三十七話 スフィア
勇者という言葉に、イオリは心臓が嫌な音を立てて跳ねた。握りしめた木製ジョッキが震え、中のビールが波打つ。もし、ラナがいるのなら。何を話せばいい? 無視か、あるいは。勇者と対面した時のことを想像し、思考が急速に焦燥へ傾く。
そんな思考が一気に走る。怒鳴っていた女性の声がそこから遠ざかり、ぷんすかと入口へ近づいてくる。
「ほんっとーに、やってられにゃいにゃ!! ふんっ! もうしらにゃい!!」
ズカズカと歩いていた足音が、ピタリと止む。獣の勘か、彼女はイオリの視線を感じ取ったように顔を向け、尖らせた唇で言い放った。
「なんにゃ?! 見世物じゃねーにゃ!!」
――数分後、彼女はなぜかイオリの隣でビールの小樽をカウンターに叩きつけた。
「私の存在意義ってにゃに?! 私は結構強えーのににゃ?!」
しくしくとイオリの隣で愚痴を零す。垂れ下がった耳とは対照的に、背後の尻尾は苛立ちを隠しきれず、横ざまにブンブンと暴れている。イオリの二の腕にそれがぺちぺちと容赦なく当たり、地味な痛みを感じさせた。
「えっ……まだ一口」
ギロッとイオリを睨みつけ、猫耳の女性はジョッキを掴む。そしてゴクッゴクッと中身を一気に喉へ流し込んだ。口の端から溢れたビールが顎を伝う。乱暴にテーブルへ叩きつけられたジョッキが、鈍い音を立てた。
「これで文句ねーにゃ?!」
「……あ、はい。ないです」
酔っ払いに絡まれたイオリはひとまず刺激しないようにしていた。女性は頭をカウンターに乗せる。
「はぁ……勇者パーティーってのもやってられないにゃ。あぁ、私はスフィアにゃ」
イオリに届いた串焼きを一瞬にして奪い去り、下を向いたままもぐもぐ口を動かす。
「こいつマジで……」
「聞いてにゃ。あいつやべーにゃ。勇者っていう大義名分でやりたい放題。他人の金で散財しまくってるにゃ。女神からもらった剣でそりゃ強いけどにゃ……でも情報屋の私の言う事聞かねーのにゃ!! ぜーんぶ力押し。無駄に消耗するバカにゃ!!」
涙目になりながら食い気味でイオリにそう叫ぶ。
「私のスキルも死にスキルになっちゃってるにゃよ……! 使い所はあるけどにゃ……でも戦闘じゃ使っても意味にゃし!! 聞く耳もたねーからにゃ! にゃははっ!!」
イオリは激しいなーと思いつつも二杯目のビールに手を伸ばした。彼女には身に覚えがある。確かスフィア。イオリが勇者と初めて会った時、隣に居た女性。ラナを守ってくれる。そう言っていた人だ。
「にゃんにゃ。私の顔に何かついてるかにゃ?」
「いや……別に」
「そういやお前……どっかで見たことあるにゃ。ラナと知り合いかにゃ?」
「は?」
スフィアがじろじろとイオリの顔を検分する。その金色の瞳に見据えられ、イオリはたじろいだ。
「なーんか覚えがある。確かラナ関係だった気がするのにゃ」
「あっ、あぁ。ほら、ラナさんを取り返しに一度お前とも会ってる」
「あー……あの時の。あれは心が傷んだにゃ。というか気づかなかったにゃよ。お前雰囲気が変わりすぎにゃ。あの頃はあんなにも弱々しかったのに。ステータスは……まだ雑魚のままみたいだけどにゃ?」
スフィアの目の中で魔法陣が回っている。イオリは遠い目をしながらぼやいた。
「傷つくんだけど」
「悪気はないにゃ。嘘にゃ」
「おいこら」
スフィアも二杯目に手を付けた。
「っぐっぐっぱぁー……はぁー……ラナは結構辛そうにゃよ。って、私が言うべきことじゃないにゃ。本人たちの問題だからにゃ」
スフィアは口を閉ざした。言い募ろうとしたイオリの唇を、ふわりと尻尾が覆って遮る。ラナが泣いていた事実は伏せるべきだ、と直感したのだ。彼女はあえて話題を逸らし、苛立たしげに溜息を吐いた。
「普通――勇者パーティーに入ったら、絵本のような英雄を夢見るにゃ。でも……現実は違ったにゃ。一人の男が好き勝手するのをただ眺める。手伝いをする。それだけの、ものだったにゃ。雑に扱ってくるし。ほんと……入るパーティーを間違えたにゃ」
「……後悔してるのか?」
「私も、夢だったのにゃ。いつか、こうして絵本のように英雄として名を残す。その夢を叶えたはずなのににゃ……どうしてこうも、暗い気持ちになってしまうのかにゃ」
スフィアは顔を机に埋めた。
「全く、世界は残酷にゃ。そういえば、お前はこれまでどんな旅をしてきたのかにゃ?」
イオリは残ったビールを一口含み、これまでの旅路をかいつまんで語り始めた。
「そんでエリーが俺を看病してくれていたんだ」
「うっうっ……泣ける、泣けるにゃ!」
他にもスカルドラゴンを倒した時の話。スフィアは机を強く叩く。
「だーから言ったのにゃ!! ちゃんとコアを破壊しろって! はぁ……悪かったにゃ、尻拭いさせて」
「いや、戦い方の勉強にもなったし、おかげで報酬とかももらえたしな。商人のおっちゃんとも知り合ったし。ただ……そのあとに魔王幹部が来てな」
「なっ……お前、魔王幹部と接敵したことがあるのにゃ?! よく生きてるにゃ」
「まぁ、見逃されたようなもんだよ。俺達が弱すぎて危険視されなかった。まるで偶然見つけたおもちゃで遊ぶ、みたいなさ」
「すげーにゃ……うちのは一度も接敵してないのにゃ」
他にもリリスやミーニャの話もした。リリスが食料を食べきったときなど、スフィアはゲラゲラ笑う。
「にゃはははっ! せっかく買い込んだのにぜーんぶ食われたのにゃ? にゃははっ」
エルフの森の話は興味を持ったらしい。
「にゃー……本当に存在はするにゃね。情報屋としてそれは知っておきたい情報にゃ」
「言っとくが売るなよ? この情報」
「しないにゃ。信頼を裏切るような、そういうのは扱ってないからにゃ」
そうして数多くの話をして、三杯、四杯とビールは消費されていった。
「もう帰っていいにゃよ。それにラナは酒場には、いないからにゃ」
スフィアに背中を押されて外へ。
「もしラナが会いたいって言ったら探しに行ってやるにゃ。あと、勇者はラナに手を出すことはない。これだけは絶対に保証するにゃ」
「いや、おいちょっ」
「もし、あんたと旅をしてたら、楽しそうにゃね」
「まぁ俺も……あんたは嫌いじゃない。酒癖悪いけどな」
尻尾をピンと立て、チラッチラッとイオリを窺いながら、背中を強く押して店外へ追いやる。バタンッ、と酒場の扉が閉ざされた。喧騒が残る内側で一人取り残されたスフィアは、弾むように動いていた尻尾の力をふわりと抜き、寂しげに垂れ下げた。
「……はぁ。飼い主を、間違えたにゃ」




