三十九話 勇者とモブ
イオリはスフィアの頭を優しく撫でた。スフィアは一瞬ビクリと身を硬くするが、勇者のそれとは違う、慈しむような温もりに、喉の奥が熱くなるような困惑を覚えた。その手が離れるのがたまらなく名残惜しく、彼女は自分の手を、撫でられた箇所にそっと添える。
「んにゃ……」
彼はフードを深く被り、そのまま歩き去っていく。元々歩いていた進行方向とは逆に向かって。血の気が引いていくスフィア。
「まっ、待つにゃ! どこ行くつもりにゃ?!」
返事はない。まずい、今はラナがいる。衝突しかねない。止めようとするが、安心したせいか足が動かない。そのままへたりこんでしまう。イオリの姿が遠ざかっていく。
「なっ、何してるにゃ私! こんな時に――腰を抜かすにゃんてッ! 動けっ、動くにゃっ!!」
――酒場へ足を踏み入れる。壊れた扉の先、薄暗い店内にラナの姿を捉えた瞬間、イオリの喉が引きつった。込み上げる激情を必死に呑み込み、鋭い眼光を勇者へと固定する。
勇者ハルトはイオリに気づいて、つばを吐いた。
「あぁ? なんだお前」
「勇者だからって、ずいぶん好き勝手してるみたいだな」
今は――こいつに制裁を加える。それだけに注力する。あの日の屈辱が心の中で闇のように蠢いた。勇者はどうやらイオリのことを覚えていないらしい。足をテーブルへと力強く乗っけると、こう言った。
「好き勝手? なんのことだ? 俺様は勇者だ。女神に選ばれた人間、何をしても許されるんだよ。てめぇみたいなどこぞのモブとは違ってな」
勇者は近くにいたラナの頭を無造作に掴み上げた。その光景を目にした瞬間、イオリの脳内で何かが弾け飛ぶ。
イオリの魔力が溢れ、足元の地面に強烈な破壊を生み出し、ヒビが広がった。ラナは目を見開いた。そのローブの奥、心を満たすその存在が誰なのか。
「イオリ……?」
イオリはその声に反応せず、腰の剣を引き抜いた。勇者は不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。剣を抜き放ち、ふらりとイオリへと近づいていく。
「あぁ……思い出したぜ。お前確か、あの時のモブか。女を取られて、地べたに這いつくばって泣いてた雑魚だ。レベルは一だったなぁ?!」
あの時の情けなさを思い出し、ゲラゲラと勇者は笑う。イオリは低く、冷たい声を発した。
「うるせぇよ。女に逃げられたからって手ぇ出そうとするクズ野郎が」
勇者ハルトの剣がイオリの横をかすめる。イオリは最小限の動きでそれを回避した。勇者ハルトは歯を剥き出しにして笑い、蔑むような目を向けてくる。
「口には気をつけろよ。俺には人を殺しても罪にならないって特権があるんだからよ」
「当ててから言えよ。てめぇがグズッてるから俺らが先に倒したぜ。魔王幹部の一人をな」
「てめぇが……? あはははっ! 嘘つくんじゃねぇよ!! レベル一のゴミがそんなわけねぇだろ!!」
勇者ハルトは腹を抱えて笑い、近くの小樽を掴んだ。半分ほど自ら飲み流し、残りをイオリの頭上で迷いなく逆さにする。冷たい麦酒が髪を伝って滴り、発酵した麦の匂いが鼻腔を刺した。滴る液体と屈辱に奥歯を噛み締め、イオリは沈黙を貫いた。
「あんなのはただの噂なんだよ。勇者でもないやつがどうやって魔王幹部を倒すんだ? あ? この世界は勇者のために用意された舞台なんだよバァーカ!!」
投げ捨てられたビールの小樽。勇者ハルトは剣をたかだかと上げて振り下ろした。
「死ねやクソモブ!!」
「やめてっ! イオリさんを傷つけないで!!」
ラナが悲鳴に近い声を上げる。杖を掲げて魔法を放とうとするが、イオリとの距離が遠すぎた。その淡い光は、勇者の殺意を止めるにはあまりに無力だった。
短い金属音。次の瞬間、勇者の剣は手から即座に弾け飛び、壁へと突き刺さっていた。パラパラと壁の破片が乾いた音を立てて落ちる。何が起きたのか、勇者は理解すらできていなかった。
何をしたのか、何をされてこうなったのか。何一つ分からない。ラナは壁に突き刺さった勇者の剣をあっけに取られながら見ていた。光を放っていた杖は少しずつその光を失っていく。
イオリはうろたえる勇者を睨むように見上げた。
「拾えよ。てめぇのだろ」
我に帰った勇者ハルトは素早く剣の位置へと転移。剣を引き抜いて構えた。一方、ラナはまだ唖然としていたままだった。
「すごい……イオリさん……」
勇者ハルトは再び剣を振り払う。女神から受け渡された勇者の剣は魔力を帯びて光り輝き、その速度を上げる。それは確かにイオリの首を狙っていた。
――金属音が虚しく鳴り響く。イオリへ到達する前に、勇者の剣は地面へと深く突き刺さっていた。イオリの低い声が勇者の耳に冷たく浸透する。
「拾え」
勇者ハルトは悔しそうに剣を引き抜く。そしてすぐさまその剣は弾き飛ばされる。勇者として、こんなことは許されない。そのプライドだけが、勇者ハルトの原動力になっていた。何度も、何度も何度も――
「拾え」
「拾え」
「拾え」
「拾え」
「拾え」
繰り返される屈辱。息は完全に上がって冷や汗がダラダラと流れる。剣が重い。地べたに這いつくばって、剣を拾い上げながらイオリを見上げた。その瞳孔は小さく揺れていた。
「ひっ……」
イオリの目が怖い。勇者の息が過呼吸のように荒くなる。カタカタと震え、剣を投げ捨てた。イオリはその剣を拾って勇者の近くへと投げる。
「勇者だろ。へこたれるなよ。そういやお前、見覚えあるな。トラックに轢かれる時に一緒にいたやつだ。トラックの前で固まってちびってたやつだろ。俺が女を助けている間、お前は情けなくも固まっていたわけだ。轢かれる時とおんなじ顔してるぜお前――モブに見下される気分はどうだ? クソ野郎」
イオリは剣を勇者の首に当てる。
「――拾え」
一瞬にしてイオリに剣が向けられる。それはハルトのものではない。勇者パーティーの面々だった。ラナも……杖を構えているが、その先端は細かく震えている。
「お願いイオリ……その剣を下ろして」
この世界にとって、勇者という希望の象徴を失ってはならない。たとえどんなにクズな勇者であろうとも、人が前を向くのに必要な存在だった。
――床から無数の白い花が溢れ出し、酒場を侵食していく。静寂の中、白い花弁を纏ったエリーが姿を現した。
「それはこっちのセリフよ、ラナ。その杖を下ろしなさい」
冷徹な声に、ラナは杖を落とす。気圧されるように足を震わせ、その場に座り込んでしまった。
「……なんで、どうして……エリーさんがここにいるの? ヒール? なんで剣士じゃ……」
まさか、一緒に旅をしていた? どうして、なんのために? ラナの頭を駆け巡る思考。エリーが自分を睨みつける表情の理由が分からない。イオリが自分を無視するのはなんで?
イオリとエリー以外全員の筋肉が弛緩して地べたに跪く。ラナは彼女を見上げたまま、どうしてそこにいるの? 私が欲しかった場所になんでエリーが? と心の中で思考が収束することなく、巡りまわっていた。
エリーは彼女を睨みつけながら吐き捨てる。
「ラナ。あんたよくイオリに向かって杖なんて向けられたわね。剣を下ろせ? よくもそんな……そんなっ!」
エリーの本気の感情をぶつけられる。エリーの頭にあるのは壊れたイオリの記憶。あの苦痛の檻にいたイオリのことが怒りをこみ上げさせていた。
「あんたがいなくなってから、イオリがどれだけ辛い思いしたか分かってんの? イオリがどれだけ苦しんで、どうしようもないくらいに壊れたか分かってんの?!」
ラナは喉を塞ぐような息苦しさに、自分の喉元を強く押さえた。過呼吸のように肩が上下し、涙が溢れる。知らなかった。考えたくなかったのだ。イオリがゴブリンを倒せるほど強くなっていたのだから、彼はもう大丈夫だと、独り立ちしたのだと、自分に言い聞かせていただけだった。
なのに、実際はイオリを苦しめた。傷つけた、壊した。大好きな人を、追い詰めた。




