三十八話 逃走
スフィアはイオリを見送ったあと、酒場へと戻る。カウンターにある残った酒を口へと運んだ。随分と苦く感じながらも最後まで飲み干した。
「私ももう限界にゃ。ラナ……ごめんにゃ」
視線を落としたスフィアは、ゆっくりと酒場の奥へと歩みを進める。女たちに囲まれ、酒を浴びるように飲んでいた勇者の背後――そこに立ち止まると、彼女は吐き捨てるように言った。
「このパーティー抜けるにゃ」
――空気が凍る。
勇者パーティーから黙って消えることは許されない。裏切り者として、社会的制裁が下る。そんな未来は、イオリに拾われたいスフィアにとって最悪の結末だった。
勇者ハルトから笑顔が消える。
「今なんつった」
「は? 聞こえなかったのかにゃ? こんなパーティーにいられないつったのにゃ。勇者だからって調子乗ってんじゃねーにゃ」
勇者によって地面に叩きつけられたビールの小樽は粉々に砕ける。
「お前、勇者パーティーを抜けるなんざ……相当な理由があるんだろうな」
「ただ向いてないってだけにゃ。名誉なのは理解してる。けどにゃ、私には合わなかったにゃ」
恐怖を感じた夜の女たちが勇者ハルトから距離を取る。スフィアももう十分かと逃げる準備をする。正直言えば、ラナのことが心配だった。けれど、彼女の気持ちが決まっていない以上連れて行くわけにもいかない。それに、勇者からラナを庇いながら逃げるのは難しい。
後でこっそりラナに会って、イオリに会いたいか問いかけようと思っていた。
ガチャッ……と扉が閉められる。スフィアはハッとし、背後を驚くように振り返った。歯ぎしりをしながらその勇者の能力を呟いた。
「にゃ……自身のみを対象とした空間指定転移スキル」
「よく分かってんだろ? スフィア。どうせ逃げられるのなら……味見でもしておくか? 教えてやらねーとなぁ。勇者パーティーを裏切ったやつがどうなるか、その体によぉ」
――目の前に、突然ハルトが現れる。
スフィアの胸を掴もうとしたハルトの手は、何も掴めずに宙を斬った。スフィアが空中へと身を躍らせ、体をねじって回避していたからだ。
「チッ……」
「私の尊厳を破壊したい。そんなところかにゃ?」
体を猫のようにねじりながら地面へと着地する。両手を地面に突き立て、膝を曲げながらお尻を突き出すように重心を低く沈める。地を蹴るためのバネを極限まで溜め込むと、爪が床の木材をギリッ……と深く抉り、床板を鳴らした。
勇者ハルトは、どこかゲーム感覚で口角を上げて言葉を返した。
「お前が泣きついて、やめるのをやめますっていうのを見たいと思ってなぁ。終わった頃には……すがるようにしてやるよ」
勇者ハルトが腰の剣を抜く。戦うためではない。逃げ道そのものを断つかのように一瞬の転移で間合いを詰めると、剣先がスフィアの足元へ叩きつけられた。
バキリと床の木材が砕け散る。スフィアの初速による衝撃で、周囲のテーブルや食事が宙を激しく舞う。彼女は即座にカウンターの上へ着地し、再び最速姿勢を維持した。
「シャーッ!」
毛を逆立てながら、スフィアは壁、テーブルと位置を即座に変えながら逃げていく。瞬間移動とスフィアの高速移動が激しく交差する。酒場に居た人たちは思わず屈んで、自分たちの身を守っていた。
その喧騒は外にまで漏れ聞こえていた。近くの宿で休んでいたラナは、激しい物音に胸騒ぎを覚えて酒場へと駆け寄る。扉に手をかけたが、鍵が閉まっているのか、びくともしなかった。
「あれ、どうして……中はこんなにも騒がしいのに」
剣がいろんなものを壊す音が酒場のあちこちから聞こえる。
ついに追いつかれた。高速移動の代償で呼吸が乱れた隙を突かれ、首元を強引に掴まれる。窒息するような圧迫感。ガサリと衣類が裂ける不快な音と共に、剥き出しになった腹部をハルトの指先が這い上がった。
「へー、かわいいパンツはいてんだな」
「だ……まれ、この変態勇者」
スフィアの吐き捨てた言葉の後、彼女の腹部に強い衝撃が加わり、スフィアはそのまま扉に向かって吹き飛ぶ。扉は破壊され、スフィアは外へと出る。
――スフィアとラナの視線が絡み合う。
「ラナ――ごめんにゃ」
スフィアは即座にその場から消え去る。転移でそこへ来た勇者ハルトの攻撃が空を切り、地面をえぐるように破壊した。その隙に他の客や店員は危険から逃げるために酒場を後にした。
「チッ……逃げられたか。あ? 来てたのか魔力タンク」
「えっ……あっはい。その、スフィアさんと何が」
「あいつ逃げたんだよ。このパーティーからな。クソが。てめぇは裏切るなよ。貴重な魔力ポーションなんだからな」
ラナは口をつぐんだ。魔力ポーションという言葉に悔しい気持ちでいっぱいになる。
その後、勇者ハルトに言われて酒場の中へと一緒に入れられる。他の勇者パーティーとお酒を呑み始めた。けれど心は別のことを考えていた。
――私も逃げたい。イオリさんの元へ帰りたい。虫のいい話だとしても、やっぱり……あの人が頭の中から消えることはなかった。私の夢は……幻想だった。そんなものよりも――イオリさんと一緒にいることの方が比べ物にならないくらい幸せだった。
ごめんなさい、おじいちゃん。私の夢は――やっぱり叶えられなかった。絵本のような勇者は……いなかった。
けれどラナは、自分よりも遥かに強いスフィアの惨状を見てしまった。体を汚されてでも戻るべきか。それをイオリは受け入れてくれるだろうか。そうでなくとも、突き返されるのではないか。
もうイオリに必要とされてないんじゃないか。もし、そんなことになったら自分は立ち直れない。夢も捨て、支えもいなくなる。そうなったらもう……
――その頃、スフィアは体を押さえながら壁伝いに歩いていた。
「くそ……あの勇者、手加減なしで蹴りをぶち込みやがったにゃ……散々情報集めて手柄を手に入れるチャンスを用意してやったのに……恩義も思いやりというものもないのかにゃ?」
そして歩いているイオリを見つける。
「イオ……」
声をかけようと思ったが、少し躊躇する。拾ってくれるという確証がない。突発的に逃げてしまったが、今の状態で情けで拾われるのは本意じゃない。少し傷を治療してからアプローチしたほうが――
「スフィアか?」
振り返った彼は、スフィアの惨状を見るなり目を見開き、迷いなく駆け寄ってきた。
「どうしたスフィア?! 魔王幹部でも来たのか?!」
「にゃはっ……んなわけないにゃ。だとしたら命はないにゃ。ただ勇者パーティーを抜けただけにゃよ。そしたらこのザマにゃ。悪かったにゃ、ラナを守るって言ったのに、逃げちゃったにゃ。にゃははっ! でもなんとか純血は守ったにゃよ!! にゃはっ、にゃ……」
声は軽口。けれど耳は後ろへと下がり、尻尾は自分を守るように震えて丸まっている。喉に詰まる泣き声の種。一度漏れたらきっと止まらない。情報屋としてのプライド。スフィアは絶対に泣かなかった。たとえどんなに、あの男の手が怖かったとしてもだ。
――勇者の手が、本当はすごく怖かった。




