拠点について調査するのは騎士団の仕事になる」


「騎士団には?」


「すでに引き継いだ」


 シオンはその判断に納得した。


 当然だ。


 誰が使っていたのか分からないからといって、教師や生徒が追いかける必要はない。


「灰爪猿については?」


「学院周辺に残っていた危険個体は処理した。逃げた個体も管理区域外へ離れていることが確認されている。しばらく巡回は増やすが、生徒に直接危険が及ぶ可能性は低いと判断した」


「じゃあ、俺たちの野外実習の事件は終わり?」


「そうだ」


 バルガスははっきり答えた。


「お前たちが関わるのはここまでだ。森への立入制限も、安全確認が終わった区域から順次解除する。ただし、今回中止した実習をすぐに再開する予定はない」


 ディランが少し残念そうな顔をした。


 それをバルガスは見逃さない。


「クロフォード。まさか、もう一度行きたいと思っているのか?」


「いや、そういうわけじゃ!」


「灰爪猿と戦ったばかりなのに元気なことだ」


「今度はちゃんと先生の言うこと聞きます!」


「前回も聞いていただろう。だから重傷者が出なかったんだ」


 そこでバルガスは三人を見る。


「今回、お前たちが覚えておくべきなのはそこだ。特にアルヴェリアとクロフォードが最初の痕跡を見つけた時、勝手に森の奥へ追跡しなかったのは正しい判断だった」


 シオンは見取り図へ視線を戻す。


「もし追っていたら、この拠点に辿り着いていた可能性もありますか?」


「距離を考えれば、実習中にそこまで行くことはなかっただろう。だが、灰爪猿の群れへ近づいた可能性はある」


「それなら戻って正解でしたね」


「お前はもう少し自分の判断を誇ってもいいと思うがな」


「何も分からなかったから先生を呼んだだけですよ」


「それができない人間は多い」


 バルガスは腕を組む。


「分からないものを見つけると、自分で正体を確かめたくなる。特に冒険者の新人には多い失敗だ」


 その言葉に、シオンは一度目の人生を思い出した。


 自分にも経験がある。


 見慣れない足跡を見つけ、何の魔物なのか確かめたくなって追ったこと。


 薬草を探すつもりで仲間から離れたこと。


 若い頃は何度も叱られた。


 六十年分の経験を持っている今だから、分からないものから離れる判断ができるだけだ。


「それとアルヴェリア」


「はい?」


「右腕はどうだ?」


「あと数日で治るそうです」


「なら治るまで実技は禁止だ。昨日のように頭では分かっていても、身体がついてこなければ意味がない」


「……分かりました」


「その顔を見る限り、本人が一番理解したようだな」


 反論できなかった。


 会議室を出た後、ディランはすぐに口を開いた。


「結局、何だったんだろうな」


「拠点?」


「ああ。十人くらいいたんだろ? そんな人数で森の中に何してたんだ?」


「十人いたと決まったわけじゃないよ。十人くらいなら使える広さだったってだけだろ」


「でも気になるじゃん」


「それは俺も気になる」


 シオンは素直に答えた。


「ほら!」


「気になることと、勝手に調べに行くことは別だからね」


「分かってるって。さすがに行かないよ」


 ディランもそこまで無謀ではない。


 灰爪猿との戦闘を経験したばかりなのだから、なおさらだ。


「グランツは?」


 ディランが尋ねる。


「騎士団へ任せればいい」


「お前までシオンと同じこと言うのか」


「当たり前だ。正体不明の人間が使っていた拠点だぞ。学生が調べに行く理由がない」


「いや、俺も行くとは言ってないだろ!」


 ヴァルターとディランが言い合い始める。


 シオンはその隣を歩きながら、頭の中では先ほどの見取り図を思い返していた。


 正体不明の簡易拠点。


 荒らされた天幕。


 壊された箱。


 複数の魔物の足跡。


 誰かがいた。


 しかし、その誰かは消えている。


 シオンの記憶にはない出来事だった。


 一度目の人生で、この野外実習に事件は起きていない。


 少なくとも自分が灰爪猿と遭遇したことはない。


 だが、それだけで今回の出来事そのものが存在しなかったとは断定できなかった。


 一度目のシオンは、今とは違う。


 十二歳の頃にはすでに、自分が《無能》であることへの劣等感を強く抱いていた。


 学院で起きたすべての出来事へ興味を持っていたわけではない。


 まして騎士団へ引き継がれた小さな調査案件など、知らないまま終わっていても不思議ではなかった。


 それでも、別の考えが頭を離れない。


 自分が未来を変えた影響ではないのか。


 母は生きている。


 ローデン金鉱は、本来より遥かに早く発見された。


 セレナも生きている。


 ベルナード商店はすでに大きく成長し、レグナード大震災では本来助からなかったはずの人々まで救われた。


 そして、国王アルベルトも生きている。


 変わった人間が一人いれば、その人と関わる誰かの人生も変わる。


 商人の取引先が変わる。


 働く場所が変わる。


 移動する人間が変わる。


 金の流れが変わる。


 それが何年も積み重なれば、自分が直接触れていない場所にまで影響が届いていても不思議ではない。


 あの森に拠点を作った誰かも、その波紋の先にいる人間なのかもしれない。


 しかし、それは想像に過ぎなかった。


 証拠は何もない。


 自分が未来を変えた結果なのか。


 元から存在していたが、一度目の自分が知らなかっただけなのか。


 それすら判断できない。


 未来を知っているつもりでいた。


 けれど、実際には自分が知っている未来など、ごく僅かなものだったのだと改めて思い知らされる。


「シオン?」


 ディランに呼ばれ、シオンは顔を上げた。


「どうした?」


「いや、さっきから黙ってるから。やっぱり拠点のこと気になってる?」


「少しね」


「だろ?」


「でも答えがないから、今は考えても仕方ないよ」


「お前、そういうところで諦めるの早いよな」


「諦めてるんじゃなくて、分からないって認めてるだけ」


 今の材料だけでは、何を考えても推測にしかならない。


 だったら無理に答えを作らない。


 それも一度目の人生で覚えたことだった。


 放課後、シオンは農業研究棟へ向かった。


 森で事件が起きても、雪麦の研究は続いている。


 試験栽培を行っているクロフォード領から新しい報告が届き、ノアは加工に必要な費用を計算し、ヘンリクは現地で使える簡単な加工道具の構造を検討していた。


 セレナもすでに来ている。


「森の件、どうでした?」


「俺たちが関わるところは終わりだって」


「原因も分かったんですか?」


「いや」


 シオンは首を横に振る。


「何も分からなかったみたい」


 セレナが少し意外そうな顔をする。


「何も?」


「調査してたら、森の奥に人が使ってたらしい簡単な拠点が見つかった。でも荒らされてて、誰が使ってたのかも、何をしてたのかも分からないって」


「魔物が移動した原因も?」


「それも分からない。拠点と関係してるのかどうかさえ分からないみたいだよ」


 シオンは周囲を確認した。


 ディランとノアはヘンリクのところにいる。


 会話が届く距離ではない。


 それでも言葉は選んだ。


 セレナが知っているのは、シオンが時折未来らしきものを視るという話だけだ。


 それ以上でも、それ以下でもない。


「シオンは何か視えていないんですか?」


 セレナが声を落として尋ねた。


 シオンは首を横に振った。


「何も」


「本当に?」


「うん。今回のことは何も視えてない。灰爪猿のことも、森の拠点のことも、何も分からない」


 それは、今のシオンがセレナへ言える最も正確な答えだった。


「そうですか……」


「だから俺にも分からないんだ」


 未来視は万能ではない。


 そういう設定で家族にもセレナにも説明している。


 断片的で、いつ見えるか分からず、内容も完全ではない。


 今回の事件について何も視えていないことは、その説明とも矛盾しない。


「不安ですか?」


「少しはね」


「何も視えないことが?」


「それもあるかな」


 シオンは曖昧に笑った。


 本当に気になっていることは、別にある。


 自分が未来を変えたから、この事件が起きたのか。


 その疑問をセレナへ話すことはできない。


 未来が変化していることを口にすれば、そもそも何と比較して変わったのかという話になる。


 自分が六十年を生き、死んで五歳へ戻ったこと。


 その真実は誰にも話していない。


 家族にさえ伝えていない。


 だから、この疑問だけは自分の中に置いておくしかなかった。


「でも、分からないなら仕方ないよ」


 シオンは続ける。


「騎士団が調べてくれるみたいだし、俺たちが森に行って確かめる必要もない。何か分かったら、その時に考えればいい」


「そうですね」


 セレナも頷いた。


「シオンが見ていない未来だって、たくさんあるでしょうから」


「……うん。そうだと思う」


 その言葉は、シオンが考えていたこととは少し違う。


 それでも否定する必要はなかった。


 未来視という説明だけなら、それが自然だ。


「おーい、二人とも!」


 研究室の奥からディランが呼ぶ。


「ヘンリク先生が新しい加工案見せてくれるって!」


「今行くよ」


 シオンが答える。


 セレナと一緒に机へ向かう。


 そこには雪麦と、木製の簡単な加工道具の図面が並んでいた。


 未来ではもっと便利な道具が使われていた。


 雪麦そのものも、今より遥かに食べやすく改良されている。


 だが、そこへ至る途中の過程をシオンは知らない。


 未来の完成品を知っていても、目の前の問題に答えられるとは限らない。


 森の事件も同じなのかもしれない。


 自分には見えていないものがある。


 知らなかった出来事がある。


 あるいは、本当に自分が変えた未来から生まれた新しい出来事なのかもしれない。


 シオンには何一つ確かめられなかった。


 ただ、今回の事件について一つだけ決めた。


 忘れないでおこう。


 荒らされた簡易拠点があったこと。


 誰がいたのか分からなかったこと。


 そして、自分の記憶にはない出来事が学院のすぐ近くで起きたこと。


 いつか別の出来事と繋がれば、その時に考えればいい。


 繋がらなければ、それまでだ。


 六十年分の記憶があっても、世界のすべてを知っているわけではない。


 むしろ未来を変え続けるほど、自分が知っている世界の方が少なくなっていくのかもしれなかった。


 シオンはそんな考えを胸の奥へしまい、目の前に置かれた雪麦へ手を伸ばした。


 森で起きた最初の実地事件は、原因不明のまま終わった。


 そしてシオンだけが、その結末を完全には終わったものとして受け止めることができずにいた。

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