二話 幸せ
ぐるりと視界が反転し、青空の代わりに猛スピードで迫る地面が視界に飛び込んでくる――だが、次の瞬間、イオリの瞳が輝いた。
「おぉ! 下は湖じゃん。さすが女神ちゃんと考えて……」
佐藤は口を閉じた。この高さの場合、下が水だろうと衝撃で死ぬ。必死に周囲を見渡してどこかに移動できないかと藻掻く。けれど空中の経験などない彼にとって移動方法なんて、見つけられるはずもなかった。
「だぁぁぁあ! 死ぬっ! 死ぬ死ぬ! なんで一日で二度も死ななきゃならねーんだぁぁあ!!」
死を覚悟し、体を固くして両目をぎゅっと瞑る――しかし、待てども強い衝撃音は響かなかった。代わりに感じたのは、ふわりと宙に浮く奇妙な浮遊感。恐る恐る瞼を開けると……湖に落ちることなく空中に漂っていた。
「え……まさか女神が俺を助けようと?」
「あの、女神様って言われるとうれしいけど……ただの人間だよ?」
佐藤は背後から聞こえた声の主に視線を向けた。湖のほとりで杖を向ける一人の聖女のような魔法使い。銀色の髪は太陽の光をキラキラと反射している。
彼女はにこっと照れ隠しをするように笑った。その笑顔を見た佐藤はキュッと胸が痛くなる。
「か……かわいい」
ボソッと呟いた声は彼女には届かなかった。
佐藤の周囲を漂う魔法の風が、クッションのように彼を包み込み、そのまま湖のほとりへと運んでいく。ゆっくりと高度が下がり、佐藤は尻もちをつくようにして優しく着地した。ぽけーっと助けてくれた女性を見る。彼女は顔を赤らめながら視線を外した。
「えっと、その……そんなに見られると恥ずかしいな」
佐藤はハッとすると、即座に正座へと姿勢を正し、頭を地面に擦り付けた。
「ありがとうございます。ありがとうございますありがとうございます!!」
人にここまで感謝したのはいつぶりだろう。おでこに土がこびりついても一切気にしない。
「あの……いえ、頭を上げてください……あと、ここは動物たちが水を飲んだりする場所でもあるので、そのあたりその……おしっことか」
めっちゃ気にした。
佐藤は即座に立ち上がり袖で額をゴシゴシとこすった。
「俺おしっこ臭い? ねぇ臭い?」
「ふふっ。あははっあははははっ」
彼女はお腹を抑えて笑った。そうやって笑う姿が、佐藤の胸をじんわりと温かくする。彼は少し照れるように頭の後ろをかきながら、改めてお礼を言った。
「本当にありがとう。死にかけてたから。ほんとうに……」
「ううん。いいよ。突然空から降ってきたから驚いちゃった。大丈夫?」
「……こっちが本当の女神だ……アレとは全く違う……!」
悲しみの涙を流しながら、佐藤は拳を強く握った。彼女は「女神様じゃないけど……」と言いながら自己紹介をする。
「私はラナ。近くの街に暮らしてて魔法使いをしてるの。あなたは?」
「えっと……俺は佐藤伊織」
「サトウ・イオリ? 不思議な名前ね。サトウが名前なの?」
「あっ、そっかこっちの文化は逆なのか。イオリ・サトウだよ」
「イオリさんね! よろしくです!」
「よっよろしく……」
イオリは天を仰いだ。女神がいると思うと、仰ぎたくなど無いが。
「下の名前で呼ばれたのなんていつぶりだろうか……前の世界じゃ、俺を苗字か、あだ名のモブでしか呼ばないからなぁ」
ラナがはてなマークを浮かべて首を傾げていた。
――二人は会話をしながら街へと向かって歩きはじめていた。
「じゃあ、イオリは転移者なの?」
「意外とすんなり受け入れるんだね」
「珍しいけどたまに来ますからね。今は魔王が現れたからちょうど勇者の時期だし。あっ! もしかして勇者ってイオリ……?!」
「……いや、その線は薄いよ……期待しないで」
女神のあの、余計なのが混ざったという言葉が頭の中でこだまする。
「えっ、あ……ごめんなさい。勝手に期待してしまって……迷惑でした?」
イオリは首を横に振る。
「全く気にしてないよ。女神曰く、なーんか間違えて連れてこられたらしくてさー。だから勇者とかじゃないよ。むしろこっちがごめんねー。期待させてあげられなくてさ」
「ううんっ! 私の方こそごめんね。がっかりしたとかないから安心してくださいねっ」
イオリは天を睨みながら仰いだ。おいクソ女神。見習えこの聖女っぷりを。
――歩みを進めると、道が整備されはじめる。だんだんと人の暮らす音が森の木の葉が揺れる音に混ざり始めた。ラナは一歩前に出て片腕を広げた。
「ようこそ。ここが私の住む小さな町。エルドです」
「ここが……異世界の町……なんか、ちらほらケモミミ生えてるのもいるし、石レンガにファンタジーゲームとかでよく見る建物……おぉ本物だ。けどそれ以上に……」
だらーっと鼻の下が伸びる。
「美女だらけだぁ」
「うーん、ちょっとこの人変かも?」
さすがのラナも引き気味に一歩下がった。なんなら、もう三歩ほど引きたかったのを必死に踏みとどまっているように見える。
――ラナは彼を自分の家へと案内した。温かい色を中心とした木造建築。少し小さい家で、リビングと部屋が二つ。そのうちの一つは寝室で二つのベッドが置かれていた。
「ここが私の家です。おじいちゃんの家なんですけど、もう亡くなっているので今は一人暮らしです。今日は……このままここで過ごしてください」
「え、いいのか?」
彼女は満面の笑みで答えた。
「もちろんですっ!」
「女性と二人きり……か」
ポッと頬が染まるラナ。
「え、えっちなのはダメですよ?」
「しませんしません!!」
「良かったぁー。ふふっ。本当に愉快な人ですね」
「そうかな……いや、なんというか、今日会ったばかりだし、警戒するんじゃって思ったから」
「大丈夫です。話してていい人だってすぐに分かりましたから! 夕飯の買い物に行ってきますね」
パタンッと扉が閉められる。イオリはリビングのイスに腰掛けた。高鳴る胸を押さえつける。
「……こんなに幸せだって感じたの初めてだ。ある意味女神に感謝だな。今は俺、死にたくないって思ってる」
泣きそうになるのを堪えて決心する。
「よし、働く。この世界に順応して見せる! ラナさんに頼り切りじゃダメだ。明日朝イチでいろんなとこ行って仕事を探してやらァ!!」
――次の日。ウェイター姿のイオリは、店主にこう告げられる。
「――君、クビ」




