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夜の夢こそ  作者: 夜久刹
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女の正体

 目覚めたときには私が女の膝の上にいて、女に貸していたはずのカーディガンが私にかけられていた。


 足の指先や手の指先は凍傷になりかけていて感覚がなかった。


「すまない。久しぶりによく眠れたよ。重かっただろう」


 起き上がって女の膝を撫でながら言うと、


 「軽いものでしたわ」と女は遠くを見つめて言った。それがあまりに遠くを見ながら言うものだからどこを見ているのかと訊いてみれば、眉を顰めて目を絞り、さらに遠くを見て、うんと遠くですと言った。

すっかり日は暮れていた。


 木々の合間から月が浮かんでいるのが見えた。こうして毎夜月ばかり眺めていると、昨日よりも満ちているのか欠けているのかわからない。月は常に同じ空に浮かんで、同じ山脈に消える。毎晩同じ月を見ている気でいる。


 ――私は十年同じ月を見ている。


 しかし、実際は多少なりとも満ちたり欠けたりしているわけで、特にすんと月が消えた日には昨日と同じでないものが見られたと嬉しくなったりするのだ。そこではっとして、

「そうか、月を見ているんだね?」と言った。

 いいえと女は言った。


 女は未だにこちらを振り向かず、遠くにある何かに捕らわれているようであった。


 他に何が見えるのだろうと思い、月を眺めていたら横に光るものがあって、目を凝らせば、無数の星たちが瞬いていた。


 私がまだ年端もいかない子供であった頃、星は夜の飾りであると思っていた。しかし、歳を重ねて知識が付き、星は金属や気体やらでできた、ただの丸い物体であることを知った。


 今、天を彩る星たちが、私達の住む地球や月や太陽なんかと同じ、星であると言われて信じられる者が何人いるだろうか。私が星の正体知ったのは中学生のときであったが、ひどく裏切られた気になって、その晩は日が暮れる前に寝てやったのを覚えている。


 もしかするとこの女も星の正体を知っていて、裏切られた日を思い出して、星を睨み付けているのではないだろうかと思い、


「じゃあ、星を見ているんだね?」と言った。


 いいえと女は言った。

 

 これ以上遠くに見えるものなどないじゃないか、と半ば呆れながらも女の見ているものをまた探した。他に遠くを見て、見えるものと言ったら何もない夜の暗さだけであった。


「まさか、この暗い夜を見ているわけではあるまいね。こんな空虚なものを好き好んでみる奴にまともな奴はいない。黒色の中でも特に深い夜の黒色は、飲み込まれて、自分の心まで空っぽになってしまうんだ」


 さっきまで虚ろな返事だけだった女が、急に目を瞑った。鼻からいっぱいに空気を吸って、口から長くゆっくりと吐き出した。


「あら、夜のことをずいぶんよくご存じのようですけど、あなた様は夜に心を奪われたことでもあるのですか?」


 一生分の空気を吸った女が伏目がちに訊いてきたものだからもちろん、とだけ答えた。女は静かになった。元々静かではあったがそれが心底、それこそ街灯柱のない夜道みたいに、腹の底から静かになったように思えた。


「何か気に触るようなことだったかな。でもね、ほら、夜なんて本当に見ないほうがいいと思うんだ、あの虚しさは本当に……」


 私の言葉を遮って、いいえと女は言った。


 私にはその「いいえ」の意味がわかりかねた。


 女は私の反応にはまるで興味がないようで、深く目を瞑り、棺桶に入った死人みたいに青白くなって、小一時間は口を開きません、という顔になった。私はしかたがなくなって、しばらくぼけっと夜を見つめ、昔は夜なんて来なければ一生遊んでいられると思っていたのに、と今の自分を見て、日が沈まなくては息が苦しいのだから私は純粋ではなくなってしまった。と哀しくなった。


 やはり、夜を見るのはいけない。こうも簡単に私を憂惧の淵へと追いやってしまうのだから、やはり夜はいけない。


 しばらく経って、女が「いいえ」と言ってから一時間くらいだろうか。私は夜というものが本当に恐ろしいもののように思えてきて、上を向くのをやめて、さっきまでの女がそうしていたように池に掛かる柳を見ていた。


 女はというと、これまた長いため息を一つ漏らしたかと思えば、ついに観念したという様にゆっくりと首を落とした。


 いつの間にかまとめられていた髪は肩あたりまで下ろされていた。


 髪間から一つ、また一つと息が漏れる。擦れる柳の葉が寂しく鳴る。肌差す冷たい夜風が、二人の間で膿む微かなぬくもりを攫って行く。


 女は私が見ていた柳までゆっくりと視線を落として、


「いいえ、そもそも私に向けられた夜ではないのです。私は夜に奪ってもらえるほどの心はもうないのです」


 と、哀愁のない実にはっきりとした声で言った。


 私はその現し世離れした言葉の温度と物言いに、人としてではない不吉な何かを、私の中に蠢く不吉な塊と同じものを思った。


「私にあなたを感じられる器官は、もう、ないのです」


 そっと添えられた静かな声と、女の氷のように冷たい手が私の右手を包み込んだ。どうしても怖いと言った私の手を両手で包み込み、震えていた。


 涙で滲んだ瞳を私に向け、寒くなどないのです、と言った。わかっている、と私は言った。女は私の手を一層強く握り込んで、寒いのです、と言った。わかっている、と私は言った。


 女はしばらくの間手を強く握りしめ、私の瞳を、瞳の奥を見つめていた。やがて私の膝に顔を埋めた。


「あまり、他人様にお話しするようなことではないのですが、あなた様には知っていただきたく……、どうして私がここにいるのかを、これまでの人生を……」



 女は、聞いていただいても聞いていただかなくてもそのどちらでも構いません、と私の膝の中でぞくぞくと震える手を祈るように結び、話を続けた。


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