三十一話 黒い化物
エルフのジャーマンから預かった地図を頼りに、イオリとエリーは道なき道を進んでいく。踏み跡のない獣道をかき分け、エリーが眉間に皺を寄せた。
「んー、こっちの道であってるはずなんだけど……」
心許ない指先が、羊皮紙の縁を不安げになぞる。さらに道なき山を登っていく。時折エリーが振り返ると、二人分の食料を背負ったイオリが、肩に食い込む革紐の重みに耐えながら足を引きずるように歩いていた。
イオリは息を切らしながらも、エリーに気取られぬよう肩の痛みに耐える。
それから数時間後、人が踏み固めたであろう道をやっと発見する。エリーはエルフの地図をしまい、元々持っていたものへと持ち替えた。足裏に伝わる固い土の感触に、小さく安堵の吐息を漏らす。
「やっと出てきたぁ……ずっと不安だったんだよねー……道って感じじゃないから本当に合っているとこを進んでるのかなぁーって」
「仕方ねーよ。エルフのジャーマンの話だと、人に発見されないようにいろいろ工夫してるらしいし。あっ、そういやエリー。元々目標だった王国のセトライアを目指すって感じで合ってるのか?」
「そうねー。結構元々の経路とはズレちゃったけど行く宛もないしセトライアを目指しましょ。道中いくつか村があるみたい。宿があるかは分かんないけど、最初の村はちょっと大きめみたいだし、いろいろ買い込めるかも」
二人が二日ほど旅を進めた頃だった。そろそろ休憩しようかと、二人は重い荷物を地面に放り出した。肩に食い込んでいた革紐から解放され、イオリは大きく息を吐き出す。エルフの森でもらった硬いパンや干し肉がまだ残っている。
エリーが焚き火をしながら、スープにパンや干し肉を沈めていくと、肉の脂身がスープへと移り、美味しそうな香りが漂う。硬かった食材は柔らかさを取り戻し、旨味が溶け込んだスープに浸されていく。
「んー、いい匂いだなぁ」
「そう? 昨日も食べたじゃん」
「うまいもんは”昨日食っても今日食っても”うまいまんまだからな。むしろ記憶がある分食欲をそそる」
「お世辞? 仕方ないわね。お肉多めにしてあげるわ」
イオリは嬉しそうに器を受け取った。温かいスープが胃に染み渡る。その安らぎを破るように、乾いた枯れ葉を踏みしめる音が響き、二人の手が止まった。だが、緊張感は走らない。警戒を解いたまま顔を上げると、浮かない顔をした一家族がこちらに歩いてきた。
「あぁ、旅の人。こんにちは」
イオリはごくりと口の中に入っていた肉を飲み込むと挨拶を返した。
「こんにちは。随分と大荷物ですね。引っ越しですか?」
「あぁ……そうだね。逃げてきたんだよ」
老人は今来た道を振り返り、もの悲しげに故郷を見つめていた。
「逃げてきた?」
イオリの問いに、老人は静かに頷いて警告する。
「あんたたちもこの先に進むんならやめておいたほうがいい」
「詳しく聞かせてもらっても?」
一家は荷物を下ろす。残ったスープをエリーが分け与えた。
「ごめんね。残り少なくて……よかったら食べて。あったまるよ」
「ありがとうね。実は、村が魔物に襲われたんだ。ただの魔物じゃない。下半身はどろっとした液体みたいで、上半身は屈強な牛の頭を持つ化物だ。あんな化物は見たことも聞いたこともない」
「ギルドへの依頼は?」
イオリの問いに、老人は首を横に振る。
「無理だよ。村は骸骨の兵士に見張られていて、近づくことすらできない。化物も一度に全員を食うわけじゃない。一日数人を嬲るように食べるんだ。……いつ殺されるか分からない恐怖に、耐えかねて逃げ出したのは我々家族だけだった」
「つまり、ギルドに依頼したくてもギルドに伝える手段がなかった。そういうことですね?」
「ええ。我々にはどうしようも……」
「分かりました。俺達が倒します」
イオリの言葉に迷いはなかった。腰の剣の柄を強く握り直すと、その瞳には強い光が宿る。圧倒的な自信を前に、老人は息を呑んで立ち尽くした。
「だめだっ! あれは普通じゃない! 普通の依頼と同じような気持ちでいたら返り討ちに遭うぞ!」
「大丈夫。俺達はいずれ魔王を倒すんで」
「魔王を……? 勇者がいるというのに? 君は何をバカな……そうか、分かった。くれぐれも死なないようにな。私たちは行くよ。ごちそうさま」
彼らはどこかへと消えていった。その背中には、若者の無謀な夢を否定も肯定もできず、ただ憐れむような冷めた空気が漂っていた。
エリーがため息をつく。
「私たちを信用してないって感じね。まぁ分かるけど。勇者ならまだしも一介の冒険者じゃ頼りない。そんな相手ってことね。こういう時こそ勇者の出番って感じがするんだけど。何をしてるんだろ。わるーい噂しか流れてこないし」
イオリは空になった器を見つめる。
「そうだな。所詮は無名ってことだろ。魔王幹部を倒してすらいないただの無名冒険者。けど今の俺達と勇者ってどっちが強いんだろうな。それに勇者が何をしているのかも知りたい。あとは……ラナさんが夢をちゃんと叶えられているのかも」
最後のセリフに、エリーは心臓を鋭い針で突かれたような痛みを覚えた。呼吸が浅くなる。冷え切った指先を隠すように胸元のシャツを強く握りしめ、喉の奥で詰まった息をわざとらしく吐き出す。
「そうね……正直言えば私も心配だわ。結構気が弱いから。思い詰めてなきゃいいけど。まあ、無事に会えたらたっぷり文句を言ってやるんだから!」
心配なのは本心だ。けれど、イオリの瞳に宿る色がラナへの想いだと気づくたび、胸の奥が冷たく疼く。エリーが必死に隠しているこの感情に、彼は微塵も気づいていない。
「あはは……まぁ穏便だと助かるけど。むしろ俺は……勇者に会った時に冷静でいられる気がしない」
「言ってたもんね。勇者にボコボコにされたって。いろいろ言われたんでしょ?」
「あぁ。結構根に持っているからな。こっちもボコボコにしなきゃ気が済まん」
「それって女神黙ってるの?」
「なんも出来ないだろ。リリスのあの言い分じゃ、上位存在的なのは大義名分がないと干渉できないってのがルールっぽいしな。まぁリリスが上位存在なのかどうかはわかんないけどさ……」
「威厳とかないしねー……」
呆れながら二人は荷物をまとめた。
「じゃあイオリ! 目標を一つ追加! 勇者が助けない村を救いに行くぞー! おー!」
「ははっ、テンション高いなぁー。でも、おー!!」
――二日後。重い荷物が軋み、中身がぶつかり合う音がする。枯れ木に囲まれた村が見えると、二人は茂みから様子を窺う。見える限り、誰も外には出ていないようだ。
「イオリ……間に合わなかったのかな」
「いや、それなら骸骨兵がうろついているのはおかしい。それに、一番奥で眠そうにしているのが例の”化物”ってやつだろ?」
「急ぐ?」
「正直、日が沈みそうなのがな……夜に魔物とは出来るだけ戦いたくないんだけど」
――黒い化物が動き出した。音もなく、まるで夜の影が地面を這うように滑り寄る。異様な速度で肉薄したかと思えば、次の瞬間、狙い澄ましたかのように家屋の天井を粉砕した。土煙が舞い、衝撃音が鼓膜を叩く。
「イオリ!!」
状況を把握する間もない。イオリはエリーの肩を強く引き寄せると、「いくぞ、しっかり掴まってろ!」と叫んだ。




