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無能の逆襲 ~無能は回帰しても無能のままだった~  作者: にゅん


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知らない痕跡

 学院の管理区域へ入ってから、第五班は地図に記された小川を目印に森の奥へ進んでいた。


 先頭を歩いているのはディランだった。得意な槍を手にしているためか、学院からここまで歩いてきた時より明らかに機嫌がいい。その少し後ろをシオンとノアが歩き、ミレイアとヴァルターが続いている。


 森そのものに特別な危険はない。


 学院が一年生の実習に使う場所だけあって、街道から極端に離れているわけでもなく、事前に教師と騎士が安全確認を行っている。危険度の高い魔物が見つかれば、そもそも実習自体が延期されるはずだった。


「次の分岐、どっちだ?」


 先頭のディランが振り返った。


 シオンは手にしていた地図と周囲の地形を見比べる。


「右だと思う。左でも目的地には近づけるけど、途中で斜面を越えることになる」


「地図だけで分かるのか?」


「等高線が詰まってるだろ。こっちの方が高低差が大きい」


「ああ、これか」


 ディランが覗き込み、納得したように頷く。


 授業で習った内容なので、地図を正しく読めれば判断できる。ただし、実際の森へ入ると木々に視界を遮られるため、紙の上ほど簡単ではない。


「シオン、地図読むの慣れてない?」


 ノアが横から尋ねてきた。


「アルヴェリア領は広いからね。騎士から教えてもらったことがあるんだ」


「便利な家だな、侯爵家って」


「ノアが商売の計算に詳しいのと同じだよ」


「そう言われると納得できる」


 シオンは笑いながら地図を畳んだ。


 説明そのものに嘘はない。


 二度目の人生でも地図の読み方について騎士へ質問したことはある。ただ、現在の技術の大半が一度目の人生で冒険者や商人として身につけたものだという部分を話していないだけだった。


 右側の道を選び、しばらく進む。


 先ほどまで聞こえていた他班の声も遠くなっていた。


 班ごとに目的地が分けられているため、互いの姿が見えなくなること自体は予定通りだ。何か問題が起きれば教師へ知らせるための信号具も持たされている。


「そろそろ小川が見えるはずだ」


 ヴァルターが地図を確認しながら言う。


 ほどなく、水の流れる音が聞こえてきた。


 木々の間を抜けると、小さな川が現れる。


「よし。合ってた!」


「地図通りなんだから当然でしょ」


 ディランの喜び方にミレイアが呆れている。


 小川を越えた先に、第五班へ指定された野営区域があった。完全に場所が決められているわけではなく、一定範囲の中から自分たちで適切な場所を選ぶことも実習内容に含まれている。


「ここでいいんじゃないか?」


 ディランが最初に見つけた平坦な場所を指した。


 木々の間が広く、五人用の天幕を張るには十分な広さがある。


「待って」


 シオンはすぐに止めた。


「なんだ?」


「地面を見てみよう」


 しゃがみ込み、土へ触れる。


 表面は乾いている。


 だが、周囲を見れば僅かに窪んでいた。


 少し離れた場所には、雨水が流れた跡も残っている。


「午後に雨が降ったら、ここへ水が集まるかもしれない」


「そんなに降るか?」


「分からない。でも、わざわざ危ない場所を選ぶ必要もないだろ?」


 シオンは周囲を歩き、少し高くなった場所を探した。


 小川から遠すぎず、近すぎない。


 地面はほぼ平坦だが、僅かな傾斜がある。頭上にも大きな枯れ枝は見当たらない。


「俺ならこっちにする」


「理由は?」


 ヴァルターが尋ねた。


「さっきの場所より少し高い。雨が降っても水が溜まりにくいし、小川まで水を取りに行く距離も大して変わらない。風も木がある程度遮ってくれる」


 ヴァルターは二つの場所を見比べた。


 反論はしなかった。


「妥当だと思う」


「じゃあここにしようぜ」


 ディランが荷物を下ろす。


 五人で天幕を広げ、設営を始めた。


 シオンは手を出しすぎないよう意識していた。


 自分一人ならもっと早く組める。


 冒険者時代には、暗くなる前に野営地を作れなければ困る場面が何度もあった。雨の中で天幕を張ったことも、強風に備えて固定方法を変えたこともある。


 だが、これは授業だ。


 シオンだけが完成させても意味がない。


「ディラン、そこ引っ張りすぎ。反対側が浮いてる」


「これくらい張った方がいいだろ?」


「張るのはいいけど、片側だけ強くすると傾くよ。ノア、そっち少し緩めて」


「これくらい?」


「うん。ミレイア、その杭をもう少し外側にお願い」


「分かったわ」


 四人へ声を掛けながら調整する。


 ヴァルターは黙って杭を打っていたが、途中で手を止めた。


「アルヴェリア」


「何?」


「なぜそこへ杭を打つ?」


「雨が降った時に天幕へ水が流れ込まないようにしたいから。あとで周囲に浅く溝も作る」


「そこまで必要なのか?」


「降らなかったら無駄になる。でも降った後でやるより楽だよ」


 シオンが答えると、ヴァルターは空を見上げた。


 朝から広がっていた薄い雲は、森へ入った頃より少し厚くなっている。


「……分かった」


 それ以上は何も言わず、指定された場所へ杭を打った。


 天幕が完成した後、役割を分ける。


 ディランとヴァルターが薪を集め、ノアとミレイアが荷物を整理する。シオンは水場と周辺の地形をもう一度確認することになった。


「一人で行くなよ」


 出発しようとしたところで、ディランに止められた。


「小川までだよ」


「先生が単独行動するなって言ってただろ」


「それもそうか」


 冒険者時代の癖で、一人で動こうとしてしまった。


「じゃあ俺も行く」


「薪は?」


「グランツと一回集めてきた。まだ必要なら後で行くよ」


「分かった」


 二人で小川へ向かう。


 距離はそれほどない。


 シオンは水の流れを確認しながら歩いた。


「飲めそうか?」


「そのままは駄目。煮沸してからだね」


「見た感じ綺麗だけどな」


「上流に動物がいるかもしれないから」


「なるほど」


 ディランは素直に頷く。


 小川へ近づいたところで、シオンは足を止めた。


「どうした?」


「……ちょっと待って」


 何かが気になった。


 最初は理由が分からない。


 水音。


 湿った土。


 苔の匂い。


 風に揺れる葉。


 特に異常はないように見える。


 それでも、長く森を歩いてきた感覚が足を止めさせた。


 シオンは周囲をゆっくり見回した。


「シオン?」


「静かに」


 声を低くする。


 ディランも何かを察したのか、槍へ手を掛けた。


 シオンは小川の反対側へ目を向ける。


 草が一部だけ倒れていた。


 人が通った跡ではない。


 もっと低い位置。


 近づかず、目だけで追う。


「何かいるのか?」


「今はいないと思う」


「じゃあ何を見てる?」


「あそこ」


 シオンが指した場所を、ディランが見る。


「草?」


「倒れてる」


「動物じゃないのか?」


「たぶん何か通ったんだと思う。でも……」


 妙だった。


 足跡がはっきり残っていない。


 乾いた場所ならともかく、小川の近くは土が柔らかい。ある程度の大きさを持つ動物なら、何らかの跡が残るはずだった。


 シオンは安全を確認しながら少し横へ移動する。


 そこで別のものを見つけた。


 木の幹に傷がある。


 三本。


 地面からシオンの胸ほどの高さ。


「ディラン、戻ろう」


「え?」


「先生に報告した方がいい」


 即座に判断した。


「魔物なのか?」


「分からない」


「分からないのに?」


「分からないからだよ」


 森で一番危険なのは、知らないものを自分の都合で安全だと決めつけることだ。


 正体を確認するために追う必要はない。


 ここは学院の管理区域なのだから、異常があれば教師へ知らせればいい。


「分かった」


 ディランも反論しなかった。


 二人は野営地へ戻った。


「早かったわね。水は?」


 ミレイアが尋ねる。


「その前に、少し気になるものを見つけた」


 シオンが説明すると、ヴァルターがすぐに反応した。


「どんな痕跡だ?」


「草が倒れてた。それと木に三本の傷。足跡は見つからなかった」


「野生動物ではないのか?」


「可能性はあるよ。だから先生に確認してもらう」


「場所を見せろ」


「一緒に行くなら、先に先生へ連絡してから」


 シオンは譲らなかった。


 ヴァルターが一瞬だけ眉を寄せる。


「危険な魔物なら、痕跡から種類を特定できるかもしれない」


「それを俺たちがやる必要はないよ」


「授業で習った知識はある」


「知識があることと、追っていいことは別だろ」


 ヴァルターが黙った。


 シオンは責めるつもりはなかった。


「先生も言ってたじゃないか。魔物を倒すことが目的じゃないって」


「……分かった」


 ヴァルターが引いた。


 学院から渡されている信号具を使う。


 緊急を示すものではなく、教師を呼ぶための合図だ。


 しばらくすると、バルガスが一人の騎士を伴って現れた。


「何があった?」


 シオンが見つけたものを説明する。


 バルガスは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。


「誰が最初に気づいた?」


「俺です」


「アルヴェリアか。案内しろ。ただし全員で行く必要はない。クロフォードだけ同行しろ。他はここで待て」


「はい」


 シオンとディランが二人を小川まで案内する。


 草の倒れている場所を見せ、次に木の傷を示す。


 バルガスの表情が変わった。


「触ったか?」


「いいえ。近づいて見ただけです」


「正解だ」


 騎士が周囲を確認する。


 バルガスは傷の高さと深さを見た後、地面へしゃがみ込んだ。


「クロフォード。これを見て何だと思う?」


「爪の跡……ですよね?」


「そうだな」


「熊とか?」


「この辺りに生息する熊なら、もう少し幅が広い。それに傷の付き方が違う」


 バルガスは断定しなかった。


 その態度を見て、シオンも余計な推測をしない。


「先生も分からないんですか?」


「候補はいくつかある。だが、今ここで決める必要はない」


 その言葉に、シオンは内心で頷いた。


 バルガスは騎士へ合図した。


「他の班にも連絡しろ。実習を一時中断する。教師を集めて周囲を確認するぞ」


「実習を止めるんですか?」


 ディランが驚く。


「当然だ。安全確認で見落とした魔物が入り込んでいる可能性がある。学生の実習を続ける理由はない」


 判断が早い。


 元冒険者という経歴は伊達ではないらしい。


 野営地へ戻る途中、ディランがシオンの隣へ寄ってきた。


「なあ」


「何?」


「俺、あれ普通に見逃してたぞ」


「俺も最初は気づかなかったよ」


「でも気づいたじゃん」


「たまたまだって」


「そうか?」


 ディランは納得していないようだった。


 シオン自身、完全な偶然だとは思っていない。


 冒険者時代、痕跡を見逃して危険な目に遭ったことが何度もある。


 魔物そのものを見つけるより、魔物がいる可能性を示す小さな変化に気づく方が重要だった。


 その経験が残っている。


 才能ではない。


 何十年も失敗しながら覚えただけのことだ。


 野営地へ戻ると、ミレイアとノアが事情を聞いて驚いた。


 ヴァルターだけは何も言わず、シオンを見ていた。


 その視線には、以前より明らかに強い疑問が浮かんでいた。


ーーーヴァルター視点ーーー


 実習は一時中断となった。


 教師たちが周囲を調査している間、生徒は各班の野営地で待機するよう指示されている。


 ヴァルターは天幕の前に座りながら、少し離れたところでディランと話しているシオンを見ていた。


 まただ。


 また説明できない。


 シオンが強いなら分かる。


 特殊な探索系の才能を持っているなら、それでも説明できる。


 しかし、シオンは《無能》だ。


 魔力による探知を使った様子もない。


 そもそも本人が、何の魔物なのか分からないと言っている。


 それなのに異常だけは見つけた。


「何考えてるの?」


 隣に座ったミレイアが尋ねてきた。


「別に」


「アルヴェリア君のこと?」


「なぜ全員そう言うんだ」


「ずっと見てるからでしょう」


 また同じことを言われた。


 ヴァルターは不機嫌になりながらも否定できなかった。


「気になるだけだ」


「何が?」


「おかしいと思わないのか?」


「何を?」


「あいつは剣も魔法も得意ではない。野外活動に関係する才能も持っていない。それなのに、教師より先に異常を見つけた」


「先生は私たちと一緒に歩いてなかったでしょう」


「そういう意味ではない」


 ミレイアは少し考え、シオンを見る。


「経験があるんじゃない?」


「十二歳だぞ」


「侯爵家なんだから、領地で教えてもらったんじゃないの?」


 シオン自身と同じ説明だった。


 理屈としては成立する。


 それでもヴァルターには引っかかる。


「それだけじゃない」


「まだあるの?」


「野営地を決めた時もそうだった。地図を読むのも早い。今日の痕跡を見つけた時も、正体を調べようとせず即座に教師を呼んだ」


「正しい判断だったんでしょう?」


「だからおかしいんだ」


 ヴァルターは自分でも上手く説明できない苛立ちを覚えた。


 十二歳なら、危険な痕跡を見つければ興味を持ってもおかしくない。


 自分も最初は見に行こうとした。


 だがシオンは違った。


 分からないから戻る。


 学生が確認する必要はない。


 教師を呼ぶ。


 迷いがなかった。


「まるで一度失敗したことがあるみたいだ」


 無意識に口から出た。


「何それ?」


「……いや」


 ヴァルター自身、馬鹿なことを言ったと思った。


 十二歳の少年が、何度も森で危険な経験を積んでいるはずがない。


 それなら、アルヴェリア家の騎士から徹底的に教えられたと考える方が自然だ。


 だが、資料室で調べた時と同じだった。


 一つ一つには説明がつく。


 全部並べると、何かがおかしい。


 ヴァルターが考えていると、森の奥からバルガスと数人の教師が戻ってきた。


 その表情を見た瞬間、周囲の生徒たちから話し声が消えた。


「全員、荷物をまとめろ」


 バルガスの声が響く。


「野外実習は中止する。これから学院へ戻る」


 ディランが立ち上がった。


「先生、何か見つかったんですか?」


「痕跡が増えていた。少なくとも一体ではない可能性がある」


 その答えで、空気が一気に緊張する。


「魔物の種類は?」


 ヴァルターが尋ねる。


 バルガスは一瞬だけ黙った。


「まだ断定できん。ただし、この管理区域に通常いる種類ではない」


 それ以上は説明しなかった。


 教師と騎士たちが生徒を集め、班ごとに帰還準備を始める。


 ヴァルターも荷物をまとめながら、シオンを見た。


 シオンは驚いていた。


 その表情に演技は感じられない。


 まるで本人も、本当に何が起きているのか知らないようだった。


ーーーシオン視点ーーー


 学院へ戻る列の中で、シオンは何度も記憶を探っていた。


 十二歳。


 学院一年目。


 最初の野外実習。


 森。


 記憶にある限り、大きな問題は起きなかった。


 雨に降られ、野営に失敗し、同じ班の生徒に迷惑を掛けた。その程度だったはずだ。


 魔物の痕跡が見つかって実習が中止された覚えなどない。


「……知らないな」


 小さく呟く。


「何が?」


 隣を歩いていたノアが尋ねた。


「いや。あの痕跡、先生たちでもすぐ分からなかったんだなと思って」


「怖いこと言うなよ。学院の管理区域なんだろ?」


「だから中止したんだと思う。安全だと決めつけるよりずっといいよ」


 ノアは少し安心したように頷いた。


 シオンは前を向く。


 これは未来の知識では解決できない。


 むしろ一度目の人生で起きなかった出来事なのだから、未来の記憶を頼れば判断を誤る可能性すらある。


 それでも、不思議と恐怖だけではなかった。


 未来を知らない状況など、本来なら当たり前のことだ。


 一度目の人生で冒険者だった頃も、次の日に何が起きるか知っていたわけではない。


 依頼先の森にどんな魔物がいるのか。


 街道で盗賊に遭うのか。


 天候が崩れるのか。


 何も分からない中で、生き残るために周囲を見て判断してきた。


 未来を知っていることに頼らなくても、自分には六十年間を生きた経験が残っている。


 だが、その一方で別の疑問もあった。


 一度目にはなかった魔物の痕跡が、なぜ今は存在しているのか。


 国王を救ったことと関係があるとは考えにくい。


 雪麦の研究とも関係ない。


 自分が変えた未来の影響なのか、それとも一度目にも存在していたのに自分が知らなかっただけなのか。


 今の段階では判断できなかった。


 だから、決めつけない。


 それも一度目の人生で覚えたことだった。


 学院へ戻る頃には、朝から広がっていた雲が空を覆い尽くしていた。


 門をくぐる直前、頬に冷たいものが当たる。


 雨だった。


 最初は一滴だけだった雨が、間もなく細かな音を立てて降り始める。


「シオンの言った通りになったな」


 ディランが空を見上げた。


「雨?」


「ああ。朝、午後に降るかもしれないって言ってただろ」


「空見れば分かる程度だよ」


「俺は分からなかったぞ」


「ディランは空より槍見てたからじゃない?」


「それ関係あるか?」


 いつものように言い合う二人を見ながら、シオンは笑った。


 だが、少し後ろを歩いていたヴァルターだけは笑っていなかった。


 彼が何を考えているのか、シオンにはまだ分からない。


 そして森で見つかった痕跡の正体も、この時点では誰にも分かっていなかった。


 ただ一つ確かなのは、未来が変わったという言葉だけでは片付けられないほど、シオンの知らない出来事が少しずつ増え始めていることだった。

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