二十八話 特訓
――翌朝、イオリはとてつもない柔らかさに包まれて目を覚ます。右側ではエリーがイオリの腕を大事そうに抱きしめていた。滑らかな肌触りがイオリを襲っていた。腕を太ももで挟みながらぎゅっと抱きしめている。
さらに真上を見上げれば、そこはリリスの胸で視界不良。文字通りの圧倒的な質量が、イオリの顔面を優しく包み込んでいた。右腕はエリーの滑らかな太ももにしがみつかれ、左腕はミーニャに抱きつかれ、顔面は魔女の爆乳――ボンッ! と心臓がエンジン音のように爆速で鳴り始める。それに気づいたリリスが目を覚ます。
「おーおー。しっかり反応しとるではないか。あまり妾を挑発するな。妾はなにも着とらんからのぉ……間違えてしまうかもしれんぞ? 例えば、このお主の硬い拠り所が、妾のどこに収まってしまうか……試してみるかのぅ?」
耳元でそんな甘い吐息を吹きかけられ、イオリの理性は完全に消し飛んだ。
限界を迎えた彼は、悲鳴にすらならない声を漏らしながら猛烈な勢いでベッドから脱出。部屋の隅で、情けないほどに前かがみになって息を荒くした。その勢いでエリーとミーニャも目を覚ました。
「なぁに? 朝から騒がしいわね……」
「んー……おはよぉ」
リリスはゲラゲラと笑う。
「ギャハハッ、ただの健全な朝じゃよ。男の子は大変じゃのお」
イオリはバクバクとうるさい胸を手で押さえながら、必死に前かがみの姿勢を維持する。
「あっ、あのなぁ……あんまからかうなよ」
「喜んでおったくせにぃ。両手に花どころか正面にも花。よいではないかー?」
「くっ……」
――からかいは朝食の時間も続いた。そのたびにイオリはそれを思い出し、少し腰を引いた。なんとか誤魔化し続け、ごちそうさまとみんなが手を合わせたあと、ミーニャは狩りへ。リリスの底なしの大食いっぷりのこともあり、人手が足りないから駆り出されたのだ。
リリスは開けた場所へと二人を誘導する。そこはジャーマンに自由に使っていいと言われた森に囲まれた草原だった。
「さて……礼はまだ続いておる。お主らの面倒を見きるまで妾はここに残る。それぞれ妾が弟子にしてやるかの。じゃがちーと厳しいのでな。覚悟するんじゃぞ?」
リリスは虚を突く形でイオリの足を軽く蹴り、膝をつかせる。あまりにも自然に力が抜けてイオリは簡単に地面に跪いた。
「うおっ!」
「まぁ、最初はその魔力のコントロールからじゃ。異世界人のお主にちゃんと説明をしてやろう。
この世界におるものは皆、魔力を知っておる。あって当たり前としておる。つまり、自分の手足となんら変わらん。じゃがお主は違う。新しい感覚、体を流れる魔力を知る。そこからじゃ。何かを感じるまで二度と立つな」
「二度と?!」
「一日でそれくらい行けるじゃろ。妾が女神なら即座に体を作り変えてやれるが……そういうわけにもいかんしな」
次にリリスはエリーの手を握って、少し離れた森の大木の下へと誘導した。
「お主はその木に背中をつけて座れ。やることはイオリの逆じゃ。お主は生命を感じ取れ。魔力以外のものを手に掴め」
「ちょっと待って、普通に意味がわからないんだけど。魔力を感じ取るなってこと? そんなこといきなりやれって言われても……」
「ふむ……それもそうか。実はお主のその花の魔法。おそらく現代で使えるのはお主だけじゃ。本当に天性じゃの。
元々は、遥か古の時代にエルフの祖先が使っていた失われた魔法じゃ。その昔、この魔法を操るエルフの一族が、世界で最も恐れられた時期があってな。あまりの危険性ゆえに、他の種族によって大多数が滅ぼされた。結果、生き残ったエルフ達は今のように森の奥で細々と暮らしておるわけじゃ」
「私の耳が尖ってるのと関係ある?」
「薄まったエルフの血筋の遺伝じゃろうな。じゃが、なぜこれほど薄い血でありながら、その危険な『花の魔法』を発現させたのかまでは妾にも分からん。これは努力して覚えられる代物ではないからのぅ」
エリーは自身の細い指先を見つめた。
「……そっか。私はずっと、前線で戦う剣士になりたかった。でも、生まれた時からこれだったんだ。最初から、私にその道は用意されていなかったんだね。イオリと出会う前の私なら、悔しくて絶対に受け入れられなかっただろうなぁ……」
リリスは顎に手を当てながら、一部を否定する。
「んー、ヒーラーとはまた違うかもしれんの。副次効果じゃし。ある程度説明はしておく。この魔法は――」
リリスがこの魔法の真髄を口にした。その説明を聞き始めたエリーがぽかんと口を開ける。理解できないと言った様子でありながらも真剣に耳を傾けていた。説明が終わると、彼女は静かに頷くと「信じるよ」そう言いながら大木に背中を預けて目を閉じた。
リリスはエリーが集中し始めたのを感じ取ると、邪魔をしないように背を向けた。
「さて、妾はイオリの手伝いと行くかの」
リリスがそばに近寄り、イオリの状態を観察する。彼は薄目を開いて、何かを頑張って感じ取ろうとしている。手探りで必死な様子はどこかリリスの心を打つ。
「よいしょっと」
リリスは座っているイオリの対面に抱っこされるように座った。
「……修行は?!」
「黙れ。集中せい」
「いやいや、どう考えたって」
「吐いてしまうぞ?」
「……」
真剣な声にイオリは、心を引き締めて目を閉じた。これはリリスが何かをする合図、そう感じ取ったからだ。リリスがイオリを優しく抱きしめた次の瞬間、ドッ……! 大量の魔力がイオリを循環し、リリスへと流れるを繰り返す。
あの静かな世界が、再び訪れる。自分の体の感覚が消える。けれど何か余計なものが……消えずに蠢いていた。雑に体を這い回る何か。
「くくっ、早いではないか。その調子じゃ」
魔力の流れを知覚し、自身の蠢く何かを魔力と認識し始める。それはリリスによって循環させられていたが、イオリもそれを自ら循環させられるようになっていく。リリスの存在を忘れるほどに世界は何もないものへと変化していく。
「ん……そうじゃ。妾は循環するのをやめる。ただお主に流し込むだけじゃ。お主は自分で流してコントロールするようにしてみい」
大量のリリスの魔力が行き場を失い、イオリの体に溜まっていく。気持ち悪さがこみ上げてくるイオリ。流せ、流せと体が命令をかける。しかしどこか詰まったようにそれは流れずに溜まっていく。
クラッ……としながらも、ある瞬間――まるでバケツをひっくり返したかのように溜まった魔力が一気にリリスに流れた。
「バッ……! お主、もっとゆっくり――ッ!?」
ガッ!! と、リリスは悲鳴混じりにイオリのシャツを掴んだ。
「はっ……あっ……くぅ……! とめい!! とめっ……」
カタカタとリリスの全身が激しく震えだす。強烈な冷や汗が流れ、カチカチと歯と歯が鳴る。制御不能なイオリの濁流のような魔力がリリスの体内を蹂躙し、彼女の抱きしめる力は骨が折れそうなほどに強くなった。
涙目になりながら、襲いかかる圧倒的物量を持つ魔力に翻弄される。
――一瞬、リリスは激しく抱きしめた。ピクピクと震えながらだらしなく垂らした舌からは唾液が滴る。瞼は限界まで開き、チカチカと視界が白くちらつく。
「はっ、は……」
そんなリリスのただならぬ異変に、イオリは全く気づいていない。耳元で鳴り響く魔女の艶めかしい悲鳴すら耳に入らないほど、彼は完全に己の魔力回路を巡るトルフ状態へと没頭し、純粋に感覚を研ぎ澄ませていた。
リリスは無理やり魔力を奪われ、流し込まれたことで限界を感じていた。必死にイオリの肩を叩いて止めようとする。
「もうよいっ! イオリ! まっ――ん~~~ッ!」
イオリの背中を血が出るほど掴む。歯を食いしばり、唾液が垂れる。再び体が強張り始める。
――気がつけば日が落ちていた。イオリの集中力が切れる。
「……リリス?!」
「かっ……ハッ……死ぬっ、原初の魔女の寿命は……ここかもしれぬ」
魔力の暴走が止まると同時に、イオリにすがりついていたリリスは、糸が切れた人形のように仰向けにひっくり返った。ピクッ、ピクピクッと不随意に四肢を跳ねさせ、白目を剥きながら腰をのけぞらせている。
ふと見れば、リリスが倒れている周囲の地面が、あり得ないほどにぐっしょりと水浸しになっていた。
「うおっ! なんじゃこりゃ!」
「ぜん、ぶ……妾の体内から、搾り取られて溢れたものじゃ……。お主……容赦がなさすぎるのぉ……。完全に、妾の負けじゃ……っ」
リリスは生まれたての小鹿のように四つん這いになり、何度も腰をガタガタと震わせながら、荒い呼吸で精神を落ち着かせようと必死になっていた。
「はぁ……はぁ……ヒドイ目にあった……良い体験ではあったが」
そう言って虚空を睨む魔女の横で、イオリは「??」と首を傾げながら、自分の両手を不思議そうに見つめるばかりだった。




