三人の研究
雪麦を学院の専門家へ見せることが決まった翌日、シオンたちは放課後になると研究棟へ向かった。セレナが教師に相談したところ、植物や農作物の研究を担当している教師を紹介してもらえたのだ。
研究棟は普段使う講義棟より静かで、廊下には乾燥させた植物や土壌の標本が並んでいた。十二歳の新入生四人で訪れるには少し場違いな場所らしく、ディランは珍しそうに周囲を見回している。
「学院ってこんなところまであるんだな。俺、訓練場と教室しか使ってなかったぞ」
「入学してまだ何日だと思ってるんだよ」
「シオンだって知らなかっただろ?」
「まあね」
軽口を交わしながら奥へ進むと、セレナが一つの扉の前で足を止めた。中から返事が聞こえたのを確認してから、四人は雪麦の入った麻袋を持って研究室へ入る。
「君たちが、妙な穀物を持ち込んだ新入生か」
迎えたのは五十歳ほどの男性教師だった。机の上には植物の標本や分厚い資料が積まれており、教師は書き物を中断すると四人へ椅子を勧める。
「農業研究を担当しているヘンリク・バルツだ。ヴァレンティア君から簡単な話は聞いているが、まずは最初から説明してもらおう」
「俺から話します。クロフォード領で作っている雪麦です」
ディランが麻袋を机へ置き、領地での扱いについて説明した。寒さや痩せた土地に強いこと、保存性が高いこと、現在は主に家畜の飼料として利用され、人間が食べることはほとんどないこと。
ヘンリクは話を聞きながら雪麦を手に取り、粒の硬さや匂いを確認した。何粒かを小さな皿へ移すと、研究室にあった器具を使って外皮を削っていく。
「雪麦そのものは知っている。北部の一部地域で育てられている雑穀だな。しかし、なぜこれを食用にしようと思った?」
「寒い土地でも育って、長く保存できるなら、人間が食べられるようになれば使い道が増えると思ったんです」
シオンは未来について触れず、ディランから聞いた情報だけで説明できる範囲に留めた。実際、それだけでも試してみる理由としては十分だろう。
「なるほど。発想としては悪くない。しかし、誰も利用していないものには、それなりの理由があるぞ」
「苦いんですよ。かなり」
ディランが嫌そうな顔で補足すると、ヘンリクは笑った。
「それもある。雪麦は外皮が非常に硬く、粉にするにも手間が掛かる。そのうえ独特の苦味があるから、小麦が手に入る地域でわざわざ食べようとする者はいない」
「でも、食べられないわけではないんですよね?」
ノアが尋ねると、ヘンリクは少し考えてから頷いた。
「飢饉の際に煮て食べたという記録はある。ただし、日常的な食料として利用された例は、私の知る限りほとんどないな」
その答えを聞いたノアが、すぐに持っていた帳面へ書き込む。保存性や価格について尋ね始める姿を見て、ヘンリクは少し面白そうに少年を眺めた。
「君は商家の出身か?」
「はい。フェルド商店の家です。もし加工できても、小麦より高くなったら意味がないと思って」
「その通りだ。食べられることと、商品になることは別だからな」
シオンは二人の会話を聞きながら、未来の雪麦を思い出していた。商人時代に扱ったものはもっと粒が大きく、苦味もほとんどなかったはずだが、それが加工によるものなのか、長年の品種改良によるものなのかまでは分からない。
ここで未来の雪麦を細かく説明すれば、不自然な知識になってしまう。何よりシオン自身が曖昧にしか覚えていない以上、専門家へ余計な先入観を与えない方がいい。
「先生。まず、苦味がどこから来るのか調べられませんか?」
「できますか?」
セレナの質問に、ヘンリクは雪麦をもう一粒割った。
「それなら調べられる。外皮なのか中身なのか、それとも両方なのかを確認すればいい。食用としての安全性も調べる必要があるな」
「じゃあ、お願いします!」
ディランが勢いよく頭を下げると、ヘンリクは苦笑しながら麻袋を引き寄せた。研究対象として多少興味を持ったらしく、学院の設備を使える範囲で確認してくれるという。
ただし、四人にも条件が出された。
「君たちが持ち込んだ話だ。結果だけ待っているのでは勉強にならん。放課後に時間がある日は手伝いに来なさい」
「もちろんです!」
ディランが即答し、ノアとセレナも頷いた。シオンも異論はなかったため、その日から四人の小さな研究が始まることになった。
最初に行ったのは、雪麦をいくつかの状態に分けることだった。そのままの粒、外皮を削ったもの、水に浸したもの、細かく砕いたものを用意し、それぞれを比較する。
数日後、最初の結果が出た。
「……不味い」
「だから言っただろ」
試食用に安全を確認した雪麦を口へ入れたノアが、何とも言えない顔をした。ディランだけは経験者なので最初から覚悟しており、セレナも一口食べると静かに水を飲んだ。
シオンも少量を噛んでみる。硬さが残っているうえ、舌の奥へ渋い苦味が広がり、少なくとも好んで食べたい味ではない。
「これを売るのは無理だな」
「食べた直後に商売の話するのかよ」
「だって商品にならないなら意味ないだろ?」
ディランとノアが言い合う横で、シオンは苦笑しながら残った雪麦を眺めた。未来で口にしたものとは明らかに違うが、それを口に出すことはない。
未来では食べられていた。それだけ分かっていれば十分だった。
失敗したのなら、別の方法を試せばいい。
「外側を削った方は、少し苦味が弱いですね」
セレナが気づき、ヘンリクも試料を確認する。詳しく調べた結果、強い苦味の一部は外皮付近に集中している可能性が高いと分かった。
「なら、もっと外皮を取ればいいんじゃないか?」
「簡単に言うが、手作業では時間が掛かりすぎる。食料として普及させるなら、大量に処理できなければ意味がないぞ」
ヘンリクの指摘に、ディランが腕を組んだ。食べられる方法を見つけるだけでは足りない。農村でも使える程度の手間と費用で加工できなければ、クロフォード領を助ける食料にはならない。
「だったら、最初から全部解決しようとしなくてもいいんじゃないですか?」
ノアが帳面を見ながら口を開いた。
「まず一番簡単な方法を探して、それで食べられるところまで持っていく。その後で、安くする方法を考えればいいと思います」
「商人らしい考え方だな」
「まだ商人じゃないですけど」
ヘンリクに言われ、ノアは少し照れたように笑った。
それからも試行錯誤は続いた。水へ長く浸せば苦味は弱くなるが、乾燥に時間が掛かる。外皮を削れば食べやすくなるものの、手作業では効率が悪い。細かく砕けば調理しやすくなるが、今度は保存性が落ちてしまう。
何度試しても、一度で正解には辿り着かなかった。
シオンにとって、それはむしろ当然だった。自分が覚えているのは何十年も後に完成した雪麦だけであり、その完成品へ至るまでに誰が何回失敗したのかなど知らない。
だからシオンは、答えを知っているようには振る舞わなかった。ディランが領地の情報を持ち込み、ノアが費用や販売方法を考え、セレナが乾燥などに魔法を利用できないか試し、ヘンリクが専門知識から方向を修正する。
その中でシオンができるのは、話が行き詰まった時に別の可能性を考えることくらいだった。冒険者や商人として各地を歩いた経験は役に立つが、それも万能ではない。
「なあ、シオン」
研究を始めて二週間ほど経った日の帰り道、ディランが突然声を掛けてきた。隣ではノアも歩いており、セレナは少し離れたところで教師に呼び止められている。
「何?」
「お前、なんでここまで付き合ってくれるんだ?」
思っていなかった質問に、シオンは少しだけ考えた。
未来で雪麦が有名になることを知っているから。それも理由ではある。
だが、今はそれだけではなかった。
「面白いからかな。それに、上手くいけばクロフォード領の人が少し楽になるんだろ?」
「まあ、そうだけど」
「だったら十分じゃない?」
シオンが答えると、ディランはしばらく黙った後、照れ臭そうに鼻を擦った。
「……ありがとな」
「まだ成功してないけどね」
「それでもだよ」
その横から、ノアが呆れたように口を挟む。
「成功してから感動してくれよ。俺、この二週間ずっと不味い麦を食べさせられてるんだけど」
「お前が毎回試食するって言ってるんだろ!」
「商品にするなら味を確認するのは当然だろ!」
二人が言い合い始め、シオンは思わず笑った。
未来では《王国の槍》と呼ばれた男と、王国有数の大商人になった男。その二人が十二歳の今は、不味い穀物の試食役を押し付け合っている。
そんな姿を、一度目の人生のシオンは知らない。
そして最近では、未来で何者になるのかよりも、目の前の二人がどんな人間なのかを知ることの方が面白くなっていた。
雪麦の研究はまだ始まったばかりだったが、シオンにとってはすでに、一度目には存在しなかったものを生み始めていた。




