雪麦
雪麦の研究を始めてから一月ほどが過ぎた頃、シオンたちは放課後になると研究棟へ向かうことが当たり前になっていた。最初は物珍しさから始まった研究だったが、失敗を繰り返すうちに、それぞれが自分なりの役割を持つようになっている。
ディランはクロフォード領から追加の雪麦や栽培記録を取り寄せ、ノアは加工に必要な費用を帳面へまとめていた。セレナは乾燥工程を魔法で補助できるか試し、シオンはヘンリクから聞いた内容と三人の意見を整理する役に回ることが多い。
「今日は新しい方法を試すぞ」
研究室へ入った四人を待っていたヘンリクは、机の上にいくつもの皿を並べていた。そこには加工方法の異なる雪麦が少量ずつ置かれている。
これまでに分かった最大の問題は、硬い外皮と独特の苦味だった。外皮を削れば苦味はかなり減るものの、一粒ずつ処理するわけにはいかず、水へ長時間浸せば今度は乾燥や保存に問題が出る。
「北部で雑穀を加工する時に、蒸してから乾燥させる方法がある。雪麦でも似た処理ができないか試してみた」
「蒸すんですか?」
「熱を加えて外皮を柔らかくしてから削る。生の状態より処理しやすくなる可能性があるからな」
ヘンリクの説明を聞きながら、シオンは皿に載せられた雪麦を観察した。未来で扱った商品と完全に同じではないが、以前より色が明るくなっている。
もちろん、シオン自身にこの加工方法の記憶はない。未来の雪麦がどんな工程を経て商品になっていたのかなど、商人時代にも詳しく調べたことはなかった。
「とりあえず食べてみるか」
「なんでディランは最近、試食だけ積極的なんだよ」
「俺の領地の食い物なんだから俺が最初に食うのは普通だろ?」
「最初は不味いって散々言ってたのに」
ノアに突っ込まれながら、ディランが加工した雪麦を口へ入れる。何度か噛んだところで、その表情が少し変わった。
「……前より全然ましだぞ」
「本当に?」
今度はノアが慎重に一粒食べ、セレナとシオンも続いた。苦味が完全になくなったわけではないが、以前のように口の中へ強く残るほどではない。
何より、硬さがかなり改善されている。
「これなら煮込めば食べられるかもしれないですね」
「そのまま食べるものではないな。次は調理法も考える必要がある」
セレナの感想にヘンリクが頷いた。まだ美味しい食べ物になったわけではないが、少なくとも家畜にしか与えられない穀物ではなくなりつつある。
その日の実験では、加工した雪麦を簡単な粥にしてみることになった。学院の厨房から小鍋を借り、塩だけを加えて煮込んでいく。
しばらくすると、研究室の中に穀物を煮た素朴な香りが広がった。
「見た目は普通だな」
「問題は味だよ」
「ノア、お前さっきから警戒しすぎじゃないか?」
「この一月で何回不味いもの食ったと思ってるんだよ」
四人で小さな器へ取り分け、ヘンリクが安全を確認してから試食する。シオンも匙ですくい、少し冷ましてから口へ運んだ。
小麦の粥より粒がしっかり残り、わずかな苦味もある。ただ、以前の雪麦とは比較にならないほど食べやすくなっていた。
「これなら食料って言ってもいいんじゃない?」
「少なくとも腹が減っていたら普通に食うな」
シオンの言葉にディランが頷く。ノアだけは黙って何口か食べた後、何かを考えるように器を見つめていた。
「どうした?」
「これ、小麦の代わりに売る必要ないんじゃないかと思って」
「また商売の話かよ」
「大事だろ。小麦の方が美味しいなら、小麦が普通に作れる場所で競争しても負ける。でも雪麦には別の強みがある」
ノアは持ってきた帳面を開き、クロフォード領から届いた資料を確認した。そこには雪麦の収穫量や保管期間について、ディランの家族が調べてくれた数字が書かれている。
「寒さに強くて、普通の小麦が育ちにくい場所でも作れる。加工前なら保存もかなり利くし、今は家畜用だから値段も安い」
「つまり?」
「冬の備蓄用にするんだよ。普段から小麦を食べられる人じゃなくて、寒い地方の村とか、雪で道が塞がれる場所に置いておく食料として考える」
ディランが少し驚いた顔をした。クロフォード領には、まさに冬になると街道が使いにくくなる村が存在する。
「それなら俺の領地でも使えるかもしれない。冬になる前に食料を運び込んでる村があるから」
「だろ? 全部を雪麦にする必要はないんだ。足りない時に食べられるものが一つ増えるだけでも違う」
ノアの話を聞きながら、シオンは一度目の人生を思い出していた。未来の雪麦も、最初から高級な食品として有名になったわけではない。
北部の寒冷地で安定して作れる穀物として普及し、凶作や災害の際にも利用された。その後に品種改良が進み、日常的な料理にも使われるようになったはずだ。
ただし、その知識をここで話す必要はなかった。
ノア自身が、現在分かっている特徴だけから同じ方向へ辿り着き始めている。
「先生。この加工方法って、農村でもできますか?」
シオンが尋ねると、ヘンリクは少し考えた。
「今のやり方なら不可能ではない。ただ、研究室では少量しか処理していないからな。村単位で扱うなら、もっと簡単な道具が必要になる」
「だったら、次はそこですね」
「お前、本当に次々やること増やすな」
ディランが呆れたように言うが、その顔は楽しそうだった。
研究はそこで新しい段階へ進むことになった。学院内で少量を加工するだけではなく、実際にクロフォード領で使える方法を考える。
ヘンリクは学院の研究として続けることに同意し、ディランは父親へ報告するための手紙を書くことになった。いきなり領地全体へ広めるのではなく、まず一つか二つの村で少量を加工し、冬まで保存できるか確認する。
「親父、信じるかな……」
「雪麦を食べられるようにする研究をしてるって書けばいいだろ?」
「それを十二歳の息子から聞かされるんだぞ」
「先生の名前も書いておけばいいじゃないですか。学院の研究だと分かれば、話くらいは聞いていただけると思います」
セレナに言われ、ディランも納得したように頷いた。シオンの名前を前面に出す必要もなく、学院とクロフォード家が協力する小規模な研究として進めればいい。
それから数日後、クロフォード伯爵家から返事が届いた。
内容は意外にも好意的だった。領地では雪麦を家畜用に大量栽培しているため、食用化できるなら試す価値はあるという。学院教師が監督することを条件に、領内の一つの村で試験加工を行う許可も出された。
「よし!」
手紙を読んだディランが嬉しそうに拳を握った。
「まだ試験だからね。成功したわけじゃないよ」
「分かってる。でも、俺の領地で本当に試せるんだぞ。最初は家畜の餌を持ってきただけだったのに」
その言葉を聞いて、シオンも自然に笑った。
最初に雪麦へ興味を持ったのは、一度目の人生でその価値を知っていたからだ。未来の知識がなければ、家畜の餌と聞いた時点で気にも留めなかっただろう。
けれど、そこから先はシオン一人の力ではない。
雪麦を持ってきたディランがいて、商品としての使い道を考えるノアがいて、セレナが研究を手伝い、ヘンリクが専門知識を提供してくれた。誰か一人でも欠けていれば、ここまで早く進むことはなかった。
「なあ、今度の休みに三人で街へ行かないか?」
研究室を片付けている途中、ディランが突然そんなことを言い出した。
「雪麦と関係なく?」
「当たり前だろ。毎回研究室で会ってるだけじゃつまらないし、せっかく仲良くなったんだからさ」
ノアも少し驚いた顔をした後、すぐに頷いた。
「俺はいいけど。シオンは?」
「俺もいいよ」
答えてから、シオンは少しだけ可笑しくなった。
未来の英雄だからでも、未来の大商人だからでもない。
気づけば二人は、休日に一緒に出掛ける約束をする程度には近い存在になっていた。
雪麦が未来と同じ道を辿るのかは、まだ分からない。それでもシオンは、未来で有名になる穀物より、一度目の人生では得られなかった二人との関係の方を、少しずつ大切に思い始めていた。




