第8話 狩人への依頼(前編)
新鮮な肝は、すでに毛皮で包まれていた。口を革紐で縛り、ロッカの狩猟袋の下へ括りつけてある。
昼前に仕留めた牡鹿から取ったものだ。残りの死体は、少し離れた木の枝へ吊るしてきた。戻るまでに、狐や小型の魔獣へ食い荒らされない高さだ。
あとは、アカヤナギ茸だけ。
治療役から頼まれたのは、その二つだった。新鮮な肝なら、食欲を失ったブランカも口にするかもしれない。アカヤナギ茸を潰して傷口へ塗れば、前脚の傷も早く塞がる。
本来なら。
休むべきなのは、ブランカだけではなかった。
ロッカの胸当ての隙間からは、今も新しい包帯が見えている。襲撃で負った傷のせいか、片方の肩もわずかに動きが鈍い。
だが。
ロッカは自分の傷より、ブランカの回復を気にしていた。重い斧を背負い、ルークの後ろを歩いている。
ブロッグも一緒だった。
集落を出るとき。誰にも呼ばれていないのに、槍と空の狩猟袋を持って門の前へ現れた。
ルークは、ついてくる必要はないと言った。ブロッグは必要があると言い張った。ロッカは、どちらでもいいと言った。
ブロッグにとっては。それで十分、同行を許されたことになったらしい。
「あと、どれくらいだ?」
ロッカが尋ねた。声を向けた相手はルークだ。
「もう少しだ」
ルークは前方の木々を見ながら答える。
「ゴブリンを見かけるようになれば、近い」
後ろから、ブロッグが鼻を鳴らした。
「太陽がまだ後ろにあったころにも、同じことを言ってた」
今では太陽は、ほとんど頭上にある。
「言ったのは、日が高くなる前にゴブリンの獣道へ入るということだ」
「同じだろ」
「ゴブリンの獣道と、ゴブリンそのものを同じだと思うならな」
ブロッグの足が止まった。
「そんなこと思ってない!」
声が大きくなる。
「ルーク、馬鹿にしてるのか?」
「していない」
「今のはしてた」
ロッカが二人の間へ割り込んだ。肩でブロッグを押しのける。
「二人とも黙れ」
ブロッグが道の端へよろめいた。
ロッカはルークを見る。
「歩け、狩人」
ルークは何も言わず、先へ進んだ。
道は、少しずつ下っていた。太い松が減り。代わりに、細い木が増えていく。
地面から露出した根を、濃い苔が覆っていた。落ち葉の下には、細い水の流れがいくつもできている。
アカヤナギは、湿った土地を好む。
ゴブリンも同じだ。
最初の罠は、獣道の脇にあった。曲げた若木へ、撚った紐の輪を結びつけただけの簡単な罠。
結び目には、兎の毛が少し残っている。だが、獲物はなかった。
ルークは罠を踏まないよう、横を通り過ぎる。
少し進むと。道を横切るように、二つ目の輪があった。
ブロッグが槍の先で持ち上げる。
「ゴブリンの罠だ」
「そうだ」
ブロッグは紐を切らず。元と同じ位置へ、静かに戻した。
次の罠には。まだ獲物がかかっていた。
森鳥が一羽。枝から逆さに吊られ、弱々しく羽を動かしている。
その下には、三人のゴブリン。
最も大きなゴブリンは、短い弓を持っていた。一人は、仕留めた兎を二羽、背中へ括りつけている。
最も小さな一人が。枝へ手を伸ばし、鳥を罠から外そうとしていた。
三人は、オークたちを見るなり動きを止めた。小さなゴブリンの手が枝から離れる。
罠にかかった鳥だけが。両者の間で、ゆっくりと揺れた。
ブロッグが槍を握り直す。
最も大きなゴブリンの弓が、わずかに上がった。
だが。すぐに止まる。
ゴブリンは、ロッカの背中にある斧を見た。次に、ブロッグの槍。最後に、ルークを見る。
ルークは槍を肩へ預けたまま、動かさなかった。
ロッカは歩調すら落とさない。道端の罠を通り過ぎたときと同じように。三人の狩人へ、ほとんど関心を向けずに横を通る。
ルークも続いた。
少し遅れて。ブロッグも槍を下ろし、二人の後を追った。
オークたちが十分に離れてから。最も小さなゴブリンが、森鳥を乱暴に罠から外した。
三人は獲物を抱え。茂みの中へ飛び込んだ。
背後で、枝が立て続けに折れる音がする。
「逃げたな」
ブロッグが言った。
「違う」
ロッカが答える。
「知らせに行った」
ブロッグが後ろを振り返る。
「知らせる?」
「三人のオークが、縄張りへ入った」
ルークが言った。
「何もしないわけにはいかない」
レッドタスク族と、近くに住むゴブリンの集団は。同じ森の外縁で狩りをしていた。
獲物を分け合うことはない。それでも。目に見えない境界を兎や鹿が越えるたびに、血を流して争うこともしなかった。
どちらにとっても。小さな獲物一匹のために、戦士や狩人を失うのは割に合わない。
だから。互いの狩りへ、必要以上に口を出さない。
その程度の理解はあった。
だが。それが、どこまで許されるのか。ゴブリンの側も、わざわざ確かめようとはしない。
ここは、すでに彼らの縄張りだった。
「アカヤナギの群生地は近い」
ルークが言った。
ロッカが肩越しに振り返る。視線はルークへ向いている。
「案内しろ、狩人」
「わかった」
「任せろ、ロッカ」
答えたのは、ブロッグだった。
「ブロッグが先を見る」
すぐに二人を追い越し。先頭へ出る。
空の狩猟袋を揺らしながら、得意げに歩き始めた。
道を知らないはずなのだが。
ロッカの視線だけが。しばらく、ルークに残っていた。
◇◆◇◆◇◆
ゴブリンの獣道は。三人をさらに低い土地へ導いた。
木々の幹には、ところどころ色褪せた布が結ばれている。
罠があるという警告。水場への道。あるいは。ゴブリンにしか意味のわからない目印。
ブロッグは先頭を歩いていた。
だが。道が二つに分かれるたび、足を止める。そして、何も言わずにルークを見る。
ルークが顎で方向を示すと。最初から知っていたような顔で、そちらへ進んだ。
やがて。湿った樹皮の匂い。腐り始めた落ち葉の匂い。
その中に。わずかに甘い香りが混じった。
浅い流れの両側に、アカヤナギが群生している。
細い緑の葉。その下から覗く、暗い赤色の樹皮。
泥の岸から張り出した根は。半分埋もれた獣の肋骨のようだった。
ブロッグは一度立ち止まり。振り返って、ロッカへ胸を張った。
「着いた」
ロッカは何も答えなかった。
ルークは一番近い木のそばへしゃがみ込んだ。絡み合った根の下を探す。
すぐに茸の群れを見つけた。
だが。傘の縁が黒ずんでいる。親指で押すと、柔らかく沈んだ。
「古すぎる」
ブロッグが別の木の下から、大きな赤い茸を引き抜いた。
「これは赤い」
「それはアカヤナギ茸ではない」
ブロッグは茸を見る。次に。生えていた赤い幹を見る。
「アカヤナギに生えてる」
「なら食べてみろ」
ルークは別の根元を探しながら言った。
「正しいかどうかわかる」
ブロッグは、手の中の茸を見つめた。
「毒だったらどうする?」
「食べなければ、わからないだろう」
「先に治療役へ食わせればいい」
ルークは根の奥に。まだ若い茸がいくつか生えているのを見つけた。
淡い色の傘。表面は滑らか。傘の裏側には、細い赤色の筋が通っている。
一本だけ切り取り。ブロッグへ見せた。
「探しているのは、これだ」
ブロッグは、自分の赤い茸を川へ投げた。
流れに落ち。すぐに下流へ流されていく。
ロッカは、二人のやり取りを見ていた。
「遊んでいないで、ブランカに必要なものを探せ」
ルークを見る。
「狩人」
「探している」
ルークは、群生地のさらに奥へ進んだ。
三本目の木の下。二本の根が交差する場所に、新しい群れがあった。
湿った土から、六つの淡い傘が出ている。
ルークは石の小刀を抜いた。根元に刃を当て。一つずつ、丁寧に切り取る。
「引き抜くな」
別の木のそばへしゃがんでいるブロッグへ言う。
「土の下にある部分を残せ。そうすれば、また生える」
ブロッグが一度、ロッカのほうを見る。
「ブロッグは茸に詳しい」
「少し前に、毒茸を食べかけていたが」
「食べかけただけだ」
ブロッグは手元の土を払った。
「食べてはいない」
ルークは六つの茸を、採集袋へ入れた。
そのとき。木の反対側にある傷へ気づいた。
立ち上がる。幹を回り込む。
赤い樹皮が、広い範囲で剥ぎ取られていた。露出した木へ、泥と。粗い黒毛が張りついている。
四本の深い爪痕。
その傷は、ルークの頭よりも高いところから始まり。幹の下へ向かって走っていた。
足元の泥も。大きな足跡に、何度も踏み荒らされている。
ルークはしゃがみ込み。足跡の一つへ、指を二本押し込んだ。
すでに、跡の中へ水が溜まり始めている。
だが。縁はまだ崩れていない。
「新しいか?」
ロッカが尋ねる。
「今朝から昼までの間だ」
ブロッグも近づいてくる。大きな足跡を見下ろした。
「熊か?」
ルークは足跡の幅を測る。それから。自分の頭より高い位置にある爪痕を見上げた。
「アイアンハイドだ」
ブロッグも上を向く。
「大きいな」
ルークは周囲を見渡した。
川辺に。魚の頭が一つ落ちている。切られたものではない。牙で噛みちぎられていた。
肉はまだ濡れている。
少し下流には。食べ残された魚が、泥の中へいくつも散らばっていた。
まだ新しいもの。腐り始めているもの。踏み潰された古い茸。
折れた枝には、ゴブリンが結んだ布切れが残っている。
アイアンハイドは。ここを通り過ぎただけではない。
何日も。この場所で食い。眠り。ほかの獣を追い払っている。
「群生地を縄張りにしている」
ルークは言った。
ロッカが背中の斧を抜いた。柄が肩を滑り。重い刃が、湿った空気を切る。
「なら、槍をすぐ使えるようにしておけ」
「茸はもう十分ある」
ルークは採集袋を見る。
「戻るべきだ」
ロッカも、袋の中にある六つの傘を見た。
「治療役は、できるだけ多く持ち帰れと言った」
「安全に取れるだけ、という意味だ」
ルークは答える。
「ブランカの傷なら、二つでも足りる」
ブロッグが、川の先を指さした。
「あそこにもある」
根の陰に。同じ淡い傘がいくつか見えている。
「ロッカが正しい。まだ取れる」
「六つで十分だ、ブロッグ」
ルークは足跡を見下ろした。
「茸のためにアイアンハイドと戦う必要はない」
ロッカが、ゆっくりとルークへ向き直る。
「私が探せと言ったら」
低い声。
「おまえは探す」
反論を許す声音ではなかった。
「行け、狩人」
ルークは一度。短く息を吐いた。
「木の間から出るな」
ブロッグへ言う。
「根が邪魔になる場所なら、簡単には突進できない」
ブロッグが鼻を鳴らした。そして、ロッカに聞こえるよう声を張る。
「ブロッグは熊を狩ったことがある」
「なら、言った理由もわかるはずだ」
三人は、川沿いへ散った。
ルークは倒れた枝の下から、さらに二つ見つける。
川の反対側では。ブロッグが別の群れを見つけ、根元から切り始めていた。
ロッカは二人の間に立っている。斧を持ち。森の音へ耳を澄ませていた。
しばらく。聞こえるのは、水の流れる音だけだった。
葉の間を通る風。小さな虫の声。遠くの鳥。
そして。
虫の声が止んだ。
ルークは顔を上げた。
ブロッグの後ろ。背の高いシダが、すでに揺れている。
「ブロッグ」
茂みが弾けた。
枝が折れ。葉が舞う。
黒い巨体が、森の中から飛び出した。
アイアンハイドは後ろ脚で立ち上がった。
その頭が、ブロッグと同じ高さまで上がる。
さらに。その上へ伸びた。
普通の熊より、はるかに大きい。
名の通り。全身を覆う黒い毛皮は、鉄のように硬く。肩から背にかけては、古い鎧の板を重ねたように盛り上がっている。
アイアンハイドが、前脚を地面へ落とした。
泥が跳ねた。
次の瞬間。突進する。
ブロッグはすぐに振り返った。
逃げない。
両足を開く。槍の石突きを泥へ差し込み。穂先を、アイアンハイドの胸へ向けた。
突進する獣を迎えるなら。正しい構えだった。
硬い地面であれば。
槍の石突きが、柔らかな泥へ沈んだ。
「な――」
アイアンハイドの胸が、槍先へぶつかる。
止まらない。
槍の柄が折れた。
乾いた音。
半分になった柄が、ブロッグの手から飛ぶ。
次に。巨体が、そのままブロッグへ衝突した。
ブロッグの体が川岸を転がった。
アイアンハイドは浅瀬へ踏み込む。その重さで水が左右へ弾けた。
泥も。流れも。巨体を止められない。
ブロッグが起き上がろうとする。地面へ手をつく。
滑った。
片膝が、柔らかな岸へ深く沈む。
体重をかけた脚が折れ。もう一度倒れた。
アイアンハイドが向きを変える。
ここには。絡み合ったアカヤナギの根がない。
突進を遮るものも。
何もない。
ロッカの足首が、橙色に燃え上がった。
古い火傷のような痣から。光の筋が脛を駆ける。
――バロクの加護。
アイアンハイドが二度目の突進へ入る前に。ロッカは、すでに走り出していた。
一瞬で距離を詰める。
斧は振らない。
そのまま肩から。アイアンハイドの横腹へ激突した。
轟音。
巨大な獣の体が、横へ押し流される。
四本の脚が泥を掻き。深い溝を残した。
それでも止まらず。肩から川へ倒れ込む。
濁った水が高く上がった。
ロッカだけが。元の場所に立っていた。
アイアンハイドは、すぐに起き上がった。全身を震わせ。黒い毛から泥水を飛ばす。
血は出ていない。痛がる様子もない。
今の一撃を受けても。傷を負った形跡すらなかった。
獣の顔が、ロッカへ向く。長く黄ばんだ牙を剥き出しにする。
そして。
森全体を震わせるような咆哮を上げた。
アカヤナギの枝が揺れる。水面が震える。
ロッカは笑った。
「いい」
両手で斧の柄を握る。重い刃を、戦う位置へ引き上げた。
「少しは楽しませろ」
足首の印が。さらに強く燃え上がった。




