七話 子供の頃からの夢
――イオリとラナの日常は、そんな日々の繰り返しだった。一週間、一ヶ月、数カ月と時間は過ぎていく。イオリもこの世界での生活に随分と慣れていた。同時に――ラナへの依存も強くなっていた。
場所はギルドハウス二階の酒場。
「祝! ゴブリン討伐一日十体達成!!」
イオリがビールの入った木製のジョッキを掲げる。周りの冒険者が彼をバカにするように一緒に木製ジョッキを高く掲げた。ぶ厚い木と木が激しくぶつかり合う音が酒場に響く。
「「うぇーい!」」
木製ジョッキを机に叩きつけるように置いた。騒がしい日常を重ねるうちに、ギルドの面々ともすっかり気心が知れるようになっていた。基本バカにされる対象だが、イオリ自身も楽しんでいたので全く問題はなかった。
一人のゴツい冒険者がイオリの肩に腕を回す。
「よぉーゴブリンマスター!」
「よせやい。嬉しくないぜ?」
「ゴブリン倒した数じゃお前一番じゃねぇか?」
「おうよ。なにせ今じゃ一人でもゴブリン倒せるからな。まぁラナがいないと不安で無理だけど」
冒険者は歯を見せながら笑う。
「けっ……惚気かよ。だが本当にすごいぜ。この貧弱ステータスで冒険者としてやっていけてるんだからよ」
「ゴブリン専門だけどな……」
ラナがおかわりのビールを持って隣りに座った。すると屈強な冒険者が回していた腕をほどいた。
「おっと……嫁さんの登場だ。怒られねぇうちに離れとくかな」
ラナは顔を赤らめて否定する。
「ちっ違います……! ただのパーティーです!」
「はっはっは。嘘つくんじゃねぇよ。噂だぜぇ? あんたらがもう婚約してるんじゃないかってな」
「してませんしてませんっ!」
「ほう? なら嫌か?」
「それは……」
チラッとイオリを見る。イオリはすっかり酔っていて、この会話は耳に入っていないようだ。イオリを見つめるその目を見た冒険者は大きなため息をついて下がっていった。
「答え合わせされちゃあたまんねぇや」
ゴツッ! とイオリの頭にビールの入った木製ジョッキを叩くように置くエリー。少しビールがこぼれてイオリの頭にかかる。
「なーに調子のってんのよ。ゴブリン程度で粋がるんじゃない」
「いてぇ! なにすんだよエリー」
エリーは口角を上げて楽しそうに笑う。イオリの頭をビールの入った木製ジョッキの底をコンコンと当てる。
「別に? 気の緩みは負け戦を呼び込むわよ?」
「ないないっ。目を閉じてたってゴブリンの攻撃は避けられるね」
少し引き気味にエリーは言った。
「きっしょ……あんた今頃ゴブリンの間で死神とか言われてんじゃない?」
「んな褒めんなよ……」
「頭に花でも咲いてんの?」
――ラナは口元を手で押さえて小さく笑うと、そっとイオリに顔を近づけ、彼の口元についたソースを指先で優しく拭った。
「ソースついてましたよ?」
「あっ……ごめん」
ヒューヒューと周りの冒険者が二人を茶化し立てる。ソースを取ってもらったイオリもまた、どこか甘そうな表情でラナと見つめ合っていた。ただ、エリーだけは――それを横目に見ているだけだった。
「なによ、デレデレしちゃってさ」
隣の席で一人、彼女は鶏のステーキを口に運んだ。
イオリとエリーの酒が進む中、ラナはお茶を飲みながらその日常を楽しんでいた――ある瞬間までは。
――隣町に、去年突如として現れた『勇者』が来ている、という噂が耳に入る。
ピクッ、とお茶をすするラナの手が完全に凍りついた。全身の血が引いていくような衝撃。幼い頃からの憧れが、一瞬にして彼女の脳裏を爆発的に支配する。
「勇者……」
幼い頃からおじいちゃんにずっと語ってきた夢。勇者様のパーティーに入って世界を救う。そのために自分なりに魔法の訓練はしてきた。けれど、魔法の才はなかった。いつしか努力をやめてしまった。
おじいちゃんが死んでからは特に、どこかで『夢は夢のまま』だと諦め、ただ描いているだけだった。それなのに――もしかしたら、何かの価値があって拾われるかもしれない。
手先が震えてお茶を飲めない。
「すいませんイオリさん……今日は、帰ります」
ラナは衝動的に隣町へと走り、そして、魂が抜けたような顔で戻ってきた。勇者たちが旅立つのは二日後。
勇者パーティーのうちの一人が情報スキルをラナに使った。その結果、彼女には”異常なほどの魔力貯蔵量”という、歪で、けれど勇者たちが必要とする明確な価値があることが証明されてしまった。ずっと手の届かなかった夢の切符が、今、手のひらにある。
「叶う……でも」
一人部屋で、いつもイオリが寝ているベッドの前で膝をついた。シャツの胸元を強く掴み、頭をベッドに押さえつけた。
次の日の深夜。ラナは目にクマを作っていた。何もかも伝えたい気持ちを抑える。一方何も知らずに寝息を立てるイオリ。ラナはその寝顔を見ながら下唇を噛んで涙をこらえる。胸を締め付けるような痛みの中、小声で囁いた。
「イオリさん……あなたを思うこの感情が何か分からないけど――きっと、好きです」
準備を整えたラナは静かにずっと過ごしてきた家に別れを告げた。街の入口でエリーが待ち構えていた。
「あんたが考えそうなことくらい分かってるわよ。本気でその選択をするの?」
「……私は」
「私は怒ってるわよ。あんた、おじいさんが死んでからずっと元気がなかった。でもイオリに会ってから毎日楽しそうに笑うようになったわね。そこまでは別に良かったわよ。
――でもあんた、イオリが自分から離れないように依存させたわね」
「そ、それは……そんなんじゃ」
「無自覚? だとしたらもっとタチ悪いわよ。あいつが自立できないように、一生自分のそばから離れないように、あんたの都合のいい檻に閉じ込めたのよ。……
二人がそれで幸せそうだったから、私は何も言わなかった。でも、あんたが今やろうとしてることは何? 自分の寂しさを埋めるためにあいつを骨抜きにしておいて、夢が叶うからって今更ポイ捨てするわけ!?」
「……ッ! 分かってますよ!! たくさん、たくさん悩んだんです。私だってイオリさんと離れたくない。でも夢が……踏み出すだけで叶うんですよ……!」
ラナは瞼を強くつむって、涙を浮かべながら走り出してしまった。ギリッ……とエリーは歯ぎしりする。
「あいつに……なんて言えばいいのよ」
――翌朝。イオリは目を覚ます。ラナがいない。
「ラナさん?」
イオリは部屋中を探した。何一つとして生活の痕跡が残っていない。いつも壁に立てかけられていた彼女の杖も、そこには影も形もなかった。
――その空白を見た瞬間、胸の奥を冷たい針で刺されたような痛みが走った。
経験したことのない嫌な予感に、ドクドクと心音が跳ね上がった。自覚している以上にラナに依存していた脳が、最悪の想像を振り払おうと必死に楽観的な言い訳を紡ぎ出す。
「……? 訓練でもしてんのかな」
探した。とにかく探した。ギルドも、行きつけの店も、道具屋や武器屋も狩場も。不安と恐怖はより煽られていく。
「ラナさんっ! ラナさん!!」
呼んでも返事はない。顔が青ざめていく。一年という時間、ラナに依存していたイオリは極度の不安に駆られていた。走り回って、転んで、また街に戻ってきた。浮かない顔をするエリーを見つけると、両腕を掴んだ。
「エリー!! ラナさんは……? 居なくなっちゃったんだ。知らないか?」
イオリの怯えた表情は、エリーの心臓をえぐるかのようだった。エリーでさえ、その真実を口に出すのに何度も喉がつっかえるほどだった。
「ラナは……勇者のパーティーに入ったのよ。だからもう……帰ってこない」




