第7話 名を告げない女
ここ数日。ルークは、その日に仕留めた獲物から自分の取り分を切り分けてから、残りを集落へ持ち帰るようになっていた。
理由を尋ねられれば、人間の小娘には焼いた肉が必要だと答える。すると誰もが、ルークが持ち去る肉はすべて、捕虜へ食わせるものだと思った。
ルークは訂正しなかった。
おかげで初めて。怪しまれることなく、中央の焚き火で食事をする必要がなくなった。
毎日の午後。ルークは、森の窪地で小さな火を起こした。
肉を焼く。野草や根も火へ入れる。手に入れた塩を、なくならない程度に少しずつ使う。
仕事の都合がつけば、クラグも自分の獲物を持ってきた。
たいていはリス。運がよければ、小鳥。
最近のルークは、野生の木の実や澱粉の多い根を石ですり潰し、肉へ塗るものも試している。塩や潰した野草が、肉から落ちないようにするためだ。
うまくいくこともあった。多くは失敗した。
苦すぎるもの。口の中が痺れるもの。酸味が強すぎて、クラグですら二口目を拒んだもの。
そして今日も。ルークは炭の上で焼かれている鹿肉を眺めていた。
「そろそろ、何でも焼くだけというのには飽きてきたな」
鳥の脚へ噛みついていたクラグが、動きを止めた。
「は?」
信じられないものを見る目を、ルークへ向ける。
「ルーク、やっぱり変だ。焼いた肉よりうまいものなんてない」
ほんの数週間前まで。クラグは、血が温かいうちに食べる肉が一番うまいと言い張っていた。
指摘するのはやめておいた。
「金属の鍋か、鉄の平鍋があれば、別のものも作れる」
「何だ、それ?」
「料理に使う道具だ。人間やゴブリンが使っている」
クラグが鳥の脚を下ろした。
「待て」
目を丸くする。
「あの小さい連中も、肉を焼くのか?」
「焼くだけではない」
「いつから?」
「俺が知るわけがないだろう」
ルークは串に残った最後の鹿肉を食べた。
「鳥を食べ終えろ。暗くなる前に戻るぞ」
クラグは再び肉へ噛みついた。何度か噛んでから、ルークの採集袋へ視線を向ける。
「今日は、飼ってる人間に肉を持っていかないのか?」
「飼っていない」
「名前つけたほうがいいぞ」
「なぜ?」
「ロッカもブランカに名前つけてる」
「ブランカはハイエナだ」
「でも名前ある」
「彼女にも、すでに名前はある」
クラグが首を傾げた。
「何て名前?」
「知らない」
「知らないのに、なんで名前あるってわかる?」
「おまえにも名前がある。俺にもある。なら、彼女にもある」
ルークは火へ枝を一本足した。
「俺に教えようとしないだけだ」
クラグは考え込んだ。
「ルークの人間、話せないんじゃないか?」
「話せる」
「聞いたのか?」
「話さないことを選んでいる」
「なら、やっぱり名前つければいい」
「だから、俺の飼っている人間ではない」
クラグの鼻が動いた。
一度。二度。
それからルークの採集袋へ顔を向ける。
「何か、いい匂いする」
ルークが止めるより早く。クラグは採集袋へ手を突っ込み、葉で包まれたものを取り出した。
包みの端をめくる。
中には、小さく切った鹿肉。刻んだ野生タマネギ。木の実と根を潰して作った、濃い色のペースト。
すべてを葉で固く包み、クラグが来る前に炭の上で蒸し焼きにしておいたものだ。
クラグの目が輝いた。
「これ、いつものと違う!」
「人間の女へ持っていくものだ」
「なんで、あいつのほうがいい匂いする?」
「きちんと作ったからだ」
「クラグも食う」
「明日作る」
「今食う」
「明日だ」
クラグは葉包みを見つめた。
「今」
「クラグ」
ルークが名を呼ぶ。
クラグの肩がわずかに落ちた。渋々、葉を元に戻す。
それから、ひどく大切なものを返すように、包みを採集袋へ戻した。
「火を消せ」
「明日は絶対作れ」
「わかった」
その答えを聞いてから。クラグはようやく、焚き火へ土をかけ始めた。
◇◆◇◆◇◆
その日の夕方。
ルークは葉包みを持って、捕虜檻へ向かった。
二つの檻の間に、トクが座っている。広い肩を丸め、切り株を椅子代わりにしていた。
足元には、穀物を煮た粥の入った鍋がある。
大きい檻には、ロッカの襲撃隊が連れ帰った二人の女がいた。
トクは鍋から粥をすくい、二つの木椀へ入れている。それから、灰色の茸を荒く刻み。両方の椀へ落とした。
「ネムリガサか?」
ルークが尋ねる。
「治療役の指示だ」
トクは答えた。
「新しい二人が、一晩中格子を引っ張ってた。一人は俺に噛みつこうとした」
「聞こえなかった」
「殴って眠らせたからな」
ルークは格子の向こうを見た。
女の一人は、顔の片側を大きく腫らしている。口元には乾いた血。
それでも意識はあり、トクを睨みつけていた。
「食べられるのか?」
「歯は残ってる」
トクは粥の椀を二人へ差し入れた。
顔を腫らした女は、すぐに椀を押し返した。中身がこぼれる前に、トクが受け止める。
格子の隙間から腕を伸ばし。女の首の後ろを掴んだ。
「食え」
椀の縁を、無理やり口へ押しつける。粥が顎を伝った。
女は暴れた。だが、トクの指へさらに力が入ると。やがて、口へ入ったものを飲み込んだ。
もう一人の女は。何も命じられないうちに、自分の椀を拾った。
下を向き。黙って食べ始める。
小さな檻には、まだ何も置かれていなかった。
若い女は、格子の近くに座っている。背筋を伸ばし。両手を膝の上へ軽く置いていた。
トクが女へ無理やり粥を飲ませる間も、表情を変えなかった。
だが。その視線は、顎へこぼれた粥へ向けられている。
次に、二つの椀に残った量を見る。どちらが、どれだけ口にしたのか。
トクが何をしたかよりも。そちらのほうを気にしているようだった。
ルークが近づいても、女はそちらを見なかった。
だが、彼の持つ葉包みが目に入ると。そこでようやく、女の視線が動いた。
ルークは小さな檻の前にしゃがみ、人間語で話しかけた。
「俺の言葉がわかるな?」
女はルークを見返した。
返事はない。
「人間たちの間では、何と呼ばれていた?」
反応しない。
「名前だ」
女は、ただルークを見返している。
「戦士でもないのに」
トクが横から言った。
「呼び名なんて必要か?」
「試しているだけだ」
ルークは葉包みを開いた。焼いた肉と野菜の匂いが広がる。
女の目が、すぐに食べ物へ移った。表面へ塗られたペーストを、注意深く見ている。
すぐには手を伸ばさない。
ルークは包みを、格子の隙間から中へ押し入れた。
女は指先でペーストを少しだけ削った。匂いを嗅ぐ。舌の先へ触れさせる。
そして。すぐには食べず、待った。
舌が痺れないか。気分が悪くならないか。
確かめている。
しばらくしてから。鹿肉を一つ取り、口へ入れた。
背後で。杖が地面を叩いた。
ルークは振り返る。
モルグが、捕虜檻の横に立っていた。
長老の視線が。女から。その手にある料理へ移る。
「毒がないか調べる知恵はあるようだな」
モルグは一族語で言った。
「そうだな」
ルークも同じ言葉で答える。
モルグが女を指す。
「あれがおまえの取り分を食うだけでは、役に立っていることにはならない」
「まだ来て数日だ」
「おまえは、あれがほかの捕虜とは違うと言った」
杖の先が、ルークへ向く。
「賢いとな」
ルークは答えなかった。
「なら、見せろ」
「何を?」
「あれに何ができるのか」
モルグは、沈み始めた太陽へ顔を向けた。
「明日の日暮れまでだ」
「短いな」
「役に立つものを一つ見せろ」
ルークは檻の中の女を見る。
女は食べる手を止め。こちらの会話を聞いている。
古い一族語は理解できないはずだ。
それでも。自分について話していることくらいは、わかっているだろう。
「見せられなかったら?」
「役に立たないものへ、今まで通り食わせ続けろ」
モルグはそれだけ言うと。杖をつき、歩き去った。
トクは、長老が声の届かないところまで離れるのを待った。
「ひとつ、言っておく」
砥石を膝へ置く。
「あれは、何もしないわけじゃない」
「毎晩見張っているんだろう」
ルークは尋ねた。
「普段、何をしている?」
「おまえが来れば食う」
トクは指を折る。
「ほかの人間を見る。寝る」
「ほかには?」
「自分が捕まっていることはわかってる。それは確かだ」
「いつ起きる?」
「朝の角笛より前」
「毎日か?」
「毎日だ。見張りが起きるころには、もう座ってる」
「逃げようとしたことは?」
「ない」
トクは首の後ろを掻いた。
「ほかには……」
しばらく考える。
「たまに、ほかの人間を突ついてる」
「突つく?」
ルークは二つの檻の間を見る。
後ろ側の角は近い。両方の格子へ腕を通せば。隣の檻にいる人間へ、どうにか手が届くだろう。
「ネムリガサで、ほかの人間が静かになったあとだ」
トクが言った。
「昨日は、あれを何度もつねってた」
顔を腫らした女を指す。
「動くまでつねる。動いたら待つ。それから、またつねる」
「もう一人にも?」
「やった」
「どちらが先に目を覚ました?」
トクはルークを見る。
なぜそんなことを聞くのか。まるで理解できていない顔だった。
「そっちだ」
もう一人の、痩せた女を指した。
椀へ入れられたネムリガサの量は、わずかに少なかった。
ルークは、小さな檻へ顔を向けた。
若い女は食べる手を止めていた。こちらを見ている。
目が合う。
すると女は、何もなかったように。鹿肉をもう一つ口へ入れた。
「あれは、嫌がらせをしていたんじゃない」
ルークが言った。
「なら何だ?」
「ネムリガサが、どれくらい眠らせるのか調べていた」
トクが二人の捕虜を見る。次に、若い女を見る。
「本当に賢いのか」
「そうらしい」
ルークは小さく息を吐いた。
「ただ、何のために調べているのかはわからない」
「逃げるためじゃないのか?」
「その可能性はある」
トクは肩をすくめた。
「あれが逃げても、俺は追わない」
「見張りだろう」
「小さい人間の女一人に、森まで走る価値はない」
ルークは女を見た。女も、ルークを見ている。
話の内容はわからなくても。視線を向けられている理由は理解している。
「明日」
ルークは立ち上がった。
「一つ試す」
持ってくるものは、すでに決まっていた。
◇◆◇◆◇◆
翌日の午後。
ルークは籠を抱え、捕虜檻へ戻った。
中には。根。葉。木の実。茸。樹皮。
森で集められるものを、何種類も入れてある。
食べられるもの。治療役が使うもの。食べれば激しく腹を壊すものが三つ。量によっては、命を奪うものが一つ。
ルークは平たい樹皮を三枚、小さな檻へ入れた。それから籠の中身を、若い女の前へ散らす。
最初の樹皮を指す。
「食べ物」
次。
「薬」
最後。
「毒」
女は植物を見る。
だが。すぐには手を伸ばさなかった。
「役に立つとモルグへ見せれば、治療役の仕事をここへ持ってこさせられるかもしれない」
女の目が上がった。ルークの顔を見る。
初めて。はっきりとした反応だった。
「やはり、わかっているな」
女は答えない。
「分けろ」
今度は動いた。
一度始めると。迷いはなかった。
ニガネと野生タマネギは、食べ物。傷縫い草と熱冷ましに使う樹皮は、薬。黒い実と、白く膨れた根は、毒。
一つずつ。確かめることもなく、正しい場所へ置いていく。
最後に。女はネムリガサ茸を持ち上げた。
三つの山を見る。すぐには選ばない。
茸を指で裂いた。
小さな一片だけを、薬の山へ。残りを、毒の山へ置く。
ルークは、分けられた茸を見つめた。
少量なら、眠らせる。
多すぎれば。二度と目を覚まさない。
「十分だ」
女は元の場所へ戻った。格子のそばへ座る。
ルークは植物を回収し、籠の中で混ぜ直した。
「モルグが来たら、もう一度やれ」
返事はない。
ルークは立ち上がりかけた。
だが。その前に、もう一度女を見る。
「名前を教える気になったか?」
女は顔を背けた。
「まだ駄目か」
◇◆◇◆◇◆
モルグは、日が沈む少し前に現れた。
若い女は。昼間と同じように、植物を三つへ分けた。
食べ物。薬。毒。
そして。ネムリガサ茸だけを二つに裂き。少量を薬へ。残りを毒へ置いた。
モルグは最後まで黙って見ていた。
「どこまで教えた?」
「三つの場所が何を意味するかだけだ」
「なら、植物は最初から知っていた」
「そうだ」
モルグは杖の先を伸ばした。薬の山にある、熱冷ましの樹皮を押す。
食べ物の山へ移した。
若い女はすぐに手を伸ばした。樹皮を拾い。元の薬の山へ戻す。
それから。モルグの目を見た。
「使い道を知っている」
長老が言う。
「量もだ」
ルークは、二つに分けられたネムリガサ茸を指した。
「トクがほかの捕虜の粥へ入れた量を見ていた。そのあと、眠っている時間を調べた」
大きな檻の前にいたトクが、わずかに姿勢を変えた。
自分の仕事まで観察されていたことに。今になって気づいたらしい。
モルグはネムリガサ茸を見る。
「役に立つ知識だ」
杖の先が、毒の山へ触れる。
「危険な知識でもある」
「治療役に見張らせればいい」
「そうする」
モルグはルークを見る。
「治療役が許した植物だけを、こいつに分けさせる。薬を作る手伝いもさせろ」
「わかった」
「オークへ毒を飲ませたら、おまえが責任を取れ」
「わかっている」
「ほかに何を知っているのか調べろ」
モルグの視線が、若い女へ戻る。
「知らない仕事は覚えさせろ」
若い女も、モルグを見返している。
「よい家畜には、使い道が一つだけでは足りない」
モルグは言った。
「働けて。何度か子を産んでも生き残るなら」
杖の先で、女を示す。
「人間の小娘を生かしておく価値もあるかもしれない」
ルークは何も言わなかった。
モルグは、そのまま歩き去った。
若い女は、長老の背中を見ている。
そして。モルグの姿が見えなくなると、ルークへ顔を戻した。
感謝はなかった。恐怖も。
ルークを見る目は。ネムリガサ茸を入れられた二つの椀を見ていたときと同じだった。
静かに観察し。結果を一つ増やしている。
ルークは葉包みを、格子の隙間から差し入れた。
「これからは、治療役が植物を持ってくる」
女は包みを受け取った。
「少なくとも、仕事はできた」
女は何も言わない。
ルークは立ち上がった。
自分が証明したかったのは。一人の捕虜を、生かしておく価値だった。
だが。モルグが得た答えは違う。
人間の女には。子を産ませる以外の使い道もある。
ルークは彼女を助けるために動いた。
その結果。モルグへ、次からもっと多くの女を生かして連れ帰る理由を与えた。
◇◆◇◆◇◆
ルークが去ってから、長い時間が過ぎた。
夜風が吹く。
捕虜檻の上に張られた毛皮が、風を受けて持ち上がった。
その端が。小さな檻の扉へ触れる。
木の扉が、ゆっくりと外へ開いた。
若い女は。扉が格子へぶつかる前に、手を伸ばして止めた。
留め具を見る。
木の棒が入っていない。
トクは扉を閉めただけだった。鍵をかけることすら、忘れていた。
女は扉の隙間から外を見た。
トクは切り株の上で眠っている。顎が胸へ落ちていた。
手の届くところに剣はある。
だが。目を覚ます気配はない。
その向こうには、眠った集落。さらに先には、木柵。門。森。
女は扉を押した。
一人が通れるだけの隙間を作る。外へ出る。
何も遮るものはなかった。
走ることもできる。物陰へ隠れることも。トクの武器を奪うことすら、できるかもしれない。
若い女は、その場に立った。
数回。ゆっくりと呼吸する。
そして。音を立てないように、扉を閉じた。
檻の内側から。落ちていた木の棒を拾う。
格子の輪へ通し。自分で、扉へ鍵をかけた。




