黄泉とこの世を繋ぐすべて
「私がこの町に来たのは十六になった夜のことです。母に手を引かれ、石ころの高さほどのお金で売られたのです。
こんなものじゃ割に合わないと怒っていた母の顔を今でもよく覚えています。
随分と昔の話です。今更腹など立ちません。
私を買い取った男はいくつかの仕事の中から好きなものを選ばせてくれました。体を売るものから家の掃除係まで、私の容姿をひどく気に入ったようで、男は掃除係になることを強く進めてきました。
綺麗な私を穢れなしに保存しておきたかったのでしょう。下賤な下心です。
どうせすぐに死んでしまおうと思っていたものですから、皆が望むこの体を、小石程度の価値しかない私を、できる限り汚して雲の上の神様に見せつけてやろうと、体を売ることに決めました。
決して投げやりになったわけではありません、絶対の意思を持って決めたのです」
女は噛み締めるように一つ一つ言葉を紡いだ。女は自分の半生を語り、私はそれに時々頷いたり頷かなかったりしながら、できる限り女の苦しみを受け止めようと、一瞬の瞬きもやめて話を聞いていた。
膝の中にいた女がむくりと起き上がり、また、私の手を握るとぞくぞく震えだした。
「私は毎晩幾人もの殿方と体を重ねました。怖いだとか、汚いだとか、気持ち悪いだとか、そんなことは一切思いませんでした。
やはり、この先に死があると思うと、それ以下の苦痛は感じないようでした。
ですけど、一年近く働いた頃でしょうか、この界隈での私は持ち前の容姿で人気を博しており、お店には私を求めて列ができる程です。皮肉です。皮肉のつもりでした。
穢れた体でもよいのだと結婚を申し込んできた殿方は一人や二人ではありません。
毎晩私に会いに人が並び、体を重ねるたび、月のように美しいなどと、愛しているなどと、全く虫の良い話です。
今までそんな言葉をかけていただいたことなど一度もなかったものですから、すっかり死ぬのをやめて、毎晩「愛している」を貪るようになりました。
私には何故だか途方もない借金がありましたから、行為が終わった後に、――借金があっても愛してくれますかと思い切って言いますと、殿方達は渋い顔になってもちろん、と言うのです。
次の日の朝には綺麗さっぱり消えています。
消えてしまうだけならまだ良かったのです。この界隈狭いもので、私に「愛している」と体に触れたその手で、次の日には違う女性の体に「愛している」と触れているのです。
触れられた同業の女性はこれが仕事だと言いました。愛している、の価値はそんなものだと言ったのです。
私はそれからというもの、何に触れて来たのかわからない人の手というものが本当に怖く、欺瞞で満ち、それでも「愛している」の虜になってしまった私はその手で愛想を振りまき続け、人の歓ぶことに手を差し出し、そういった私の手が他の人の手以上に恐ろしいもののように思ったのです。
私の穢れた手が、他人の、何をしてきたのかわからない手と結ばれるのが、本当に怖いのです」
私は繋がれた女の手をいつかのようにじっと見つめながら、震えは止まらぬものか、苦しみを少しでも緩やかにしてやることは出来ぬものかと手段を探した。
――寒くはないだろうが、やはり、寒いだろう。私はそう言って、右手で女の手を握り、左手で羽織っていたカーディガンを女にかけた。女は微笑まなかった。
「どうして震えるほど怖い私の手を、そうまでして握ってくださるのですか」
慎重に訊いてみると、女の顔は今にも涙が溢れ出しそうになり、唇を震わせ、しわくちゃになった顔ににこりと笑顔を添えて見せた。今までの不器用でしっかりとした笑顔が初めて崩れだした。
「本当に怖いのですよ。ですけど、あなた様には眠れないという私以上の苦しみがありますから……、ですから、私のいる所に……、すぐには、来てほしくないのです。
私がここにいる苦しさをこの穢れた手で少しでもわかっていただきたいのです」
「ここにいる苦しさ?」
「ええ、死んで苦しいのは私だけで十分なのです」
玲瓏に澄んだ女の声が、池に水粒が落ちるように、朝に陽が差し夜に陰が差すように、ぴんと張り詰めて聞こえた。
「私が死んで、もう十年。ずっと、あなた様の隣にいたのですよ」
「昨日ではなくてかい?」
「ええ、十年です。ずっとです」
私が眠れぬ不祥を患ってから十年、その間ずっと私の隣にいたのだ。
思えばあの時、私が眠れぬことに絶望し、首を括ったとき、その縄を切ったのはこの女だったのだろう。モルヒネという名の水溶液を飲む間際、私に飛び掛かってきた翡翠色の猫も女の差し金だったのだろう。
あの真っ赤な林檎を落としたのもきっとこの女だ。
十年間、町から町を流浪することで生きながらえていた私に寄り添い、現し世にそぐわない冷たい体でずっと守ってくれていた。全く優しい人だ。
それならばと、私は一段思い切って、
「あなたがもうこの世にいないのだということはよくわかりましたが、それがどれほどのことと言うのでしょう。
私はね、あなたのように、もうこの世に足を着くことができない、あと一歩で消えてしまいそうな危ない女性が好きです。たとえば娼婦のような、どうしようもない、変えられようのない何かを抱えている女性です。
娼婦の、人間の本能的な性を心体で施す行為は、変えられようのない何かへの代償か、あるいは、刹那的に生きる上で暇つぶしのようなものなのかもしれませんが、そのどちらであっても、私はそういった生き方をしている女性が好きなのです。
中途半端に成りきれていない人が嫌いで、腹の底から真面目な、娼婦のような、いえ、あなたが好きなのです」
女の目から涙がぽたぽたと落ちた。
私と女の間で落ちる雫の一粒一粒が女の欠片のようで、この涙が枯れるときに私の元から去るのだという漠然とした確信があった。
――地面に落ちて弾ける。この繰り返しが、黄泉とこの世をつなぐ全てだと悟った。
今、月のある世で永く育ったわけだが、今夜の月というのは悪く、鈍色に光り、輪郭は朧で捉えられない。女の長い髪の先から椿よりも甘ったるい匂いが香り、切れ長の目の横で、うんと弱い光で私たちを照らして、半分欠けた月が浮かんでいる。
いつか見飽きたと言っていた月が私の瞳に反射し、あっと目を見開いた女の唇に淑やかな月光が差して、接吻した。
このとき初めて月の色が真っ白でなかったと知った。
最後までお読みいただきありがとうございました。
美しい物語を読んだ気がする。
何年後かにそう思い出してくれる物語になってくれていることを祈っています。
そう思ってくれる方が一人でもいるのなら私は林檎を蹴らずに生きて、死んで行けます。
改めて、お読みいただきありがとうございました。
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太宰治はたった一行の真実を言いたいばかりに百頁の雰囲気をこしらえている。と言っていますが、私も同じことを思います。
夜の夢こそは高校生の頃に読んだ風俗嬢のインタビュー記事をがきっかけで書きました。
そこで出てきた女の生き方と、刹那的に生きているという言葉に震えました。
私の言いたかった真実は最後に女にかけた言葉のそれなのだと思います。




