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三十六話 不慣れな幸せ

 エリーは力強く手を引かれ、肩を掴まれた。互いの唇が二度目のキスをしていた。エリーは瞼を大きく開いていた。溜まっていた涙が静かに頬を流れる。そして目を閉じてただ受け入れた。唯一空いた手は、イオリの胸元へと当てられた。指先に伝わる強い鼓動。


「んっ……ねっ、イオリ……ながいっ、んんっ」


 手が震えて、強くイオリのシャツを掴んだ。離れては追いかけられる。甘く幸せな時間はエリーには強すぎた。やっと離れると、甘い目でイオリを見上げた。


「イオリ……なんで」


「俺は――エリーを愛してる」


 彼女は口を開いたまま、瞬きすらできずにいた。月明かりは滴り落ちる涙を煌めかせていた。瞼を閉じると、溜まっていた涙が落ちていく。自分の頭をコツン……とイオリの肩に乗せた。彼のシャツを握っていた手はゆっくりと落ちていき、自分の手を握っているイオリの手に乗せた。


「私も――愛してる。大好きだよ、イオリ」


 今度は自分から顔を上げてキスをした。互いに溜まっていた愛が溢れ続けていた。全部、全部口にした。ずっと好きだった、愛していた。キスの合間に漏れる本音はお互いを強く惹きつけた。


 ――夜もふけ、二人は宿へと帰ってきた。扉を開けるなり、イオリはエリーを壁に押し付けてキスをする。扉が静かに自重でしまっていく。


「んっ……イオリ、そんなに慌てないで、逃げないから」



 ベッドへ移動しようとした時だ。二人の足がもつれ、エリーはイオリを押し倒す形になった。彼を見下ろしながら、何度もキスをしてきた彼の瞳を見つめる。


「経験ないから……優しくね」


 愛おしそうにイオリの頬を撫でる。ゆっくりと顔を近づける。一回だけ軽いキスをする。


「今度は……事故じゃないよ? ひゃっ!」


 体を持ち上げられて、イオリの下になるエリー。押し倒されたまま、両腕を掴まれて、弱々しい表情を見せて顔をそむけた。


「~~~っ。そんな顔で見ないでよ。恥ずかしいから」


「エリー、ちゃんとこっち向いて」


「……向いたらキスするんでしょ」


「当たり前だろ?」


 赤面しながら潤む瞳でイオリの顔も見る。


「んっ……」


 また唇が触れ合う。舌が絡み合い、唾液が糸を引く。エリーは両太ももをこすり合わせて、イオリのキスにされるがままだった。彼の指先が肌を撫でる。




 ――数時間後、エリーは一糸まとわぬ姿でシーツを胸元まで上げていた。


「しちゃった……」


 ボソッと呟く。イオリはシャワーを浴びていた。ずっとこうしたかった。結ばれたかった。でも顔が赤くなる。声は我慢できなかったし、床もすごいことになってるし、みっともない姿もたくさん見せて……


「うぅ……恥ずかしい」


 でも、幸せだった。壊れたイオリがおはようと言ってくれた時と同じくらい、幸せだった。ガチャッとシャワー室の扉が開く音。


「エリー、大丈夫か? 痛かった?」


「ううん。気持ちよかったよ。ちゃんと優しくしてくれたし」


 そう言った後に顔を赤らめてシーツに顔を隠した。エリーは話を無理やり変えた。まるで自分から遠ざけるように。


「ご飯食べてきなよ。夜ご飯ちゃんと食べてないし。近くに酒場あったでしょ。飲みすぎないでね?」


「いや、いいよ。エリーの隣にいる」


 キュンッと胸がときめくエリー。


「バカ……そういうとこ、好きだけどいいの。気にしないで、むしろ今は一人になりたいの。お願い」


「そうか? 分かった。エリーがそう言うのならそうする」


 イオリは近づいてエリーのおでこにキスをする。エリーはキスされた場所を押さえるように手を被せる。


「い……いってらっしゃい」


「あぁ。行ってきます」


「私も後から行くね。二時間して来なかったら寝ちゃったと思って帰ってきて」


「分かった」



 イオリは衣服を身につけると、宿から歩いて出ていった。一人になったエリーはやっと我慢していた涙を流した。声を上げて泣いてしまった。こんなに幸せでいいのか。こんなにうれしくて良いのか。


 ずっと、不幸だった。知らなかった。名前の知らない両親。同じ一人になったラナにイオリというパートナーが現れた。しかも自分もそんな彼に惹かれてしまった。ずっとずっと一人だと思っていた。イオリはずっとラナを見ていると思った。


 幸せが怖い。慣れない今がいつか壊れてしまいそうで。それくらい嬉しかった。


「ありがとイオリ……好き、大好き、すごく好き、愛してる……怖いけど、イオリがいるから、きっと大丈夫だよ」



 ――一人になったイオリは夜の街を歩いていた。エリーの言っていた酒場へと歩いていく。ギュッと胸を押さえる。イオリもまた、怖かった。幸せという時間が、誰からも見られなかった自分があんなにも求められている。ただでさえ、イオリは一度ラナに捨てられている。


「大丈夫。俺にはエリーがいる。怖がるな」


 胸を拳で強く叩いてまた歩き出す。カランカラン……と酒場のドアベルが鳴り響く。中は意外と騒がしい。店員に後からもう一人来ることを伝えて、席に座る。手前は小さなテーブルが並び、奥には大きなテーブルがいくつか置かれている。


 その一部は何か立てかけられた壁で見えなくなっていた。イオリは届いたビールとツマミを口にする。他のテーブル席からこんな噂が流れる。


「なぁ、知ってるか。魔王幹部が一人倒されたってよ」


「マジかよ! ついに勇者がやったのか」


「いや、それが勇者じゃねぇらしい。ただの冒険者だって噂だ。珍しい黒髪に細身の剣を持ってるやつと、金髪のヒーラーが倒したって」


「二人かよ?! ありえねーだろ! しかも勇者じゃねぇのに」


「けど事実だってよ」


「すげーなそいつ……勇者も黙ってないだろ。噂じゃ、自分の功績にかなり執着してるって噂だからな」


 イオリは視線を感じてローブのフードを深く被った。ため息をついた。


「噂になってるのか。有名になるのは嬉しいけど、プライベートってのが少し息苦しくなるな」


 奥のテーブル席で怒鳴り声が聞こえる。


「にゃあ!! だからなーんで私の言う事聞かないにゃ?! この――クソ勇者!!」

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