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無能の逆襲 ~無能は回帰しても無能のままだった~  作者: にゅん


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21/52

森から来たもの

 頬を濡らした最初の一滴から、それほど時間は掛からなかった。森を覆う雲は急速に厚みを増し、学院へ戻るため歩いていた一年生たちの頭上へ、細かな雨が降り始めている。


 幸い、まだ視界を遮るほどの雨ではない。しかし森の中では濡れた土や落ち葉が滑りやすくなるため、先頭を歩くバルガスは進む速度を少し落とし、各班へ距離を空けすぎないよう指示を出していた。


「シオンの言った通り、本当に降ってきたな」


 ディランが空を見上げながら話しかけてくる。


「朝の空を見れば、このくらいは予想できるよ。絶対に降ると思っていたわけじゃないし、外れてたら何も言われなかっただろうね」


「俺は晴れると思ってたぞ」


「ディランは朝から槍しか見てなかったじゃないか」


「ちゃんと空も見てたって!」


 ノアに突っ込まれ、ディランが反論する。少し前まで正体不明の魔物の痕跡について緊張していたとは思えないやり取りだったが、シオンとしてはむしろありがたかった。


 教師と騎士が周囲を警戒している以上、生徒が必要以上に怯えても仕方がない。


 それでもシオン自身は、会話へ加わりながら何度も周囲へ視線を向けていた。


 先ほど見つけた三本の傷が気になっている。


 胸ほどの高さに残された爪のような痕跡と、近くに倒れていた草。それだけなら森に暮らす魔物が残したものとして不思議ではないが、学院の管理区域では通常見られない痕跡だったからこそ、バルガスは実習そのものを中止した。


 何より、教師たちが調査から戻った時の表情を覚えている。


 念のため中止したという雰囲気ではなかった。


「……やっぱり静かだな」


 シオンは歩きながら小さく呟いた。


 雨音がある。


 木々の葉を雨粒が叩き、濡れた枝から雫が落ちているため、森そのものが静かなわけではない。


 しかし、別の音が少なかった。


「何が?」


 近くを歩いていたノアが聞き返す。


「鳥の声がほとんど聞こえないと思って」


「雨が降ってるからじゃないの?」


「その可能性もある。ただ、さっきから小動物も見てない」


 シオンは断定しなかった。


 森が静かになる理由などいくらでもある。これだけ大勢の人間が歩いていれば、動物が先に逃げるのも当然だった。


 それでも、一度目の人生で冒険者として何度も森へ入った経験が警戒を促していた。


 森の中では、何かを見つけてから警戒するのでは遅い場合がある。


 鳥が消えたこと。


 獣の声が聞こえないこと。


 いつもなら見つかる小さな足跡が途切れていること。


 一つだけなら意味を持たない変化でも、複数重なれば何かがいる可能性を考えるべきだった。


「ディラン、槍はすぐ使える?」


「もちろん。さっきから持ったままだぞ」


「だったら、そのままにしておいて」


 シオンが答えると、ディランの表情から少しだけ笑みが消えた。


「何かいるのか?」


「分からないよ。ただ、警戒して困ることもないだろ」


「それはそうだな」


 ディランは余計な質問をせず、槍を握り直した。


 その会話を聞いていたミレイアも腰の治療鞄を確認し、ノアは背嚢の紐を締め直している。まだ付き合いの短いミレイアはともかく、ディランとノアはシオンが理由もなく不安を煽る人間ではないことを理解してくれているらしい。


 ただ一人、ヴァルターだけは違った。


「また何か気づいたのか?」


「だから、何も見つけてないって。森が少し静かな気がするだけだよ」


「先ほども、お前だけが痕跡を見つけた」


「今度は気のせいかもしれない。だから先生に報告するほどでもないと思ってる」


 ヴァルターは納得した様子を見せなかった。


 シオンとしても、これ以上説明することはできない。何十年も冒険者や行商人として各地を歩き、危険な場所で野営した経験があるから気になるのだとは言えないのだから、今は警戒しておくしかなかった。


 そのまま数分ほど歩いたところで、列の前方にいたバルガスが突然右腕を上げた。


「全員、止まれ!」


 鋭い声が雨の森へ響く。


 生徒たちが一斉に足を止めた。


 先ほどまで聞こえていた話し声が消え、雨が葉を叩く音だけが残る。


「班ごとに固まれ。列から離れるな!」


 バルガスと同行していた騎士たちが剣を抜く。その動きを見た瞬間、生徒たちの間に緊張が走った。


 シオンも第五班の仲間と距離を詰める。


「何か見つかったの?」


 ミレイアが小声で尋ねる。


「分からない。でも先生たちは気づいてる」


 シオンは声を抑えながら答えた。


 前方にいる騎士の一人が森の右側を見ている。


 別の騎士は左側へ身体を向けていた。


 一方向ではない。


 その事実に気づいた瞬間、シオンの背中に嫌な感覚が走った。


「全員、その場から動くな!」


 バルガスがもう一度叫ぶ。


 直後、右側の茂みが大きく揺れた。


 何かが地面を走っているのではない。


 揺れているのは、人間の頭より遥かに高い位置にある枝だった。


「上だ!」


 シオンが反射的に声を上げた。


 枝が大きくしなる。


 次の瞬間、灰色の影が木の上から飛び出した。


 人間より少し小柄な身体に長い腕を持ち、その両手から灰色の爪が伸びている。雨に濡れた体毛を逆立て、口を大きく開いた魔物が騎士へ飛びかかった。


「《灰爪猿》だ! 学生を中央へ集めろ!」


 バルガスの声と同時に、騎士が剣を振るった。


 空中にいた灰爪猿が身体を捻る。


 完全には避けられず、肩口を斬られながら地面へ転がった。それでも即死はせず、長い腕を使って立ち上がろうとする。


 そこへ別の騎士が踏み込み、首元へ剣を振り下ろした。


 最初の一体が動かなくなる。


 しかし、それで終わらなかった。


 左右の木々が次々と揺れ始める。


「西側にもいます! 五体確認!」


「北側に三体! まだ奥にもいる可能性があります!」


 騎士たちの報告が飛び交う。


 バルガスの表情が一気に険しくなった。


「学生は中央へ! 戦闘できる者も勝手に前へ出るな! 騎士は外周を固めろ!」


 シオンたちも他の生徒と一緒に中央へ移動した。


 周囲では悲鳴を上げる者もいる。


 無理もない。


 魔物について授業で学んでいても、実際に目の前で襲撃される経験は別物だ。特に王都で育った貴族の子供なら、本物の魔物を見ること自体が初めてでもおかしくなかった。


「灰爪猿って、強いのか?」


 ディランが槍を構えながら尋ねてくる。


「騎士が一対一で負けるような魔物じゃない。でも群れで狩るから厄介なんだ。正面にいる奴だけ見ない方がいい」


「どういう意味だ?」


「一部が獲物の注意を引いて、別の個体が木を使って横や後ろへ回ることがある。先生の言う通り中央から動かない方がいい」


 ディランへ説明しながら、シオンは周囲を見続けた。


 これは図鑑だけで覚えた知識ではない。


 一度目の人生で実際に戦ったことがある。


 若い冒険者だった頃、一体の灰爪猿を追いかけて木々の奥へ入り、仲間と分断された経験もあった。幸い大怪我だけで済んだが、その時に年上の冒険者から散々叱られている。


 目の前にいる一体だけを見るな。


 群れで動く魔物と戦う時は、見えていない個体を常に考えろ。


 何十年経っても忘れなかった教訓だった。


「来るぞ!」


 騎士が叫ぶ。


 今度は三体が同時に飛び出した。


 一体が地上を走り、残る二体は木の枝を蹴って上から襲いかかる。騎士たちが迎え撃ち、バルガスも風魔法を放って一体を木へ叩きつけた。


 戦闘能力の差は明らかだった。


 灰爪猿は学生にとって危険でも、王立学院の警備を任される騎士たちは訓練を積んでいる。正面から戦う限り、数体程度なら問題なく対処できる。


 だからこそ、シオンは別の方向を見ていた。


 確認された数と、実際に戦っている数が合わない。


 右側に二体。


 前方に三体。


 左側にも二体が見える。


 少なくとも八体以上いると報告されていたのに、目に入るのは七体だけだった。


「一体足りない……」


「何?」


 ヴァルターが振り向く。


「前を見るな。後ろと上を見て!」


 シオンが声を強める。


 ヴァルターは一瞬だけ怪訝な顔をしたものの、すぐに周囲へ視線を向けた。


 ディランも同じように槍を持ち直す。


 ノアとミレイアは二人の間へ入った。


 その直後、後方にある木の枝が僅かに沈んだ。


「後ろ!」


 シオンの声とほぼ同時に灰色の影が飛び降りる。


 狙われたのは第五班ではなく、その近くにいた別班の女子生徒だった。


 恐怖で身体が固まっている。


「伏せろ!」


 ヴァルターが叫び、右手を向けた。


「《雷矢》!」


 青白い雷が雨の中を走った。


 空中の灰爪猿へ直撃する。


 魔物の身体が横へ弾かれ、女子生徒から数歩離れた地面へ落ちた。


「離れろ! まだ生きてる!」


 シオンの声を聞き、近くの生徒たちが後退する。


 雷を受けた灰爪猿は痙攣していたが、まだ動いていた。片腕を地面へ突き、身体を起こそうとしている。


「ディラン、前に出すぎるな! 槍の距離を使え!」


「分かってる!」


 ディランが踏み込む。


 初めての実戦であることを考えれば、動きは驚くほど安定していた。


 やはり《槍術》の才能は本物なのだろう。


 それでも相手は訓練用の人形ではない。


 ディランの槍が灰爪猿の肩へ突き刺さった瞬間、魔物は痛みに暴れ、爪で柄を掴もうとした。


「抜くな! そのまま押さえろ!」


 シオンが叫ぶ。


 ディランは反射的に従い、槍を引くのではなく全身の体重を掛けた。


 灰爪猿の身体が地面へ押し戻される。


「ヴァルター!」


「分かっている! クロフォード、離れろ!」


 ディランが槍から手を離して横へ飛ぶ。


 直後に二発目の《雷矢》が灰爪猿へ直撃した。


 今度こそ魔物の動きが止まる。


「槍を回収して戻れ! 追うなよ!」


「お、おう!」


 ディランは自分が魔物を倒したことに呆然としかけたが、シオンの声で我に返った。槍を引き抜いてすぐに後退し、再び第五班の位置へ戻ってくる。


「初めてにしては悪くなかったな」


「褒めるのは後にしてくれ。手が震えてる」


「それなら正常だよ」


 シオン自身の心臓も激しく鳴っていた。


 六十年生きた記憶があっても、恐怖を感じなくなるわけではない。むしろ魔物が人間をどれほど簡単に傷つけるのか知っているからこそ、怖さも理解している。


 周囲では騎士たちの戦闘が続いていた。


 正面にいた灰爪猿は次々と倒されている。


 群れの方も正面突破が難しいと判断したのか、木の上を移動する個体が増え始めた。


 シオンはその動きを追う。


 雨のせいで視界が悪い。


 葉が揺れても、それが雨風によるものなのか魔物が動いたものなのか判断しづらかった。


「シオン、左!」


 今度はディランが叫んだ。


 シオンもすぐに確認する。


 二本の木の間を灰爪猿が移動していた。


「騎士が気づいてる。俺たちは動かなくていい!」


 左側を守っていた騎士もすでに剣を構えている。


 ここで全員が同じ魔物へ注意を向ければ、反対側への警戒が薄くなる。


 シオンは再び右側へ視線を移した。


 ヴァルターも同じように周囲を見ている。


 先ほどまでシオンのことばかり観察していた少年とは思えないほど、実戦では切り替えが早かった。


「ヴァルター、魔力は?」


「まだ問題ない。あと数発は同じ威力で撃てる」


「なら無理に使わない方がいい。騎士が対応できてるうちは温存しよう」


「お前に指揮されるつもりはない」


「だったら提案ってことにして」


「……それなら聞いておく」


 こんな時でも素直ではない。


 シオンは少しだけ笑いそうになったが、すぐに表情を戻した。


 頭上から小さな音が聞こえた。


 雨粒が枝へ落ちる音とは違う。


 何か重いものが木を蹴った時の、鈍い軋みだった。


「ヴァルター、右へ飛べ!」


 シオンは考えるより先に叫んでいた。


 ヴァルターがこちらを見る。


「何を――」


「早く!」


 声の強さに押されたのか、ヴァルターが右へ身体を投げ出した。


 その直後だった。


 先ほどまで彼が立っていた場所へ、一体の灰爪猿が頭上から落ちてくる。


 灰色の爪が地面を抉り、泥が飛び散った。


 あと一瞬遅ければ、ヴァルターの肩から背中にかけて爪が食い込んでいたはずだ。


「こいつ、どこから……!」


 ヴァルターが起き上がろうとする。


 しかし、灰爪猿の方が早かった。


 一撃を外した魔物はすぐに身体を反転させ、地面に倒れているヴァルターへ飛びかかろうとしている。


 近くの騎士は別の個体と交戦中だった。


 ディランも数歩離れている。


 魔法を撃つには近すぎる。


 シオンは腰に差していた学院支給の木剣へ手を掛けた。


 自分が灰爪猿に勝てないことなど、誰より分かっている。


 十二歳の身体。


 《無能》の才能。


 実技授業では、同年代の平均的な生徒にさえ普通に負ける。


 だが、倒す必要はない。


 ヴァルターが起き上がるまで、ほんの一瞬だけ時間を作ればいい。


「シオン!」


 ディランの叫びを聞きながら、シオンは前へ出た。


 灰爪猿の右肩が沈む。


 次に来る攻撃が分かった。


 右腕による横薙ぎ。


 一度目の人生なら避けられた。


 身体を半歩引き、相手の腕が通り過ぎた瞬間に懐へ入ることもできただろう。


 今の身体では無理だった。


 頭では分かっているのに、足が思った速度で動かない。


 シオンは回避を諦め、木剣を斜めに構えた。


 受け止めれば折られる。


 だから爪の軌道へ木剣を沿わせ、力を横へ流す。


 灰色の爪が木剣へぶつかった。


「ぐっ……!」


 凄まじい衝撃が右腕へ伝わる。


 完全には流せなかった。


 木剣が手から弾き飛ばされ、シオンの身体も横へよろめいた。


 それでも爪は逸れた。


 灰爪猿の攻撃が空を切る。


「シオン、下がれ!」


 今度はディランが間に入った。


 槍の穂先が灰爪猿の胴へ突き刺さる。


 深くは入らなかったものの、魔物の注意が完全にディランへ移った。


「クロフォード、そのまま!」


 立ち上がったヴァルターの右手に青白い光が集まる。


「撃つぞ!」


 その声を聞いたディランが槍を引き、横へ飛んだ。


「《雷矢》!」


 至近距離から放たれた雷撃が灰爪猿の胸へ直撃する。


 魔物が後方へ吹き飛び、木の幹へ叩きつけられた。


 そこへ駆けつけた学院騎士が一気に距離を詰め、立ち上がる前に剣を振り下ろした。


「学生は中央へ戻れ! ここは俺たちが引き受ける!」


「はい!」


 ディランが答え、シオンの腕を掴む。


「お前も戻るぞ!」


「分かってる。右腕は引っ張らないで」


「怪我したのか!?」


「痺れてるだけだと思う」


 シオンは右手を握ろうとした。


 指は動く。


 だが、腕全体に鈍い痛みが残っていた。


 たった一撃をまともに受けたわけでもない。軌道を逸らしただけで、この有様だった。


 一度目の人生で積み重ねた技術は残っている。


 判断もできる。


 相手がどう動くのかもある程度読める。


 しかし、それを実行する身体は十二歳の《無能》の少年のものだった。


 その事実を、今まで以上にはっきりと思い知らされた。


「シオン、腕を見せて」


 中央まで戻ると、ミレイアがすぐに近づいてきた。


「大丈夫だと思う」


「あなたじゃなくて私が判断するの。早く見せて」


「……お願いします」


 強い口調で言われ、シオンは素直に右腕を差し出した。


 ミレイアは手首から肘、肩まで順番に確認し、指を動かすよう指示する。骨折はしていないらしく、淡い治癒魔法を掛けてもらうと痺れも少しずつ弱くなっていった。


「骨には異常がなさそうだけど、今日はもう木剣を握らないで。あと、学院へ戻ったら先生にも診てもらって」


「分かった。ありがとう」


「それから、もう魔物の前に出ないで。あなた、《無能》なんでしょう?」


「それは自分が一番よく知ってるよ」


「だったら自分の身体も大事にして」


 ミレイアは本気で怒っているらしい。


 シオンとしても反論できなかった。


 ヴァルターを助ける必要があったとはいえ、今の身体で魔物の前へ出たことが危険だったのは間違いない。今回は経験通りに攻撃を逸らせたが、少しでも判断を誤れば右腕を裂かれていた。


「シオン」


 呼ばれて振り向く。


 ヴァルターが立っていた。


 制服は泥で汚れているものの、怪我はしていない。


「大丈夫だった?」


「それを私に聞くのか?」


「怪我してないならいいよ」


「お前の方が怪我をしただろう」


「軽いものだって。ミレイアにも診てもらった」


 ヴァルターはすぐには返事をしなかった。


 普段ならシオンの言動を観察するような鋭い目を向けてくるが、今は少し違っている。


「……助かった」


「うん?」


「お前が右へ飛べと言わなければ、まともに攻撃を受けていた。だから礼を言っている」


「ああ。それなら、どういたしまして」


 シオンが普通に答えると、ヴァルターの眉が僅かに動いた。


「なぜ分かった?」


「枝の音がしたから」


「私には聞こえなかった」


「戦闘中だったからだろ。ヴァルターは前を見てたし、俺は戦えないから周りを見る余裕があった。それだけだよ」


「だが、お前は攻撃まで読んだ」


 今度はシオンが黙った。


 やはり見られていたらしい。


「右から来るのが分かったから、木剣を合わせただけだよ」


「実技では私より遥かに弱い」


「知ってる」


「なのに、なぜ実戦であんな動きができる?」


「できてないよ」


 シオンは右腕を少し持ち上げて見せた。


「ちゃんと動けるなら避けてる。避けられなかったから木剣を当てて、しかも一回で腕が使えなくなった。先生が来なかったら次は無理だったよ」


 これは言い逃れではなかった。


 事実として、シオンは弱い。


 経験があるだけで、その経験を十全に生かせる身体能力はない。


「昔から家の騎士に、魔物の動きについて教えてもらってるんだ。アルヴェリア領には危険な森もあるからね」


 あらかじめ使えるよう準備していた説明も付け加える。


 ヴァルターはしばらく黙っていたが、それ以上追及する前に周囲から大きな声が響いた。


「残りが逃げるぞ! 深追いするな!」


 バルガスの指示だった。


 騎士たちと交戦していた灰爪猿が次々と森の奥へ逃げていく。


 学院騎士たちは追撃しなかった。


 生徒の護衛が最優先であり、群れの全数も分からない状況で森の奥まで追えば、逆に誘い込まれる危険がある。


 やがて周囲から戦闘音が消えた。


 雨音だけが戻ってくる。


 倒された灰爪猿は九体。


 森へ逃げた姿を確認できたものが三体。


 さらに別の個体がいる可能性もあるため、騎士たちは警戒を解かなかった。


 幸い、生徒側に重傷者はいなかった。転倒して擦り傷を負った者や、逃げる際に足首を捻った者はいるものの、灰爪猿の爪を直接受けた生徒はいない。


 学院騎士の一人が腕を浅く切られていたが、それも治癒魔法で処置できる程度だった。


「第五班、全員いるな?」


 周囲の確認を終えたバルガスが近づいてくる。


「全員います」


 ノアが答える。


 バルガスは五人を確認した後、シオンの右腕へ視線を向けた。


「アルヴェリア。腕を負傷したのか?」


「灰爪猿の攻撃を一度だけ逸らしました。骨には異常がないとミレイアに確認してもらっています」


「なぜ学生が灰爪猿の攻撃を受ける位置にいた?」


 当然の質問だった。


 シオンが説明するより先に、ヴァルターが口を開いた。


「私を庇ったからです。頭上から一体が接近していましたが、私が気づくのが遅れました。アルヴェリアに言われて避けた後も起き上がるのが間に合わず、あいつが時間を作りました」


 バルガスがシオンを見る。


「事実か?」


「はい。ただ、倒そうとしたわけではありません。ヴァルターが立つまで一撃だけ凌ぐつもりでした」


「その一撃で腕を使えなくしていれば世話はない。自分の力量を超えた行動をすれば、助ける相手を増やす結果になることもある」


「……はい」


 シオンは素直に頭を下げた。


 耳が痛い。


 一度目の人生ならできたという感覚が、どこかに残っていたのかもしれない。


 六十年間の記憶を持っていても、身体まで六十年間鍛えた状態で戻ってきたわけではない。その違いを理解しているつもりでも、緊急時には昔の感覚で動こうとしてしまう。


「ただし、最初に痕跡を見つけて教師へ報告したこと、襲撃時に周囲を見ていたことについては正しい。クロフォードとグランツも学生としてはよく動いた。だが、三人とも覚えておけ。今回は学院騎士がいたから対処できたのであって、お前たちだけなら全員無事では済まなかった可能性が高い」


 三人とも黙って頷いた。


 シオンも異論はない。


 ディランとヴァルターは同年代として優秀だが、まだ十二歳だ。シオンに至っては経験だけが先行しており、実際の戦闘能力は二人より遥かに低い。


「十分休んだら帰還を再開する。今度は班ごとの間隔をさらに狭める。学院へ着くまで実習は終わっていないと思え」


 バルガスはそれだけ告げ、次の班へ向かった。


 シオンは右腕を軽く動かしてみる。


 まだ少し痛む。


「怖かったな……」


 自然と漏れた言葉を聞き、ディランが意外そうな顔をした。


「お前でも怖いんだな。俺よりずっと冷静だったぞ」


「怖いから周りを見るんだよ。魔物なんて怖くないと思ってる方が危ない」


「それも騎士に教わったのか?」


 ディランに聞かれ、シオンは少し考えてから笑った。


「似たようなことはね」


 一度目の人生で教えてくれたのは、アルヴェリア家の騎士ではなかった。


 駆け出しの頃に世話になった冒険者たち。


 魔物を侮って怪我をした自分自身。


 何度も危険な場所を歩き、生きて帰ることを繰り返した四十年以上の人生そのものだった。


 それらを説明することはできない。


 それでも、今の自分を支えているのが才能ではなく、かつて積み重ねた失敗なのだということだけは確かだった。


ーーーヴァルター視点ーーー


 帰還が再開されてからも、ヴァルターは先ほどの戦闘を何度も思い返していた。


 シオン・アルヴェリアは弱い。


 その事実については、もう疑う余地がなかった。


 実技授業で何度見ても剣の動きは遅く、魔法についても同年代の平均以下である。今日も灰爪猿の一撃を完全には処理できず、木剣を弾き飛ばされただけで右腕を痛めていた。


 隠れた戦闘能力などない。


 少なくとも、ヴァルターにはそう見える。


 それなのに、戦闘が始まってからのシオンは妙だった。


 確認された魔物の数と戦っている数が違うことに気づき、正面ではなく後方を警戒した。


 ディランが灰爪猿へ槍を突き刺した時には、抜くのではなく押さえるよう指示した。


 自分が頭上から狙われた時には、誰より先に接近を察知していた。


 さらに灰爪猿と向き合った時、身体は追いついていないにもかかわらず、攻撃が来る方向そのものは分かっていたように見えた。


 どれも説明はできる。


 魔物図鑑を読んだ。


 家の騎士から教わった。


 偶然、枝の音を聞いた。


 実技で攻撃の読み方を学んだ。


 一つずつ取り出せば、何も不自然ではない。


 だが、それらが同じ十二歳の少年に重なると、ヴァルターにはどうしても引っかかった。


「またシオン見てるぞ」


 隣を歩いていたディランが声を掛けてきた。


「見ていない」


「いや、今ずっと見てただろ」


「前を歩いているのだから視界に入る」


「じゃあ俺も前歩こうか?」


「好きにしろ」


 ディランが笑っている。


 少し前まで本物の魔物と戦って手を震わせていた少年とは思えない。


「でも、シオンがいて助かったな」


 ディランが今度は真面目な声で言った。


「お前もそう思うだろ?」


「……否定はしない」


 実際、自分は助けられた。


 それを認めないほど、ヴァルターは傲慢なつもりはなかった。


「だったら、もう疑うのやめたら?」


「それとこれは別だ」


「面倒くさい奴だなあ」


「クロフォード、お前は疑問に思わないのか? あいつはどうして、あれほど森での判断に慣れている?」


「アルヴェリア家の騎士に教わったって言ってただろ」


「教わっただけで、あそこまで迷わず動けるものなのか?」


 ディランは少し考えた。


「知らん。でも、別にいいんじゃないか?」


「何がだ?」


「シオンが何か隠してても、悪いことしてるわけじゃないだろ。それに俺、友達の秘密を全部知らないと嫌だとか思わないし」


 ヴァルターは返事ができなかった。


 自分とディランでは、そもそもの考え方が違う。


 ヴァルターが気にしているのは、シオンが秘密を持っていることそのものではない。


 何も持っていないはずの人間が、持っている人間より先に認められているように見えたことが始まりだった。


 《無能》なのにセレナ・ヴァレンティアと親しい。


 国王から名前を覚えられている。


 王太子とも面識がある。


 優秀な兄と姉からも大切にされている。


 だから何か特別なものを隠しているはずだと思った。


 資料室で調べても、何も出てこなかった。


 実技を観察しても、本当に弱かった。


 ところが今日、初めて一つだけ分かった気がする。


 シオンは、何でもできる人間ではない。


 むしろ、できないことの方が多い。


 それでも、自分にできないことを無理にやろうとはせず、必要な時だけ周囲へ声を掛ける。


 戦闘でもそうだった。


 灰爪猿を自分で倒そうとはしなかった。


 ディランの槍と自分の雷魔法を使い、教師や騎士が対応できる場所では任せていた。


 ただし、自分が襲われた瞬間だけは前へ出た。


 その結果、右腕を痛めている。


「……やっぱり分からないな」


「まだ言ってるのか?」


「分からないものは分からない」


 ヴァルターは前を歩くシオンを見る。


 嫌いだから調べている。


 最初はそうだったのかもしれない。


 だが、今は少し違う。


 自分が知りたいのは、《無能》なのになぜ評価されているのかという理由だけではなくなっていた。


 シオン・アルヴェリアという少年が、どういう人間なのか。


 そのこと自体が気になり始めていた。


ーーーシオン視点ーーー


 森を抜ける頃には雨がさらに強くなっていた。


 学院の建物が遠くに見え始めたことで、生徒たちの緊張もようやく薄れていく。シオンも少しだけ肩の力を抜いたが、最後まで周囲への警戒は解かなかった。


 灰爪猿の群れについては、学院の教師と騎士が改めて調査するだろう。


 自分が考えるべきことではない。


 そう思いながらも、シオンには一つだけ気になることが残っていた。


 一度目の人生では、この襲撃はなかった。


 少なくとも自分の記憶には存在しない。


 未来が変化していること自体は、もう理解している。


 母を救った。


 ローデン金鉱を早く発見した。


 セレナを救い、ベルナード商店へ投資し、レグナード大震災の被害を減らした。


 さらに国王の死まで防いだ。


 それだけ歴史へ手を加えれば、自分の知らない出来事が起きても不思議ではない。


 ただし、今回の灰爪猿が自分の行動による変化なのかは分からなかった。


 何でも自分が未来を変えた結果だと考えるのも傲慢だろう。


 単純に、一度目には別の時期に移動した群れなのかもしれない。


 学院騎士が知らないところで討伐していた可能性もある。


 今の自分に分かる材料は少なすぎる。


 だからシオンは結論を出さなかった。


 未来の知識を持っているからこそ、その知識に当てはまらない出来事を無理に説明しようとしてはいけない。


 今日、役に立ったのは未来の記憶ではなかった。


 灰爪猿が今日ここへ現れることなど知らなかったし、ヴァルターが狙われることも知らなかった。


 役に立ったのは、何十年も生きる中で覚えた経験だった。


 それでも経験だけでは、灰爪猿を倒せなかった。


 シオンは治療を受けた右腕を見た。


 一撃を逸らしただけで痛めた腕が、自分の現在地を嫌というほど教えてくれている。


 知っていることと、できることは違う。


 それは剣術の授業でも分かっていたはずなのに、命が懸かった場面ではさらに残酷なほど明確だった。


「次は前に出るなよ」


 隣を歩いていたディランが、念を押すように言った。


「分かってるよ」


「本当に分かってるか? お前、俺に無茶するなって言うくせに自分でやったじゃん」


「それについては反省してる。ヴァルターが起きるまで時間を作る方法が他に思いつかなかったんだ」


「だったら次は俺を呼べ。俺には《槍術》があるんだから」


 ディランは胸を張った。


 少し前まで手を震わせていた少年が言うものだから、シオンは思わず笑ってしまう。


「分かった。頼りにしてる」


「任せろ!」


 その返事を聞きながら、シオンは不思議な感覚を覚えた。


 一度目の人生で知っていたディラン・クロフォードは、《王国の槍》と呼ばれた英雄だった。


 しかし今、隣にいるのは初めて魔物を倒して手を震わせ、それでも友人を守ろうとしてくれる十二歳の少年だ。


 未来の英雄だから頼るのではない。


 ディランだから頼る。


 その違いが、以前より自然に思えるようになっていた。


 学院の門が近づいてくる。


 その少し後ろでは、ヴァルターが相変わらずシオンを見ているらしく、ノアとミレイアに何か言われていた。


 今日の出来事で疑いが晴れたとは思えない。


 むしろ面倒な方向へ深まった可能性すらある。


 それでも、シオンは気にしなかった。


 剣も弱い。


 魔法も苦手。


 灰爪猿一体を自力で倒すことすらできない。


 そのどれも隠していないのだから、好きなだけ見ればいい。


 ただ、六十年間生きて身につけた経験まで、才能鑑定の水晶が教えてくれるわけではなかった。


 そしてシオン自身もまだ知らなかった。


 学院の教師たちが森に残された灰爪猿の痕跡を追った先で、単に群れが迷い込んだだけでは説明しづらいものを見つけることになる。


 それは一度目の人生でシオンが知ることのなかった、新しい未来の始まりだった。

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