商人たちの雪麦
雪麦を使った最初の煮込み料理が完成してから五日後、シオンたちは王都にあるベルナード商会の建物を訪れていた。
八歳の頃には《ベルナード商店》と呼ばれていた小さな店も、四年という時間の中で随分と姿を変えている。王都の大通りから一本外れた場所にある本店は三階建てで、一階には商品の見本と受付が並び、奥では何人もの従業員が忙しそうに荷札や帳簿を確認していた。
扱っている商品も、かつての雑貨中心ではない。エレノアが立ち上げた美容商品の販売をきっかけに貴族との取引を増やし、その利益を使って地方との流通網を広げた結果、今では保存食や薬草、布、生活用品まで扱うようになっている。
もっとも、一度目の人生でシオンが知っていた《ベルナード大商会》と比べれば、まだ規模は小さい。
本来ならカイルが何十年も掛けて築くはずだったものが、別の形で少しずつ出来上がっている途中だった。
「……ここがベルナード商会」
隣を歩いていたノアが、建物を見上げながら小さく呟いた。
「緊張してる?」
シオンが尋ねると、ノアはすぐに首を横へ振った。
「してないよ」
「さっきから入口を三回見上げてるけど」
「建物を見てるだけ」
「馬車を降りてから一回も帳面開いてないぞ」
ディランまで指摘すると、ノアが嫌そうな顔をした。
「二人とも、今日は僕をからかいに来たの?」
「違うよ。雪麦を売れるようにするため」
「だったら余計なこと言わないでよ」
そう答えながらも、ノアの歩き方は普段より僅かに硬い。
無理もない。
ノアは以前からカイル・ベルナードを尊敬していると公言していた。商家に生まれた彼にとって、潰れかけの小さな店から短期間で王都有数の成長商会を築いたカイルは、憧れの存在なのだろう。
一度目の人生を知るシオンにとっては、少し不思議な光景でもある。
未来ではノア・フェルドが率いるフェルド商会と、カイルのベルナード大商会は何度も市場を奪い合った。二人が直接どのような関係だったのかまでは知らないが、少なくとも商人の間では最大の競争相手として有名だった。
その未来の片方が、今はもう片方へ会うだけで緊張している。
「ノア、大丈夫ですよ」
セレナが優しく声を掛ける。
「今日は商談というより相談ですから。失敗したとしても、いきなり雪麦の研究が終わるわけではありません」
「分かってる。でも、カイル・ベルナード本人に商品の意見を聞いてもらえる機会なんて普通ないから」
「そこまで構えなくても大丈夫だと思うけどなあ」
シオンが言うと、ノアが半眼になる。
「シオンは八歳の頃から会ってるから言えるんだよ」
「それはそうか」
「侯爵夫人とも普通に話すし、公爵令嬢とも普通に話すし、国王陛下から名前を呼ばれても普通にしてる。シオンの普通は参考にならない」
「最後のは俺だって緊張するよ」
「そうは見えなかったけど」
ノアが呆れたところで、ベルナード商会の職員がシオンたちへ近づいてきた。
アルヴェリア家から事前に連絡が入っているため、受付で待たされることはなかった。
案内された二階の応接室では、すでに二人が待っていた。
一人はシオンの母、エレノア・アルヴェリア。
もう一人はベルナード商会の会頭、カイル・ベルナードだった。
「いらっしゃい、シオン。それに皆さんも」
エレノアが立ち上がる。
四年前には病床に伏していた時間が長かった母が、今では商会の応接室で資料を広げている。その姿を見ることにも、シオンはすっかり慣れていた。
「母上、時間を作ってくれてありがとう」
「あなたから商売の相談を受けるのは久しぶりですもの。しかも今回は、学院のお友達と一緒なのでしょう?」
エレノアの視線がディラン、ノア、セレナへ移る。
セレナとは以前から面識があるが、ディランとノアがこうして正式に会うのは初めてに近い。
三人がそれぞれ挨拶すると、エレノアも丁寧に応じた。
「それでは、こちらも紹介しましょうか。必要ない人もいるでしょうけれど」
「カイル・ベルナードです。今日は若い皆さんが面白いものを持ってきてくださると聞いています」
カイルは四年前より少しだけ貫禄が増していた。
三十代半ばを過ぎた今も派手な服装は好まず、商会の代表としては質素に見える濃色の上着を着ている。ただし、相手の表情や持ち物を見る目だけは以前より鋭くなっていた。
「ノア・フェルドです」
ノアが立ち上がり、普段より丁寧に頭を下げる。
「フェルド商店の?」
カイルがすぐに反応した。
ノアの顔が僅かに上がる。
「父をご存じなんですか?」
「もちろん。東地区を中心に乾物と穀物を扱っている店でしょう。規模は大きくありませんが、仕入れ先との関係を大切にしていると聞いています」
「ありがとうございます」
ノアの緊張が少しだけ別のものへ変わった。
憧れていた商人が、自分の家の店を知っていた。
それだけでも嬉しいのだろう。
「さて」
エレノアが場を整える。
「まずは雪麦について説明してもらいましょう。私はシオンから簡単に聞いただけですから」
「それなら俺よりディランがいいと思う。元々クロフォード領の作物だから」
「俺?」
突然振られたディランが目を丸くする。
「領地でどう扱われてるか、一番知ってるだろ?」
「まあ、それはそうだけど……」
ディランは一度咳払いをしてから、持参した袋を机へ置いた。
「これはクロフォード領で《雪麦》って呼ばれてる穀物です。寒さにはかなり強くて、普通の麦が育ちにくい場所でも育ちます。ただ、硬くて苦いので、今までは家畜の餌か、食べ物が足りない時に人が食べるくらいでした」
最初こそ少し緊張していたが、自分の領地の話になると声が安定していく。
「学院でシオンが興味を持って、ヘンリク先生に相談しました。それから蒸したり、乾かしたり、外側を削ったりして、人が普通に食べられるようにできないか研究してます」
「現在はどの段階ですか?」
カイルが尋ねる。
「食べられるところまでは来てます。ただ、普通の麦より美味いかって言われたら、まだそこまでは……」
ディランが正直に答えた。
カイルは笑わなかった。
「良い説明ですね。商品の欠点を最初に隠さない人の話は信用できます」
「ありがとうございます」
ディランが少し嬉しそうにする。
そこでノアが資料を広げた。
「今まで僕たちは、雪麦の価値を寒冷地の保存食として考えていました。寒さに強く、収穫後も比較的長く保存できるので、冬季備蓄や食糧不足への備えとして使えると思ったからです」
「理にかなっています」
「でも、それだけだと商品としての価格を上げにくいんです」
ノアの声から緊張が少しずつ消えていく。
「備蓄食として売るなら、安いことが重要になります。加工に手間を掛けて値段が上がったら、せっかく寒冷地で育つ作物なのに、必要な人が買えなくなるかもしれません」
カイルは口を挟まない。
ただ、続きを促すように頷いた。
「だから用途を分けたいと思っています。寒冷地では、なるべく安く加工できる保存用の商品として扱う。一方で王都では、下処理を済ませた雪麦を料理に使ってもらう方法を試したいんです」
「同じ原料から、二つの商品を作る?」
「はい。ただ、完全に別の商品にする必要はないと思います。加工の程度や包装を変えるだけでもいいかもしれません」
カイルが初めて少し笑った。
「なるほど」
その一言だけで、ノアの背筋がさらに伸びた。
カイルはすぐに評価を口にせず、机の上の雪麦を一粒摘まんだ。
「実際に食べられますか?」
「そのために持ってきました」
シオンが答える。
商会の厨房を借りる許可は事前に取っていた。
研究棟で試したものと同じように、下処理済みの雪麦、干し肉、根菜を使った簡単なスープを作る。今回は研究用ではないため、塩だけではなく少量の香草も加えた。
料理そのものは難しくない。
下処理さえ済んでいれば、雪麦を鍋へ入れて煮込むだけだ。
しばらくして、人数分の器が応接室へ運ばれてきた。
カイルは説明を求めず、まず一口食べた。
次に雪麦だけを匙ですくい、食感を確かめる。
「悪くありませんね」
ノアの表情が僅かに明るくなる。
「ただし、このまま王都で売るなら難しいでしょう」
すぐに続いた言葉で、再び真剣な顔へ戻った。
「やっぱり味ですか?」
「それもあります。しかし最大の問題は、雪麦そのものを知っている人がほとんどいないことです」
カイルは器を置いた。
「例えば、この袋を市場へ持っていって『寒い地方で育つ新しい穀物です』と言ったとします。皆さんなら買いますか?」
ディランは少し考える。
「俺なら……買わないかも」
「俺も知らなかったら買わないと思う」
シオンも答える。
ノアはすでに意図を理解したらしい。
「だから、料理から売る?」
「それは良い考えです。ただ、もう一段階考えましょう」
カイルはノアを見る。
「誰に最初に食べてもらいますか?」
「王都の食堂です」
「食堂は何軒あります?」
「かなり……ありますね」
「では、百軒へ試供品を配りますか?」
「それは費用が掛かりすぎます」
「そうです。しかも料理人が適当に調理して不味い料理を出せば、その客にとって雪麦は一度で終わります」
ノアが黙って考える。
カイルは答えを急かさなかった。
「……最初は店を絞る」
「どういう店に?」
「新しい料理を出しても客が注文してくれる店。それと、料理人がこちらの調理方法を守ってくれるところ」
「もう一つ」
カイルが促す。
ノアはしばらく考えた後、机の上の器を見る。
「客の反応を教えてくれる店」
カイルが笑った。
「正解です」
ノアが目を輝かせる。
「最初から大量に売る必要はありません。むしろ最初は三軒か五軒でいい。料理人へ雪麦の扱い方を説明し、同じ基本料理を出してもらう。その上で客が何を気に入って、何を嫌がったのかを記録します」
シオンは話を聞きながら、一度目の人生で商人として働いていた頃を思い出した。
新商品を扱う時、若い頃の自分は仕入れ値と販売価格ばかり見ていた。
売れる商品とは、棚へ並べれば勝手に売れるものだと思っていた時期さえある。
実際には違う。
誰に売るか。
どう使うか。
最初にどこで知ってもらうか。
失敗した時にどこを直すか。
商品そのものと同じくらい、そこが重要だった。
「それなら、最初はベルナード商会と取引がある食堂を使えませんか?」
ノアが尋ねる。
「使えます。ただし条件があります」
「何でしょう?」
「私が店を用意して終わりにはしません。店の選定から料理人への説明、客の反応の整理まで、あなたたち自身で参加してください」
ディランが驚く。
「俺たちが?」
「皆さんが始めた研究でしょう。学院の勉強を疎かにしない範囲で、最後まで見た方がいい」
カイルはそこでシオンへ視線を移した。
「特にフェルド君には良い経験になると思います」
「僕に?」
「商人になりたいのでしょう?」
ノアが一瞬固まった。
「どうしてそれを?」
「先ほどから商品の説明より、価格と流通の話をしている時の方が楽しそうですから」
エレノアが小さく笑った。
シオンも笑いそうになったが、ノアに睨まれたため我慢する。
「……なりたいです」
ノアは少し緊張しながら答えた。
「学院を卒業した後は、商人として働きたいと思っています」
「家業を継ぐのですか?」
「まだ決めてません。父の店を手伝う道もあります。でも、もっと大きな商会で勉強したいとも思っています」
そこでノアは少し迷った。
それでも覚悟を決めたように続ける。
「できるなら、いつかベルナード商会でも働いてみたいです」
ディランが横からノアを見る。
シオンは黙っていた。
一度目の未来では、カイル・ベルナードとノア・フェルドは競争相手だった。
今は十二歳のノアが、カイル本人へ働いてみたいと伝えている。
未来はすでに、シオンが知っていた形から大きく外れ始めていた。
カイルは笑わなかった。
軽く受け流すこともしなかった。
「それなら、今から色々なものを見ておくといいでしょう」
「はい」
「ただし、ベルナード商会へ入ることだけを目標にはしないでください」
ノアが顔を上げる。
「どうしてですか?」
「あなたが卒業する六年後、うちが今と同じ商売をしているとは限りません。フェルド商店が大きくなっているかもしれないし、あなた自身が別の商売を始めたくなるかもしれない」
カイルは穏やかに続けた。
「商人が六年先の自分の道を一つに決めてしまうのは、少し早すぎます」
ノアはしばらく黙っていたが、やがて大きく頷いた。
「分かりました」
シオンはそのやり取りを見ながら、胸の中で少しだけ笑った。
カイルは知らない。
目の前にいる十二歳の少年が、未来では自分と市場を争うほどの大商人になることを。
ノアも知らない。
自分が憧れている人物と、いつか肩を並べる未来があったことを。
そしてシオン自身にも、もう二人がこれからどんな関係になるのかは分からなかった。
以前なら、そのことに多少の不安を覚えただろう。
今はむしろ、この二人が自分の知らない関係を作っていくところを見てみたいと思っていた。
話が雪麦へ戻ると、今度はエレノアが資料を手に取った。
「地方向けの商品についても考えないといけませんね。王都で高く売れるようになったからといって、クロフォード領の人たちが食べられなくなっては本末転倒でしょう?」
「それは俺も気になってました」
ディランがすぐに答える。
「元々、雪麦は貧しい村でも作れるから使われてたんです。それが王都で売れるようになって、全部商人に持っていかれたら困ります」
「重要な問題です」
エレノアが頷いた。
「商品価値が上がれば、農家の収入は増えます。ただし価格が上がりすぎれば、それまで雪麦を食べていた人が買えなくなる可能性もある。農家が自分たちで食べる分まで売ってしまうことも考えられます」
ノアも先ほどまでの興奮を抑え、真剣に資料を見る。
「だったら最初から王都へ出す量を決めた方がいいです。試験栽培の間は特に、現地で必要な量を確保して、余剰分だけ使う」
「そうですね。それに、まだ収穫量そのものを増やす研究も始まったばかりです」
セレナが続ける。
「今ある雪麦を全部商品にするのではなく、まず少量だけ王都へ持ってきて反応を見る方がいいと思います」
「僕も賛成です。三軒から五軒の店なら、最初は大量に必要ありません」
ノアは紙へ数字を書き始めた。
食堂一軒で一日に使う量を仮定し、それを五軒分にする。試験期間を十日、二十日と変えながら、必要な雪麦の量を計算していく。
まだ十二歳の計算だ。
実際の商売にそのまま使えるほど精密ではない。
それでもカイルは途中で答えを教えず、数字が大きくずれた時だけ質問を挟んだ。
「一皿に使う量をどう決めました?」
「さっきのスープからです。一人分でこのくらいだったので」
「廃棄分は?」
「あ……入れてません」
「加工中に割れた粒はすべて使えますか?」
「今の方法だと無理ですね。だったら加工歩留まりも必要か」
「輸送中の損失もあります」
ノアは指摘されるたびに帳面へ書き加える。
落ち込んでいる様子はなかった。
むしろ楽しそうだった。
シオンはそんなノアを見ながら、自分が口を出しすぎないよう意識していた。
商人として働いた経験があるため、分かることはいくつもある。
しかし今は、ノアがカイルから学ぶ時間だ。
自分が答えを先に言う必要はない。
それに一度目の人生で商売をしていたとはいえ、シオンは小さな店を経営していた程度だ。王都から地方まで流通網を持つカイルと比べれば、商売の規模も経験も違う。
自分より適した人がいるなら、その人に任せる。
それも今の人生で大切にしていることだった。
一時間ほど話し合った結果、雪麦の商品化試験について大まかな方針が決まった。
クロフォード領では現在の試験栽培と加工研究を続け、生活用の雪麦を不足させないことを最優先にする。その上で試験用として確保した少量だけを王都へ運び、ベルナード商会と取引のある食堂で料理として提供する。
料理についても、いきなり何種類も作らない。
まずは研究棟で評判の良かった肉と根菜のスープを基本にする。店ごとに多少の味付けは変えても、雪麦の量と下処理については同じ条件を守ってもらう。
そして客の反応を集める。
味。
食感。
腹持ち。
価格。
もう一度注文したいと思うか。
それらを確認してから、商品として袋売りするか、別の料理を試すかを考えることになった。
「最初から売れると思わないことです」
話し合いの最後に、カイルが四人へ言った。
「新しい商品を試せば、失敗することの方が多い。五軒で試して五軒とも駄目なら、そこで理由を考えればいい。味なのか、価格なのか、料理なのか、それとも雪麦そのものに需要がないのか。失敗の理由が分かれば、次の試験に使えます」
「もし全部駄目だったら?」
ディランが尋ねる。
「その時は寒冷地向けの保存食に戻ればいいでしょう」
カイルは簡単に答えた。
「一つの商品に、必ず大成功させなければならない理由などありません。雪麦がクロフォード領の冬を少し楽にするだけでも、十分に価値があります」
ディランはその言葉を聞いて、少し安心したようだった。
シオンも同じ気持ちだった。
未来で雪麦が有名になったことを知っている自分は、知らず知らずのうちにそこへ到達することを前提に考えていたのかもしれない。
だが、今の雪麦が未来と同じ道を辿る保証などない。
未来では何十年も掛かった品種改良が、今回は別の形になる可能性もある。王都では受け入れられず、寒冷地だけで普及するかもしれないし、逆に一度目には存在しなかった料理が生まれるかもしれない。
それでいいのだ。
自分が知っている未来を再現することが目的ではない。
今いる人たちにとって、少しでも良い形へ持っていくことができれば十分だった。
ベルナード商会を出る頃には、外は夕方になっていた。
馬車が用意されるまで少し時間があるため、四人は入口近くで待つことになった。
ノアは建物を出てからも帳面を開いている。
「ノア、歩きながら読むと危ないぞ」
ディランが言う。
「今書かないと忘れる」
「何を書いてるんだ?」
「今日カイルさんに言われたこと全部。それと、自分で答えられなかったこと」
「そんなに?」
「こんな機会、次いつあるか分からないから」
ノアは帳面から目を離さない。
その様子を見ていたセレナが、シオンの隣で小さく笑った。
「楽しそうですね」
「うん。連れてきて良かった」
「シオンが思っていた通りでしたか?」
その質問に、シオンは一瞬だけ考えた。
セレナが何を指しているのかは分かる。
以前からシオンは、ノアには商売の才能があると話していた。
「思ってた以上かも」
そう答える。
未来のノアがどれほど大きな商人になるのかを、セレナへ説明する必要はない。
今ここにいるノアを見れば、それだけで十分だった。
やがてノアが帳面を閉じ、シオンのところへ来た。
「シオン」
「何?」
「ありがとう」
「急にどうしたの?」
「カイルさんに会わせてくれたこと。雪麦の話だけじゃなくて、色々聞けたから」
普段より少し照れたような表情だった。
「まだ終わってないよ。今度は食堂で試すんだから」
「分かってる。だから次は僕がやる」
「ノアが?」
「店を選ぶところから参加していいって言われただろ。だったら僕が候補を考える。ベルナード商会の取引先全部は知らないけど、どういう店が向いてるかくらいは調べられる」
シオンは少し驚いたが、すぐに頷いた。
「じゃあ任せるよ」
「そんな簡単に?」
「ノアが一番やりたいんだろ?」
「……うん」
「だったら適任じゃん」
ノアは少し黙った後、嬉しそうに頷いた。
シオンはその姿を見ながら、一度目の人生で知っていた《大商人ノア・フェルド》という名前を思い出していた。
以前はその未来を知っているから、彼へ興味を持った。
雪麦の相談相手として声を掛けた時も、未来の商才を期待していなかったと言えば嘘になる。
しかし今は違う。
目の前にいるのは、未来の大商人ではない。憧れの人物に会って緊張し、指摘されたことを忘れないよう帳面へ書き込み、自分から次の仕事を引き受けようとしている十二歳の友人だった。
未来で何になるかは、もう重要ではない。
ノアがベルナード商会へ入るのか。
父親の店を継ぐのか。
それとも一度目と同じように、自分の商会を作るのか。
今のシオンには分からないし、決める必要もなかった。
雪麦についても同じだろう。
未来で有名な穀物になることを知っていても、今度も同じ売れ方をするとは限らない。むしろセレナやノア、ディラン、ヘンリクが関わったことで、一度目にはなかった商品になる可能性の方が高くなっている。
それなら、その変化を見ていけばいい。
未来を知っている自分が道を決めるのではなく、未来に存在した一つの可能性を示し、今を生きている人たちが自分たちの答えを作っていく。
シオンには、その方がずっと面白く思えた。
やがて迎えの馬車がベルナード商会の前へ到着すると、四人は揃って乗り込んだ。ディランは試食を出す食堂について早くも料理の話を始め、ノアは候補店に必要な条件を帳面へ書き足し、セレナは研究棟で追加すべき比較試験について考えている。
シオンは三人の話を聞きながら窓の外へ視線を向けた。
一度目の人生では、雪麦がどの店で最初に売れたのかなど知らなかった。
誰が最初に加工方法を考え、誰が最初の料理を作り、誰が商売として広げたのかも知らない。ただ数十年後に完成した商品を買い、それを当たり前のように扱っていただけだった。
今は、その当たり前が生まれる途中にいる。
しかも、これから出来上がるものが自分の知っている雪麦と同じになる保証はない。
シオンはそれで構わないと思っていた。
未来で見た雪麦を再現するのではなく、自分たちの雪麦を作ればいい。その最初の一袋が王都の食堂へ運ばれる日は、もうそれほど遠くなかった。




