未来の大商人
ディランと雪麦について話してから十日ほどが経った頃、クロフォード領から学院へ小さな麻袋が届いた。実家へ手紙を送ったディランが、家畜用として保管されていたものを少量だけ分けてもらったらしい。
昼休みになると、ディランはその麻袋を抱えてシオンの席までやってきた。セレナも興味を持っているらしく、三人は人の少ない中庭へ移動して石造りの卓上に袋を置く。
「これが雪麦。言っとくけど、本当に大したものじゃないぞ。実家からも、なんでこんなものが欲しいんだって聞かれたくらいだからな」
「そのくらいの方が面白いよ。最初から価値があるなら、俺たちが考える必要もないだろ?」
シオンが袋を開くと、中には灰色がかった小さな粒が入っていた。記憶にある雪麦より色が濃く、粒の大きさにもかなりばらつきがある。一度目の人生で流通していたものは、長い品種改良を経た後だったのだろう。
指先で数粒を転がしてみても、それ以上のことは分からない。商人として穀物を扱った経験はあるが、シオンは農業の専門家でも、食品加工の職人でもなかった。
「シオン様は、これが食べられると思っているのですか?」
「可能性があると思ってるだけだよ。寒さに強くて保存も利くなら、食用にできた時の利点が大きいからね」
「でも苦いぞ。俺も小さい頃に食ったことあるけど、もう一回食べたいとは思わなかった」
ディランが嫌そうな顔をしたため、セレナが小さく笑った。少なくとも、そのまま煮たり焼いたりした程度では美味しくならないらしい。
未来では食用として普通に流通していた。それをシオンは知っているが、どの時代に誰が加工法を発見したのかまでは覚えていない。まして十二歳の今、未来の商品を再現できるほどの知識など持っていなかった。
「だから、まず詳しそうな人に見てもらいたいんだ」
「学院の先生か?」
「先生にもそのうち相談したい。でも、その前に一人会ってみたい人がいる」
シオンがそう答えると、ディランとセレナが揃ってこちらを見た。相手の名前を知っている理由については、すでに不自然にならない方法を考えてある。
入学後には同学年の名簿が配られており、家名と出身地程度なら確認できる。商家出身の生徒を探したところで、何もおかしくはなかった。
「ノア・フェルド。同じ学年にいる商家出身の生徒だよ」
「知り合いなのか?」
「いや。名簿で見つけただけ。フェルド商店って名前を聞いたことがあったから、商売に詳しい家の子なら何か気づくかもしれないと思ってね」
嘘は必要最低限に留める。フェルドという名前を知っている理由まで詳しく聞かれたとしても、ベルナード商店と付き合いのあるアルヴェリア家なら、商家について耳にする機会があるという説明で十分だった。
もちろん、本当の理由は別にある。
一度目の人生で、ノア・フェルドの名前を知らない商人は少なかった。
後に《フェルド商会》を王国有数の大商会へ成長させ、カイル・ベルナード率いるベルナード大商会と何度も市場を争った男。扱う商品の価値を見抜くことに長け、その容赦のない商売ぶりから《冷血商人》と呼ぶ者までいた。
ただし、それは何十年も後の評価に過ぎない。今のノアがどんな人間なのか、シオンは何も知らなかった。
「それなら探してみるか!」
「昼休み、もう半分くらい終わってるけどね」
勢いよく立ち上がったディランに苦笑しながら、シオンたちは雪麦を袋へ戻した。
三人で校舎へ戻り、名簿に記載されていた教室を訪ねると、ノアは意外なほど簡単に見つかった。教室の後方で一人の少年が机に座り、小さな帳面へ何かを書き込んでいたからだ。
焦げ茶色の髪に、少し細い体つき。豪華な装飾品を身につけているわけでもなく、周囲に大勢の友人がいるわけでもない。その姿から、未来の大商人を連想することは難しかった。
「ノア・フェルドって君?」
声を掛けると、少年は帳面から顔を上げた。最初にシオンを見て、その後ろにいるディランとセレナへ視線を動かしたところで、わずかに目を見開く。
「そうだけど……アルヴェリア侯爵家のシオン様?」
「知ってるんだ」
「そりゃ知ってるよ。入学式の後、かなり噂になってたから」
ノアはそう答えた後、慌てたように立ち上がった。貴族への礼儀を思い出したらしく姿勢を正そうとするが、シオンはその前に手で制した。
「普通に話してくれていいよ。今日は頼みたいことがあって来ただけだから」
「俺に?」
「商家の出身だって名簿で見たんだ。ちょっと見てもらいたいものがある」
シオンが麻袋を差し出すと、ノアの表情が変わった。袋を受け取って中を確認し、数粒を手のひらへ出す。
「穀物?」
「クロフォード領で作ってる雪麦だ。ほとんど家畜の餌だけどな」
ディランが説明すると、ノアは雪麦を指先で転がした。鼻へ近づけて匂いを確かめ、さらに一粒を割ろうとして、その硬さに眉を寄せる。
「これ、かなり乾燥してるな。いつ収穫したもの?」
「去年の秋だったと思う」
「それでこの状態なら保存は悪くないかも。傷んでる粒も少ないし……でも、なんで俺に?」
その問いに、シオンは雪麦についてディランから聞いた内容を説明した。寒冷地でも育つこと、痩せた土地でも比較的収穫できること、長期保存が可能である一方、硬さと苦味のため人間にはほとんど食べられていないこと。
「これを、人間が食べられるようにできないかと思ってる」
「……なんで?」
「クロフォード領には、食料を他領から買っている地域もあるらしい。領内で育つものを食用にできるなら、多少は助けになるだろ?」
ノアはすぐには答えなかった。もう一度雪麦を見つめ、今度は一粒を爪で削りながら何かを考えている。
「美味しいかどうかは?」
「今のところ、ディランからは不味いって聞いてる」
「不味いぞ」
「そこ即答するのかよ」
シオンが笑うと、ノアも少しだけ表情を緩めた。しかし手元の雪麦から視線は外さず、今度は別の方向から質問を始める。
「収穫量は? 普通の小麦より多い?」
「場所によるけど、寒い土地なら雪麦の方が安定してるって聞いたことがある。家畜の冬餌だから、作ってる村は結構あるぞ」
「値段は?」
「安い。人間向けじゃないからな」
「保存が利いて、寒い土地でも育って、今は安い……」
ノアの目つきが少しずつ変わっていく。シオンはその様子を見ながら、未来で大商会を築いた男の片鱗を初めて感じていた。
「食べられるようになったとしても、小麦の代わりに売るのは難しいと思う」
「どうして?」
「小麦より不味いなら、同じ値段じゃ誰も買わないだろ。でも、寒い土地で作れることを利用するなら話は違う。冬用の備蓄とか、食料が足りなくなった時に使う穀物としてなら価値があるかもしれない」
十二歳の少年がそこまで考えるとは思っていなかったのか、ディランが感心したようにノアを見た。セレナも雪麦を一粒手に取り、興味深そうに観察している。
「シオン様、もしかして最初からそこまで考えていました?」
「保存食には向いてそうだとは思ったよ。でも、売り方までは考えてなかった」
そこは素直に認めた。シオンには商人として働いた経験があるが、自分で大商会を築けるほど優れた商才があったわけではない。未来でノアが自分より遥かに大きな商売をしたことにも、きちんと理由があるのだろう。
「それで、ノア。手伝ってくれる?」
「俺が?」
「俺たちだけじゃ、どう加工すればいいかも分からないからね。商売の視点で気づいたことがあれば教えてほしい」
ノアは雪麦とシオンを交互に見た。未来の《冷血商人》からは想像できないほど迷った顔をした後、少し照れたように頭を掻く。
「やる。こういうの、面白そうだし」
「決まりだな!」
ディランが嬉しそうにノアの肩を叩き、突然の勢いにノアがよろめいた。セレナが笑い、シオンもつられて笑ってしまう。
それから四人は空いている教室へ移動し、雪麦について分かっていることを整理した。ディランが領地での栽培方法や使われ方を話し、ノアが保存性や価格について質問し、セレナは魔法を使った乾燥や加工が可能か考えていく。
シオンはその中心で話を聞きながら、必要な時だけ自分の経験から意見を出した。穀物を粉にするなら外皮の処理が必要かもしれないことや、保存食にするなら味だけでなく運搬時の重量も重要になること。その程度なら、商家と付き合いのある侯爵家の子供が興味を持って調べていても不自然ではない。
「でも、俺たちだけで試すのは危なくないか?」
しばらくしてディランが言った。シオンも同じことを考えていたため、すぐに頷く。
「うん。食べ物だからね。毒性がないかも含めて、ちゃんと詳しい人に確認してもらった方がいい」
「学院に植物や農業を研究している先生がいます。相談してみませんか?」
「それがいいと思う。俺たちが分からないところは、分かる人に任せよう」
セレナの提案で次にやることも決まった。雪麦を持って学院の専門家へ相談し、食用として利用できる可能性があるか調べてもらう。
未来では確かに食べられていたから大丈夫だと、シオンだけなら知っている。だが、その答えを最初から知っているように振る舞う必要はなかった。
未来で完成したものだけを覚えているシオンと、現在のクロフォード領を知るディラン。商品の価値を考えるノアに、魔法の知識を持つセレナ。それぞれが知っているものを持ち寄れば、一人では届かない答えへ近づける。
話し合いが終わった後、ノアは自分の帳面へ今日の内容を書き込みながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、シオン様の家ってベルナード商店と付き合いがあるんだよね?」
「あるよ。母上がかなり深く関わってる」
「やっぱりそうなんだ……」
ノアの声に妙な熱が混ざったため、シオンは首を傾げた。未来では最大の競争相手だった二人だが、今のカイルは本来より遥かに早く商売を拡大している。
「俺、カイル・ベルナードさんに憧れてるんだ。平民からあれだけ大きな商売を始めた人なんて、ほとんどいないから。卒業したらベルナード商店で働けたらいいなって思ってる」
「……そうなんだ」
それだけ答えながら、シオンは笑いそうになるのを堪えた。
一度目の人生では、カイル・ベルナードとノア・フェルドは王国の商業史に残るほどの競争相手だった。それなのに未来の大商人は今、十二歳の少年らしい顔で、その最大の好敵手になるはずだった人物へ憧れている。
やはり、未来はもう変わり始めている。
けれどシオンは、それを残念だとは思わなかった。ノアがベルナード商店へ入るのか、自分の商会を作るのか、それともまったく別の道へ進むのかは、今のノア自身がこれから決めればいい。
未来の《王国の槍》と、未来の大商人。かつては名前しか知らなかった二人と同じ机を囲み、家畜の餌として扱われている穀物について真剣に話している。
そんな光景は、一度目の人生の記憶にはどこにもなかった。
シオンはそれでいいと思った。知らない未来が増えていくことを、以前ほど恐ろしいとは感じなくなっていた。




