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無能の逆襲 ~無能は回帰しても無能のままだった~  作者: にゅん


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初めての野外実習

 ヴァルターが自分について調べているらしいと知ってからも、シオンは特に行動を変えなかった。


 秘密を知られる可能性を考えれば警戒するべきなのかもしれないが、未来に関する話を知っている者は限られている。家族、ヴァレンティア公爵家、そして王家。その誰もが軽々しく外部へ漏らすような人間ではない。


 それなら、必要以上にヴァルターを意識する方が不自然だった。


 何より学院へ入学してからというもの、シオンには他に考えることがいくらでもある。授業についていくだけでも相応に時間を使ううえ、放課後にはディランやノアと雪麦について話すことも多かった。


 その雪麦にも、ようやく新しい動きがあった。


「来たぞ!」


 昼休みになった途端、ディランが一通の手紙を握ってシオンの席へやってきた。


 最近では珍しくもなくなった光景らしく、周囲の生徒も以前ほど注目しない。入学当初は伯爵家の三男であるディランが《無能》のシオンと親しくするだけでも不思議がられていたが、一月以上も一緒にいれば、それが日常として受け入れられていく。


「クロフォード領から?」


「ああ。親父からだ」


「それならノアとセレナも呼ぼう。俺たちだけで読んでも仕方ないだろ」


 四人が揃ってから中庭へ移動し、ディランが手紙を広げた。


 クロフォード伯爵家では学院から送られた加工方法を参考に、領内の一つの村で雪麦の試験を始めていた。まだ大規模なものではなく、家畜用として収穫された雪麦の一部を使い、蒸した後に乾燥させて外皮を取り除く方法を試しているらしい。


「ちゃんと食べられたって書いてある!」


 ディランが嬉しそうに手紙の一節を指差す。


 味については「小麦には劣るものの、塩と野菜を加えて煮れば十分食用になる」という評価だった。


 研究室で作ったものと大きく変わらない。


 それでも、学院の設備ではなく現地の村で同じ加工ができた意味は大きかった。


「加工に掛かった時間は?」


 ノアがすぐに尋ねる。


「待てよ……ここだ。一度に処理できる量が少ないから、今の方法だと村全体の主食にするのは難しいって」


「やっぱりそこか」


 ノアは持ってきた帳面を開いた。


 研究を始めてからというもの、雪麦について書かれたページはかなり増えている。仕入れ値、保存期間、加工に必要な時間、燃料費など、十二歳の少年が作ったとは思えないほど細かい。


「でも、主食にする必要はないんだろ?」


 シオンが言うと、ノアは頷いた。


「俺もそう思う。最初から小麦を全部置き換えようとするから量が必要になるんだ。冬の備蓄とか、不作の時に食べる分だけなら条件は変わる」


「クロフォード領では雪麦そのものは余っている地域もあるそうですから、加工せず保管して、必要になった時に処理する方法も考えられますね」


 セレナも手紙を読みながら意見を出す。


「それなら保存性を落とさずに済むな」


 ディランが頷き、ノアがすぐに何かを書き込んだ。


 シオンは三人のやり取りを眺めながら、少しだけ感慨深いものを感じていた。


 一度目の人生で雪麦が有名になった時、シオンはすでに商人として各地を歩いていた。


 北部で作られる保存性の高い穀物。


 凶作に強く、寒冷地でも育てやすい作物。


 後には加工技術や品種改良も進み、クロフォード領を代表する産品の一つになった。


 シオンが知っているのは、その完成した結果だけだ。


 今、目の前で進んでいる過程は知らない。


 未来と同じ人物が加工法を見つけるのか、同じ村から普及するのか、それとも本来とはまったく違う道筋を辿るのかも分からなかった。


 だが、それで構わない。


「次は加工道具かな」


「俺もそれを考えてた」


 ノアが帳面をシオンへ見せる。


「手作業で外皮を取るのが一番時間掛かってる。ここを早くできれば、村で処理できる量が増えるはずだ」


「専門の職人に相談した方がよさそうだね。俺たちが道具まで作ろうとすると、さすがに時間が掛かりすぎる」


「ヘンリク先生にも聞いてみましょう。農具を研究している方をご存じかもしれません」


「よし。放課後に行こうぜ」


 ディランが勢いよく立ち上がろうとしたところで、授業開始を知らせる鐘が鳴った。


「……放課後な」


「だから昼休み中に全部決めようとするなって」


 四人は笑いながら教室へ戻った。


 未来の有名な穀物を再現するために集まったわけではない。


 最近では、四人で一つの問題について考える時間そのものが楽しくなっていた。


 午後最初の授業は、基礎野外活動だった。


 担当教師はバルガス・ロイド。三十代後半の大柄な男性で、学院へ来る以前は長く冒険者として活動していたらしい。


 整えられた学院の制服を着ていても、立ち方や歩き方には冒険者時代の癖が残っている。


「今日は教室で話をするだけだ。来週から実際に外へ出る」


 教壇へ立ったバルガスの一言で、教室がざわついた。


 王立学院では座学や訓練場での実技だけでなく、学年に応じて野外実習も行われる。


 ただし、入学したばかりの一年生が危険な場所へ行くことはない。最初は王都近郊にある学院管理区域で、野営や地形確認、簡単な薬草採取などを経験する程度だ。


「静かにしろ。遠足じゃないぞ」


 バルガスが低い声を出すと、ざわめきが収まった。


「お前たちは貴族や商家の子供が多い。将来、騎士になる者もいれば、領地を治める者、官僚や商人になる者もいるだろう。だが、どの道へ進むにしても、街道から外へ出た途端に何もできませんでは話にならん」


 黒板へ簡単な地図が描かれる。


 王都から北東へ伸びる街道と、その途中に広がる森林。その一角が学院の管理区域になっていた。


「初回は一泊二日だ。森の浅い場所まで徒歩で移動し、班ごとに指定地点へ野営地を作る。食料と最低限の装備はこちらで用意するが、設営、火起こし、水の確保は自分たちでやれ」


 周囲から期待と不安が入り混じった声が聞こえる。


 シオンだけは地図を眺めながら、一度目の学院生活を思い出していた。


 この授業そのものには覚えがある。


 一度目にも、一年生の初夏に同じような野外実習へ参加した。


 当時のシオンは、自分が《無能》であることを周囲へ知られるのが嫌で、できないことまで一人でやろうとしていた。野営経験などなかったにもかかわらず知ったふりをして、結局は班の足を引っ張った記憶がある。


 今となっては苦笑するしかない。


 その後、冒険者として何年も野外で寝泊まりすることになるとは、十二歳だった自分には想像もできなかった。


「シオン」


 隣から小声で呼ばれ、顔を向ける。


 ディランが楽しそうに笑っていた。


「野外実習だってよ。面白そうだな」


「一泊するだけだよ」


「それでも学院の外で訓練できるんだぞ」


「お前、本当にそういうの好きだな」


 ディランなら騎士として有名になるのも納得できる。


 未来を知らなくても、最近ではそう思えるようになっていた。


「私、野営は初めてです」


 反対側からセレナが小声で話しかけてくる。


「ヴァレンティア家なら普通そうだろうね」


「シオン様は経験がありますか?」


 その質問に、シオンは一瞬だけ答えを選んだ。


 ここで「何年もやっていた」と答えるわけにはいかない。


「本を読んだり、家の騎士に教えてもらったことはあるよ。実際に一人で野営したことはないけど」


 二度目の人生に限れば嘘ではない。


 アルヴェリア家には領地警備を行う騎士が多く、野営について質問する機会はいくらでもあった。六十年分の経験をすべてそれで説明することはできないが、基本的な知識を持っていても不自然ではない。


「だったら同じ班になれたら助かります」


「班は教師が決めるんじゃない?」


「その通りだ」


 突然、前方から声が飛んできた。


 シオンとセレナが揃って口を閉じる。


 教壇にいるバルガスがこちらを見ていた。


「アルヴェリア、ヴァレンティア。仲が良いのは結構だが、説明は聞け」


「すみません」


「申し訳ありません」


 教室のあちこちから小さな笑いが起きる。


 セレナがわずかに頬を赤くしたため、シオンは余計なことを言わず前を向いた。


「今話していた通り、班はこちらで決める。仲の良い者だけで固めるつもりはない。むしろ普段話さない相手と組むと思っておけ」


 その言葉を聞き、ディランが露骨に残念そうな顔をした。


「班は五人。戦闘能力だけでなく、家柄や得意分野もなるべく偏らないようにする。森には学院の教師と騎士が先行して安全確認に入るが、野生動物や低危険度の魔物が完全にいないわけではない」


 今度は教室が少し静かになった。


「勘違いするな。魔物を倒すことが目的ではない。見つけた場合、原則として教師へ報告する。勝手に追うな。英雄ごっこをした奴は、その場で実習終了だ」


 バルガスの声には、元冒険者らしい重みがあった。


 シオンは内心で強く同意した。


 十二歳の学生が低危険度とはいえ魔物を相手にする必要などない。学院が教えたいのも、戦う方法より危険を避ける判断なのだろう。


「では、班を発表する」


 名前が順番に読み上げられていく。


 シオンは自分の名前を待ちながら、特に期待せず聞いていた。


「第五班。シオン・アルヴェリア」


 最初に呼ばれた。


「ディラン・クロフォード」


「よし!」


 すぐ後ろから小さな歓声が聞こえた。


「喜ぶな。次、ノア・フェルド」


「俺も?」


 ノアまで同じだった。


 偶然にしては出来すぎていると思ったが、研究で行動を共にしていることを教師側も把握している。普段話さない相手と組ませるという説明とは少し違う気がする。


 そして四人目の名前が呼ばれた。


「ヴァルター・グランツ」


 教室の一角が静かになった気がした。


 シオンは反射的にヴァルターを見る。


 向こうもこちらを見ていた。


「……なるほど」


 ヴァルターの口が小さく動く。


 最後の一人は子爵家の長女で、治癒の才能を持つミレイア・フォードだった。


 セレナは別の班になったらしい。


「なんでセレナじゃないんだよ」


 授業が終わった途端、ディランが不満そうに言った。


「先生が仲の良い人だけで固めないって言ってただろ」


「でも俺とお前とノアは一緒じゃん」


「それは俺も思った」


 ノアが首を傾げる。


 そこへ、第五班のもう一人が歩いてきた。


「あなたたち、随分仲が良いのね」


 ミレイア・フォードは肩まで伸ばした栗色の髪を揺らしながら、三人を順番に見る。


「ミレイア・フォードよ。《治癒》を持っているわ。名前くらいは覚えておいて」


「ディラン・クロフォード。《槍術》だ。よろしく!」


「ノア・フェルド。商家の出身。よろしく」


「シオン・アルヴェリア。《無能》だよ」


 シオンが普通に名乗ると、ミレイアが一度瞬きをした。


「自分から言うのね」


「隠しても仕方ないからね」


「もっと気にしてる人なのかと思ってた」


「昔は気にしてたよ」


 そこまで答えたところで、シオンは余計な説明をしなかった。


 二度目の人生で五歳から七年も《無能》として過ごしている。今の年齢でも、以前は悩んでいたと説明して不自然ではない。


「それで、もう一人は?」


 ディランが周囲を見る。


「ここにいる」


 背後から聞こえた声に、三人が振り返った。


 ヴァルターだった。


「グランツ……」


「何だ、その嫌そうな顔は」


「別に嫌じゃないけど、お前ずっとシオンのこと見てるだろ」


「必要があって観察しているだけだ」


「それを見てるって言うんだろ?」


 以前も誰かに同じことを言われたのか、ヴァルターの眉がわずかに動いた。


「お前たちが何を思っていようと構わない。実習では自分の役割を果たす」


「俺だってそのつもりだよ」


 ディランが答え、二人の間に妙な空気が生まれる。


「喧嘩するなら別の班にしてもらう?」


 ミレイアが呆れたように言うと、二人とも同時に黙った。


「別に喧嘩してない」


「俺も」


「だったらいいわ」


 初対面に近い相手にも遠慮しないらしい。


 シオンは少し面白そうな子だと思った。


「とりあえず、実習までに役割だけ決めない?」


 ノアの提案で、五人は空いている教室へ移動することになった。


 配布された資料によれば、野営地へ到着した後は天幕の設営、薪集め、水の確保、食事の準備などを班内で分担する必要がある。


「俺は周囲の確認と薪集めがいい」


 ディランが真っ先に手を挙げた。


「槍を持って歩きたいだけじゃないの?」


「それもある!」


「否定しないのね」


 ミレイアが呆れている。


「私は応急処置を担当するわ。《治癒》があるから当然でしょうけど、普通の包帯や消毒も一通り習っている」


「じゃあ俺は物資管理かな。何をどれだけ使ったか記録するよ」


 ノアまで自然に役割が決まった。


「グランツは?」


「警戒を担当する。《雷魔法》なら距離を取ったまま対応できる。戦闘を避けるとしても、何かあった時の備えは必要だ」


「妥当だと思う」


 シオンが頷くと、ヴァルターがこちらを見る。


「お前は何をする?」


「野営地を決める時に地面を見たい。あとは天幕と火の管理かな」


「地面?」


 ヴァルターだけでなく、ディランも不思議そうな顔をした。


「指定された範囲なら、どこに張っても同じじゃないのか?」


「雨が降った時に水が溜まる場所は避けた方がいいよ。川に近すぎても駄目だし、枯れ枝が多い木の下も危ない。少し傾斜があって、水が流れる方向を確認できる場所がいい」


 話している途中で、四人が黙っていることに気づいた。


 シオンは一瞬だけ考える。


 言いすぎただろうか。


「……家の騎士から教えてもらったんだ。領地では野営することも多いから」


 用意していた説明を付け足す。


「へえ。侯爵家の騎士ってそんなことまで教えるんだな」


 ディランは素直に納得した。


 ノアも特に疑問を持った様子はない。


 ミレイアも「覚えておこう」と資料へ書き込んでいる。


 ただ一人、ヴァルターだけは何も言わなかった。


「何?」


 シオンが尋ねる。


「いや。別に」


「そう?」


「野営地については、お前に任せる」


 それだけ言うと、ヴァルターは資料へ視線を落とした。


 シオンは深く考えなかった。


 野営の知識程度なら、騎士の多いアルヴェリア家で学んでいてもおかしくない。わざわざ隠すほどのものでもないだろう。


ーーーヴァルター視点ーーー


 やはり、妙だ。


 ヴァルターは手元の資料を読みながら、先ほどのシオンの言葉を頭の中で繰り返していた。


 知識だけなら不思議ではない。


 名門の武門に生まれた少年なら、騎士から野営について教わることもあるだろう。


 だが、シオンの言い方が妙に具体的だった。


 雨が降った時に水が溜まる場所。


 川との距離。


 頭上の枯れ枝。


 地面の傾斜と水の流れ。


 教本で覚えた項目を並べているというより、本当に困った経験がある人間の話し方に聞こえた。


 それでも、これだけなら偶然で済む。


 ヴァルターは資料室で調べた内容を思い出す。


 シオンには何もなかった。


 剣も魔法も平凡以下。


 公的な功績もない。


 それなのに、時折こうして年齢に似合わない部分が見える。


「グランツ、何見てるんだ?」


 ディランの声で我に返る。


「資料だ」


「いや、さっきから同じところ読んでるだろ」


「考え事をしていただけだ」


「またシオンのこと?」


 ノアまで口を挟んできた。


「なぜそうなる」


「だってシオンが話した後から黙ってたし」


 ヴァルターは反論しようとして、やめた。


 否定しても余計に面倒になる。


「一つ聞きたい」


 代わりにシオンを見る。


「何?」


「お前は野営をしたことがないと言ったな?」


「一人で実際にやったことはないよ」


「それにしては詳しい」


「アルヴェリア領には魔物が出る地域もあるからね。騎士や冒険者から話を聞く機会は多いんだ」


 淀みがない。


 まるで最初から質問されることを想定していたかのように、自然な答えが返ってくる。


「それが何か?」


「いや。それならいい」


 説明としては成立している。


 疑う理由はない。


 だからこそ、実際に見れば分かると思った。


 来週の野外実習。


 学院の教室では、知識を覚えていれば正しい答えを出せる。剣術や魔法なら、シオンが弱いことはすでに確認した。


 だが、森の中では違う。


 実際の状況を見て判断しなければならない。


 もしシオンが本当に知識を持っているだけなら、それもそこで分かる。


 ヴァルターは別に、シオンが失敗することを望んでいるわけではなかった。


 自分が納得できる答えが欲しいだけだ。


 シオン・アルヴェリアという《無能》の少年が、なぜこれほど気になるのか。


 その理由を、自分の目で確かめたかった。


ーーーシオン視点ーーー


 野外実習の日は、思ったより早くやってきた。


 早朝の学院前には一年生たちが集まり、それぞれが指定された荷物を背負っている。


 シオンも簡素な背嚢を肩へ掛けながら、空を見上げた。


 薄い雲が広がっている。


 今のところ雨は降っていない。


 風も弱い。


 だが、湿った空気の匂いがした。


「午後、少し降るかもしれないな」


 小さく呟く。


 一度目の人生で、この日の天気がどうだったかなど覚えていない。


 そもそも同じ日なのかすら分からなかった。


 国王が生きている。


 セレナも生きている。


 ローデン金鉱は早く見つかり、ベルナード商店は本来とは違う速度で成長している。レグナード大震災でも一度目より多くの人間が救われた。


 雪麦の研究まで始まった。


 もう、記憶の中にある十二歳の一年と現在を同じものとして考えるべきではない。


「シオン!」


 ディランが槍を背負って走ってくる。


 その後ろからノアとミレイアが歩き、少し離れてヴァルターもこちらへ向かっていた。


「準備できてるか?」


「できてるよ。ディランこそ荷物多くない?」


「必要なものしか持ってきてないぞ」


「予備の手袋が三組入ってたけど」


 ノアが横から指摘する。


「破れたら困るだろ!」


「一泊二日だぞ」


「お前だって帳面二冊持ってきてるじゃん!」


「用途が違うんだよ。一冊は授業用で、もう一冊は個人的な記録用」


「どっちも帳面だろ!」


 朝から元気な二人を見て、ミレイアが呆れたように息を吐く。


「森に着く前に疲れないでよね」


「大丈夫だって!」


 五人が揃ったところで、バルガスが人数を確認した。


 学院の門が開き、一年生たちが班ごとに歩き始める。


 王都の石畳を抜け、街道へ出る。


 さらに歩けば、少しずつ建物が減っていった。


 シオンは久しぶりに感じる土の匂いを吸い込みながら、周囲を眺める。


 商人として街道を歩いた記憶。


 冒険者として森へ入った記憶。


 雨の中で火がつかず苦労した夜や、野営地の選択を間違えて朝まで眠れなかった日のことまで思い出す。


 どれも才能とは関係なく、失敗しながら覚えたものだった。


「楽しそうだな、シオン」


 ディランに言われ、シオンは自分が少し笑っていたことに気づいた。


「そう見える?」


「ああ。学院にいる時より」


「久しぶりだからかな」


「何が?」


 問い返される前に、シオンは言葉を選ぶ。


「領地の森を思い出したんだよ。王都に来てから、こういう場所を歩いてなかったから」


「なるほどな」


 ディランは疑わず前を向いた。


 シオンも胸の中で小さく息を吐く。


 以前なら、六十年の記憶を持っていることそのものに引っ張られていた。


 最近は違う。


 記憶は道具だ。


 使えるなら使う。


 使えないなら、現在を見て考える。


 森へ近づくにつれて、道の両側に生える木々が増えていった。


 やがて先頭を歩いていたバルガスが立ち止まり、後続の生徒たちへ振り返る。


「ここから学院の管理区域へ入る。班ごとに距離を取れ。指定された地点まで地図を見ながら進め」


 五人にも簡単な地図が渡された。


 シオンは受け取ると、現在地と目印になる小川、周囲の高低差を確認する。


 特に異常はない。


 少なくとも、記憶にある大きな事件がこの実習で起きた覚えもなかった。


 だからこそ、シオンは未来を思い出そうとはしなかった。


 今見るべきなのは、十二歳だった自分の記憶ではない。


 目の前の森だった。


 その判断が正しかったことを、シオンはもう少し先で知ることになる。


 一度目の人生では何も起きなかったはずの森に、今は存在しないはずの痕跡が残されていた。

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