五話 ゴブリン
――金色の髪が遅れて舞う。机を強く叩いたその女性はイオリの顔に近づき、じーっと睨みつけるように観察していた。イオリの肌から冷や汗が伝う。これまでの人生で、ここまで至近距離から他人に見つめられた経験などない。目を逸らすこともできず、ごくりとつばを飲み込んだ瞬間──ピトッ、と互いの鼻先が触れた。
「本当に弱そうなやつね。なんでこんなのがギルドにいるのよ」
イオリは完全に気圧されて無言。完全に蛇に睨まれた蛙状態で、指一本動かせずにビクビクと怯えていた。
ラナが助け舟でも出すかのように間に割って入る。
「エリーさん。こちらの方はイオリさんです」
「はぁ? イオリィ? なにその変な名前」
エリーはラナの腕に押されて距離を取らされる。ため息をついて、隣の席へドカッと乱暴に座った。
「それで、なんでそんな変な名前のやつがここにいんのよ」
彼女の視線はイオリの剣へと向いていた。ラナはもじもじしながら答える。
「それは……身寄りがないんです」
ピクッとエリーの耳が跳ねるように動いた。スッと目をそらすが、態度は変えない。
「はんっ。身寄りがないからなんだっての。だったら冒険者なんて危ないことしないで、レストランかどっかで働けばいいじゃない」
もうハートに刺さる隙間すらない。イオリはもぐもぐとさみしく鶏肉のステーキを口に含んで顎を動かしていた。あぁ、こんなときでもメシはうまい。隣では、ラナが申し訳なさそうにイオリの『鑑定結果』について事情を説明し始めていた。
それを聞いたエリーは開いた口が塞がらない。
「はぁ?! レベル一?! しかもそれでカンストって。つまりどういうこと? 一生レベル一なわけ? しかもステータスも最弱でカンスト済みって救いようがない雑魚じゃない!」
「あの……エリーさん。イオリさんがもちませんから」
イオリはしくしくと鶏肉に伸びるフォークの速度を上げる。エリーはどでかいため息をついて、頭を抱えた。
「それであんたが面倒を見てると。冒険者、それも剣士なんて……」
エリーは目を伏せた。少し言い淀んでからまた口を開いた。それはどこか、イオリに言っているようで言っていないような、そんな言い草だった。
「どうせ向いてないんだからやめればいいのに」
彼女はハッと我に返ると、ぶんぶんと頭を横に振って、自ら作り出した妙な感傷を振り払った。
「あぁもう! とにかく! 冒険者はどう考えたって無し! それに生きる方法なんていくらでも」
「――エリーさん。私が守りますから大丈夫です」
声が少し低かった。それを感じとったエリーは下唇を噛んだ。
「あんた……ふんっ、あっそ。好きにすれば。ただでさえ日銭稼ぐだけの貧弱冒険者のあんたが、お荷物背負いたいんなら好きにすれば良いんじゃない。小さい頃の夢を思い出すわねー。あんたたしか、勇者パーティーに入って活躍するんだーって言ってたっけ」
「それは……昔の話です」
エリーは荒々しく椅子から立ち上がった。勢い余ってガシャーンと椅子が倒れる。
彼女は一瞬フリーズし、ちょこんとかがみ込んで、申し訳なさそうに椅子を元の位置へと戻した。根は絶対にいい子だ、とイオリは確信した。
「ん、こほん。まぁどうでもいいわ。せいぜいたくさんゴブリン倒して毎日好きに生きればいいじゃない。私は夢を諦めないけど」
イオリは純粋な気持ちでその夢を聞いた。
「エリーの夢って?」
背を向けた彼女は、その言葉が耳に届いた瞬間、わずかに肩を震わせた。何かを言いかけ、言葉を探すように微かに口を開いたが……結局、何も紡ぐことはできなかった。
「夢なんて、人に話すもんじゃないわよ。私の夢は……幼馴染のラナだって知らないし」
去っていく背中はどこか寂しそうだった。
――翌日、あの日ラナと出会った湖の近くでイオリは剣を抜いた。複数の物音、ラナは杖を握りしめる。小声で「イオリさん……ゴブリンです」と伝える。彼は頷いて足音を消しながら近づいていく。
草むらの隙間から見えるゴブリンは彼が初めて見る魔物。息遣い、肌の質感、棍棒を握る腕から浮き上がる血管。ドクンッ……と心臓が全身に響く。唇が乾いて、ツバを飲み込もうとしても一滴も流れずに喉だけが動く。
本物の魔物が放つ殺気と異臭。命を奪い合うという現実が、平和な日本(都会)で生きてきたイオリの足をすくませるには十分すぎる恐怖だった。
けれど、ラナも見ている。ラナに迷惑をかけたくない。最弱でもゴブリンくらい倒してみせると、自分を鼓舞するように叫んで草むらから飛び出した。
「うぁぁぁぁああ!!」
――ギルドの酒場にて。エリーが微妙そうな顔をしてソファに寝そべっているイオリを見下ろしていた。
「で、ボコボコにされたと」
「……」
イオリは何も言えなかった。あの後、威勢よく叫んだせいで即座に位置がバレた。剣を一振りする暇さえなく、無慈悲な棍棒の乱打を全身に浴びたのだ。
結果、ラナが急いでゴブリンを仕留め、イオリを連れてこの酒場へと逃げ帰ってきたのが現状だった。呆れた様子でエリーはため息をつくつ。
「あんたほんと……はぁ。今まで魔物と戦ったこともないくせに飛び出していったんでしょ? その勇気は認めるけどさ。でもあんた叫ぶって……」
「……ぐうの音もでません」
「んで女に背負われて帰ってきて、よちよちとなだめられながら治療を受けてると。ばっかじゃないの?」
「……ぐう」
「出たじゃないぐうの音……」
ラナは二人の会話を聞きながらクスクスと笑っている。そしてイオリの頭を撫でながら治療を終わらせたことを伝える。
「よしよし。大丈夫ですよー。最初なんてそんなもんです。私たちもそれを乗り越えていますから。でも次からは叫んだりしちゃダメですからね?」
「……はい」
呆れたようにエリーはため息をついた。
「はぁ……私は何を見せられてるんだか。まぁ私たちは自分たちでちゃんとゴブリン倒したけどね。最初で」
「もうっ! エリーさんっ! あんまりイオリさんをいじめないでくださいっ」
「はいはい。分かりましたよーって」
エリーは剣の柄に触れたまま、物思いに沈む。イオリを甲斐甲斐しく介護するラナに向けるその視線は、冷徹そのものだった。
誰の耳にも届かない小さな声が、酒場の喧騒にポツリと落ちる。
「くだらない。ほんと……ばかみたい」




