九話 見えない
――イオリの、光を失った虚ろな瞳がエリーを真っ直ぐに捉えた。
カチャッ、と彼の手元で細身の剣が不穏な音を立てる。その瞬間、エリーはひどく息を詰まらせた。腰に差した自分の得物が、彼の放つ圧倒的な殺気に気圧されるように、カタカタと小さく震えていた。
パタン……と、イオリはゴブリンの死体の山の上で力なく倒れた。
「イオリ!!」
反射的に飛び出したエリーはイオリを抱きかかえる。
「ひどい……」
ゴブリンの棍棒によって打ち付けられた傷の多さ。数カ所がひどく腫れて骨折している。エリーは治癒魔法を使い、多少の応急処置を済ませると彼をおんぶした。
林の中を抜け、隣町、そしていつもの自分たちの街へと戻ってくる。彼女は自分の部屋へとイオリを運び込んだ。
「イオリ……バカ」
そう言い残し、彼女は街へと繰り出した。道具屋をまわりポーションや薬草を買い漁る。夕食を買って大荷物で帰宅した。まだ眠っているイオリを見て、心が苦しくなった。布にポーションを染み込ませ、薬草を挟んで包帯で巻いていく。
「うっ……意外と筋肉あるのね」
薄目になりながらも上半身の服をめくって怪我のある箇所の治療に入る。
「……普通の治療じゃ遅いわよね」
エリーはイオリの腹部に触れながら、その反射で怪我の度合いを確認した。
「やっぱり……内蔵が損傷してる……仕方ない。
――フルール・ド・シエル」
ベッドを覆い尽くすような美しい花。ほとんどが蕾。けれど、数輪の開いた花の香りは心を浄化するかのようだった。イオリの青痣が減っていく。エリーの顔から笑顔がこぼれる。
「やった……!」
――数時間後、いまだ目を覚ます気配がない。治療は施し、ほとんど軽度となっていたにも関わらずだ。
「やっぱり……無理しすぎてたのかな。バカイオリ。起きたらぶん殴ってやる……なんて、できるわけないじゃない。体を大事にしろなんて……言えないよ。あんなにいつも、ラナのこと見てたのに」
それからさらに長い時間が過ぎた。イオリが眠り始めてから十二時間後。彼はそっと起き上がる。キョロキョロと何かを探している。床で寝ていたエリーは目を覚ました。
「イオリ!? あ、あんたね! ちょっとはその、体とか大事にしたり……あぁもういいわ。ここは私の部屋で……イオリ?」
イオリはエリーの制止など一切耳に入らない様子で、ただ虚ろな目のまま、枕元の剣を無言で握りしめた。
「ちょっと……ねぇ」
そのまま、すれ違いざまに視線すら合わせず、ふらりと部屋の扉を開けて出ていってしまう。
胸の奥が引き裂かれるようにズキリと痛む。エリーはぽっかりと開いたままのドアの暗闇を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
「なんで……? 私はここにいるのに……お礼くらい言ってくれたっていいじゃない!!」
本当はそんなことどうでも良かった。お礼がほしかったわけじゃない。感謝されたかったわけじゃない。ただ……悔しかった。イオリが、私を見てくれないことが。
――エリーは下唇を噛みながら、荷物を瞬時にまとめて後を追いかけた。
「あの様子じゃ……また無理するに決まってる……! どうせ、止めたって私のことなんか見えてない。だけど……放っておけるわけないじゃない!」
――イオリはまた、ゴブリンを狩り続けた。エリーはその様子をただ遠くから眺めていることしかできなかった。
「魔力もないのに……すごい。ゴブリンのあの硬い筋肉をあっさりと」
尊敬の念を抱く。同時に恐れた。死んだゴブリンの体を何度も、何度も何度も突き刺していた。怒り狂うゴブリン達。襲いかかる彼らを、イオリは紙一重、最小限の動きだけで完全に避けてみせる。
この世界のあらゆる生物は魔力を帯びている。だが、その魔力こそが感覚の壁となり、わずかな反射の遅れを生むノイズでもあるのだ。
けれど、イオリにはそれがない。魔力ゼロの彼に伝わるのは、研ぎ澄まされた生の肌感と、刻まれた痛みという純粋な信号のみ。それが誰よりも強固な経験則として彼の脳に蓄積されていく。
――それは今、爆発的な成長を見せていた。
「グギャッ!! ギャッ……」
ゴブリンの首が転がり落ちる。イオリの剣はまるで、そこに障害物など無いかのように通り抜けていた。ゴブリンは次々と死体の山を築く。
最後の一体となったゴブリンは、武器である棍棒すら投げ捨てて一目散に逃げ出した。目の前の怪物を前に、本能的な恐怖に支配されたのだ。しかし、その逃走は唐突に遮られる。
ドスッ、と鈍い音が響き、ゴブリンの動きがピタリと止まった。背後から正確無比に投擲された細身の剣が、その胸骨を容赦なく貫いていた。ゴブリンは信じられないといった様子で胸から生えた刃を凝視し、そのままドサリと崩れ落ちた。
イオリが歩いて近づく。そして自身が投げたその剣をゴブリンから引き抜いた。
何時間も続くゴブリン狩り。敵がいなくなれば探し、殺し、また探す。最後には気を失って倒れ込んだ。
「イオリ……!」
エリーはその瞬間に駆け寄った。服をめくると、怪我は昨日よりはマシだったことを確認する。そして彼をおぶり、自分の家へと向かった。
――また、何も言ってくれないかもしれない。自分を見てくれないかもしれない。
「バカは……私なのかもね」
部屋につくと、イオリをベッドに寝かせた。タオルで触れられるところだけ拭いて綺麗にする。そして治療を施してそのまま寝かせた。
「けど……たぶん起きてもまた、ご飯も食べずに行っちゃうわよね」
エリーはシチューを作った。食材をかなり細かく砕いて煮込んでいく。出来上がったシチューを少し冷ましてから器へと移した。彼女はベッドに腰掛ける。イオリの体を抱きかかえ、テーブルに置いたシチューの容器にスプーンを差し込んだ。
「全く、私の手料理を味わわないなんて、人生損してるわよ?」
魔法を使って気道に入らないように気をつけながらシチューを流し込む。スプーンで丁寧に、器に入ったシチューが無くなるまで、時間をかけて何度も繰り返した。
――そんな、壊れた歯車のような日々が狂ったように繰り返された。
イオリの瞳に、エリーの姿は一向に映らない。彼はただ機械のように立ち上がり、ゴブリンを貪り食うように狩り、そして意識を失って倒れる。それをエリーが回収して看病し、目覚めた彼はまた無言で扉を開けて戦場へ向かう。
エリーは毎度文句を垂れ流しながらも、終わりの見えない地獄のような輪廻に、どこまでも付き合い続けた。彼の心が完全に壊れてしまう前に。
「……覚悟、決めなきゃかもね」
ポツリと、エリーは誰もいない部屋で呟いた。
「イオリ、待っててね。私があんたの正気を取り戻して見せる──絶対に」




