十三話 一年という月日
食べ終わった二人は、食器を洗い終わると、お茶を飲んで一息ついた。少しするとエリーが一冊のノートを持ってくる。それを開いて一つの文字を指さす。落ちてくる髪の毛をもう片方の手で耳にかける。
柔らかな石鹸の香りがイオリの鼻をくすぐった。
「はい、イオリ。この字は?」
「えっと……た」
「正解。こっちは?」
夕日は完全に沈み、魔力の練り込まれたろうそくが部屋を照らしていた。一時間ほど勉強すると、目をこすりながら伸びをするイオリ。
「んーっ……疲れた」
「そうね。今日はこのあたりにしよっか。だいぶ覚えてきたじゃない」
「エリーのおかげでな」
「あんたの頑張りの成果よ」
エリーはイオリの頭を優しく撫でた。イオリは慣れた様子で頭をあずけた。
「ほら、もうお風呂入って寝るわよ」
それぞれお風呂に入って髪を乾かした後。同じベッドで眠る。二人には距離があった。一人分ほどの隙間。互いに背中を向ける。
「エリー。頼むからもう布団持ってくなよ?」
「寝てる時を制御なんて出来るわけないでしょ。あんたこそ必死にしがみついていればいいじゃない」
「なんで俺が責められる側?」
「ふふっ。まぁ……気づいたらそうしてあげるわよ」
二人はそっと目を閉じた。時刻は過ぎていき、深夜帯になる。エリーが朧げな表情で目を覚ます。
「……本当に私が全部持っていってるじゃない。布団もう一つ買おうかな……ううん、このままでいっか」
新しく布団を買おうという思い付きをすぐに引っ込めると、エリーはイオリの身体にそっと布団を掛け直してあげた。小さな声で「ささやかなわがまま、なんてね」クスッと微笑む。
「ほんと……元気になってよかった。私もね、ずっとこうしたかった。ラナとあんたが……羨ましかった。私はずっと一人ぼっち。パパとママは……私を捨ててどっか行っちゃったからさ。昔の英雄の物語にね。剣士が魔王を討伐して、みんながその剣士を勇者と呼んだ。それを見て……いいなって……」
そっと窓の外の月を見上げた。月明かりはエリーだけを照らしていた。
「バカみたいでしょ。寂しかったんだよ。きっと。本当は満たされてる。でも、夢はまだ持ってる。欲深いよね。人間って。あんたがその剣士みたいになったら。かっこいいなって。一人で何言ってんだろ私。おやすみ、私の英雄さん」
エリーはそっと近づいて、頭にキスをした。
――翌朝。
「~~~ッ!!!!」
イオリが寝ぼけてエリーを抱きしめていた。パクパクと口を開けるエリー。そしてバカみたいに大きい自分の心臓の音を抑えようと必死になった。
――イオリに聞こえちゃうじゃない……!
もがいた拍子に、エリーの胸にイオリの顔が収まっていた。
――イオリの息が……くすぐったいというより……もうっ。
イオリがもじっ……と動き、エリーを抱きしめる。彼女はバッと口を抑える。もう少し、ほんのもう少しだけこのままでいたい。けれど、エリーの心臓はすでに破裂しそうなほどの爆音を立てていた。
その時、密着した彼女の太ももに、ゴツリと熱く硬い『何か』が押し当てられる。
「――っ!?!?」
それが何を意味するのか、野生的な本能で察した瞬間、エリーの羞恥心は限界を超えて爆発した。
――バコォンッ!! と、容赦のない前蹴りがイオリの腹に突き刺さる。
「グオハアッ!! ――んぁっ?!?! あっ……?」
寝ぼけながら床に座って周囲を確認している。目の前には息を荒げて顔を真赤にしたエリー。
「はぁ……はぁ……死ねっ!!」
「朝から死の宣告?!」
「うっさい変態、バカッ!」
「まっ……! 意味がわからな――」
バフッ! と枕が顔面を直撃するイオリ。何か言い返そうとその枕を取った瞬間、もう一つの枕が直撃する。
「こっち見んな!! ばーかっ!!」
ぷいっと顔を背ける。慌てるようにトイレへと直行した。それから十分ほどが経過する。
「なぁー……いつまで怒ってんだよー」
「うっ……うるさい。トイレくらい静かにさせてよ」
中からエリーの怒声が返ってくる。蹴り飛ばされた衝撃で自分も猛烈にトイレに行きたくなっていたイオリは、占拠された扉を恨めしそうに見つめた。
――トイレ行きてえ……と、下腹部をさすりながら、仕方なくキッチンに立って生卵の殻を割り始めた。
その間、エリーは個室の壁に背中を預け、まだ熱を持ったままの荒い息を必死に整えていた。狭い空間に、自分の身体から立ち上る甘い熱気が満ちていく。
「はぁっ……はっ……もう。バカは私よ……」
湿った指先を見つめる。エリーは深く俯いてため息をつくと、下唇を強く噛み締め、やり場のない情動を心の中に無理やり閉じ込めた。
「ほんとバカみたい……」
――それから数ヶ月。弱々しかったイオリの体も筋肉がつき、剣技はあの時の鋭さを取り戻していた。エリーもまた、長期間イオリを治し続け、回復に対する許容範囲、及び持続時間は格段に上がっていた。二人は顔を見合わせる。
「もういいかしらね」
「そうだな。早くしないと勇者パーティーに魔王を倒されちまう。ラナさんを奪い返さなきゃな」
エリーの目が少しさみしそうに曇る。そう言ったイオリの目が、どこかラナを見ているような気がしたから。それでもこれでいい。エリーはイオリにそうあってほしいと思ったのだから。
――だからこの胸の痛みには目を背けた。
――その後、二人は最後にギルドハウスの酒場へとやってきた。あのガタイのいい冒険者がイオリの隣に座る。
「冒険に出るんだって?」
「あぁ。いろいろ世話になったな」
「ゴブリン以外倒せんのか?」
「おうよ。魔王の首を掻っ切って来るぜ」
彼がイオリを茶化すことはなかった。代わりにイオリの頭をガシガシと撫で回す。
「ラナの嬢ちゃんが居なくなった時は心配したが……エリーに気に入られるとはな。昔っから気難しいやつだが、面倒見のいいやつだ。大事にしろよ」
「? あぁ。大事にしてるよ」
イオリが言葉の真意を全く理解していない様子なのを見て、彼は心底呆れたように頭を抱えた。
「かっ……モテ男はこれだから」
「は?」
さらにくしゃくしゃと髪をかき乱し、イオリが「ぬおーっ」とクラクラ目を回す。
「いいか? 魔王倒す前に魔王幹部三人の首は取れよ。なにも魔王だけが脅威じゃねぇんだ。俺ぁ勇者じゃなくお前に期待する。世界が勇者を崇めようが知ったこっちゃねぇ。がんばれよ」
イオリは静かに口角を上げた。
「……ありがとな。勇気もらった」
「いいってことよ! ほら飲め! 俺が今日は全部奢ってやる!!」
「よっしゃ! 飲むぜぇ!!」
見慣れた光景。みんながビールの入った木製ジョッキを高々に上げた。彼はイオリに向かって叫ぶように言った。
「そのいきだ!! かんぱぁーい!」
――数時間後。エリーに背中を擦られ、道端にゲロを吐いていた。
「あんたバカじゃないの? 飲みすぎで旅の前日にダウンしてんじゃないわよ」
「おえっ……いや、気分が乗って……」
「はぁ……もう先が思いやられるわよ……明日から魔王城と魔王幹部の情報を探しながら旅をするんだから。気を引き締めなさいよ?」
「はい……おっぷ」
「もう……よしよし」
優しく背中をさするエリーは、先が思いやられるのだった。




