第6話 小柄な人間の女
ルークが戻ってきたことに、誰も気づいていなかった。いつから話を聞いていたのかも。
モルグが振り返る。ロッカも、ルークを見た。見張りの手は、捕虜檻の留め具にかかったまま止まっている。
ルークは抱えていた穀物袋を地面へ下ろした。
「冬を一度越せば、今より大きくなる」
檻の中にいる若い女を見た。
「長くても二度だ」
モルグも女へ視線を戻す。
「それまで生かす意味がない」
杖の先が、地面を一度叩いた。
「これほど若い捕虜は、一冬も生き残らない」
レッドタスク族のオークたちは、彼女を人間の小娘だと思っていた。
ほかの二人よりも背が低い。肩幅も狭い。手足も細い。オークから見れば、育ちきっていない人間にしか見えないのだろう。
だが、ルークにはわかっていた。
顔立ちも。体つきも。すでに成長を終えた、若い女のものだった。
ただ、小柄で。長い移動と空腹のせいで、ひどく痩せている。
それだけだ。
ルークは、その誤解を訂正しなかった。今は、小娘だと思わせておいたほうが都合がいい。
「こいつは旅を生き延びた」
ルークは言った。
「自分の足で歩いた。逃げなかった。泣き続けることも、暴れることもしなかった」
檻の中で。若い女の指が、わずかに格子を握り締めた。
「おとなしいように見える」
モルグの顔は動かない。
「おとなしいだけの人間に、食わせる価値はない」
「今は使えなくても、後で使える」
「何に?」
モルグは短く問う。
ルークはすぐには答えなかった。
レッドタスク族が、捕虜の女を何に使うのか。知らないわけではない。
人間の女がオークの子を宿せば、半年も経たずに腹が大きくなる。その中で育つ子は、人間の子ではない。オークと同じ速さで大きくなる。
人間の体が耐えられるようにはできていない。
多くは、産むときに死ぬ。生き残ったとしても、長くはもたない。
ルークが覚えている限り。二人目を産むまで生きていた人間の捕虜はいなかった。
この女を、そうするつもりはなかった。
とりあえず、生かす。今はそれだけでいい。
後で機会があれば、どこか安全な場所へ逃がす。それ以上のことは、まだ考えていない。
なぜ、この女なのか。
ルークはこれまで、捕虜檻の前を何度も通ってきた。捕虜が連れてこられるところも見た。いつの間にか姿を消していることもあった。
何が起きたのか。どこへ連れていかれたのか。
考えたことはなかった。
鹿が運び込まれ。解体され。翌日には骨だけになる。
それと大きな違いがあるとは思わなかった。
少なくとも。
今日までは。
舌の上には、まだ塩の味が残っていた。
粗く。少し苦く。砂まで混じった、質の悪い塩。
それでも、その味は。ルークの中に沈んでいたものを、わずかに浮かび上がらせた。
磨かれた長机。白い皿。銀の食器。丁寧に切り分けられた料理から昇る湯気。肉へ振られた塩。
向かい合って座り。獣のように唸るのではなく、言葉を交わしながら食事をする人々。
名前も、顔も。まだ、はっきりとは戻ってこない。
ただ。その場にいたときの感覚だけが、妙に近かった。
前の人生は、これまでずっと遠くにあった。知識として覚えているだけの、別の男の人生。
だが塩を舐めた瞬間。
ほんの少しだけ。自分が本当にそこにいたのだと思い出した。
だからなのかもしれない。
檻の中の若い女が。襲撃隊の戦利品の一つには、見えなくなっていた。
人間だったころの情けか。それとも。一度口にしたことを引っ込めたくない、オークの意地か。
ルーク自身にもわからない。
どちらでもよかった。
すでに、モルグとロッカの前で口を挟んだ。今さら撤回するつもりはない。
「捕虜を残すには、食い物が必要だ」
モルグが言った。
「女が足りなくなれば、襲撃隊がまた奪ってくる」
「若い獲物をすべて殺す狩人は、いずれ何もいない森に立つ」
モルグがルークを見た。
長い沈黙。
「呪術師のようなことを言う」
「狩人の話だ」
「人間を、人間が家畜を育てるように育てろと?」
ルークは一瞬、言葉に詰まった。嫌悪が、胸の奥に浮かぶ。
かつて人間だった自分なら。その例えを口にしただけで、怒ったかもしれない。
だが、モルグが理解する理屈は限られている。
人間だから助ける。かわいそうだから生かす。
そんな言葉では、捕虜檻の留め具は閉じない。
ルークは頷いた。
「そうだ」
檻の中で、若い女がルークを見ていた。
言葉そのものは、わからないはずだ。それでも。自分の生死について話していることくらいは、察しているだろう。
ロッカは何も言わず、ルークを見続けている。先ほどよりも長く。
モルグが女を見る。次に、ルークへ杖を向けた。
「おまえは、役に立たないものを欲しがっている」
「役に立たないままとは言っていない」
「なら、おまえが食わせろ」
ルークは黙っていた。
モルグは続ける。
「こいつが役に立つと証明するまで、食い物はおまえの取り分から出す」
杖の先が、捕虜檻を指した。
「逃げたら、おまえが追う」
「わかった」
「何かを壊したら、おまえが直す」
「わかった」
「病気になれば、一族へ広がらないようにしろ」
「わかった」
モルグが一歩近づいた。
「おまえは、長老の判断へ口を挟んだ」
その声は大きくない。だが、解体場の周囲にいたオークたちが、少しずつ静かになっていた。
「なら、その言葉を自分で背負え」
モルグはルークの目を見る。
「こいつが生き残り、役に立つなら、おまえが正しかった」
杖が地面を叩く。
「その前に死ねば、おまえが間違っていた」
「わかった、モルグ長老」
ブロッグが、信じられないものを見るようにルークを見ている。
もともと変わり者だと思っていたはずだ。今ので、残っていた評価もすべて下がったらしい。
モルグの目が、ルークの手へ向いた。
ブラッドマウの頭蓋を砕いた手。
あの夜。モルグが傷一つない拳を、長く見ていたことをルークは覚えている。
「なら、こいつはおまえの重荷だ」
見張りへ顔を向ける。
「小さい檻へ移せ」
「わかった」
「一族の蓄えからは、何も与えるな」
見張りが、開きかけていた留め具を閉じ直した。
モルグはそれ以上何も言わず、歩き去る。
杖をつくたび。乾いた音が、少しずつ遠ざかっていった。
ロッカだけが残った。両手にはまだ、ブランカの血がついている。
「妙なものを集めるな、狩人」
ルークはロッカを見る。
「何が妙だ?」
「自分では殺していないと言うブラッドマウの骨板」
ロッカは檻の中の女へ目を向けた。
「使い道もない、人間の小娘」
ブロッグが笑った。
ロッカがルークを馬鹿にしている。そう判断したらしい。
ルークは荷車へ向き直った。まだ、仕分けるものが残っている。
背後から。
「私に背を向けるな、弱者」
肩を掴まれた。ロッカの手だった。
強い指が、ルークの肩へ食い込む。
ルークは足を止めた。
まず、自分の肩に置かれた手を見る。それから、ロッカの目を見た。
一呼吸。
どちらも動かなかった。
ロッカは武器を持った人間と戦ってきた。野獣とも。ほかの一族の戦士とも。
正面から睨まれたくらいで、怯む女ではない。
だが。
ルークの視線を受けた瞬間。ロッカの体が、わずかに強張った。
まるで。抜かれた武器を前にしたように。
ルークの顔には、怒りも。殺意も。何も浮かんでいない。
だからこそ。何をするつもりなのか、読めなかった。
「骨板はモルグから与えられた」
ルークは言った。
「捕虜は俺の重荷になった」
声は静かだった。
「どちらも、おまえには関係ない」
ブロッグの笑い声が止まった。
ロッカはしばらく、ルークの目を見続けた。
やがて。肩から手を離す。
口の端が、わずかに持ち上がった。笑顔と呼ぶには、少し足りない。
「そこにいたか」
ロッカは言った。
「臆病者にも、牙は残っていたらしい」
踵を返す。そのまま治療小屋へ向かって歩いていった。
ブロッグは、ロッカが見えなくなるまで黙っていた。
「もっと言葉を選んだほうがいい」
ようやく口を開く。
ルークは穀物袋を持ち上げた。
「なぜ?」
「ロッカは襲撃隊を率いてる」
「知っている」
「ロッカがブロッグを認めれば、次の襲撃に誘われるかもしれない」
「なら、ロッカが誰かを笑ったときに、一緒になって笑うのはやめたほうがいい」
ブロッグは眉を寄せた。
忠告されたのか。馬鹿にされたのか。
判断できなかったらしい。
ルークは戦利品の仕分けへ戻った。
◇◆◇◆◇◆
その日の夕方。
ルークは自分の取り分として渡された鹿肉を持ち、木柵の外へ出た。向かったのは、いつもの窪地だ。
何年も前から使っている。集落から煙は見えない。風向きさえ間違えなければ、匂いも届かない。
ルークの秘密を知ってから。仕事が早く終わった日には、クラグもここへ来るようになっていた。
だが今日は、姿がない。薪を運んでいる途中に逃げ出したことで、何か別の仕事を増やされたのかもしれない。
昨日の灰が、石の間に残っている。
ルークは乾いた枝を組み。火打ち石を鳴らし。小さな火を起こした。
鹿肉から切り取った脂の塊を、炭のそばに置いた平たい石へ載せる。熱を受け、脂が少しずつ溶け始めた。
別の石の上で、ニガネと野生タマネギを潰す。
そこへ。採集袋から、小さな壺を取り出した。
割れた蝋を外す。中の白い結晶を、ほんの少しだけ指でつまむ。
多すぎれば、すぐになくなる。少なすぎれば、味が変わらない。
オークとして塩を使って料理するのは、これが初めてだった。
だが。どの程度の塩なら食べ物を台無しにしないか。
指先だけが、なんとなく覚えていた。
潰した根とタマネギへ、塩を混ぜる。溶けた脂を注いだ。
石の上で混ぜると、濃い色の粘り気があるものになった。ルークはそれを鹿肉の両面へ塗り込んだ。
すぐには焼かない。しばらく置く。
塩が肉の表面から水分を引き出すまで。
やがて肉を炭の上へ載せた。
脂が落ちる。炎が上がる。肉の端が黒く焼け、潰した根とタマネギが表面へ張りついていく。
一度だけ裏返す。残しておいた脂を塗る。
香りが変わった。
ただ焼いただけの肉とは違う。腹を満たすためではない匂い。
ルークは火から肉を外した。小刀で端を切る。まだ熱い一片を、口へ入れた。
噛んだ瞬間。違いがわかった。
鹿肉は硬い。ニガネも少し強すぎる。塩は粗く、噛めば歯の間で音が鳴る。
まともな料理とは呼べない。
それでも。
一口だけ。食べ物が、ただ腹へ入れる肉ではなくなった。
味があった。
味わう理由があった。
そして。また、記憶が浮かぶ。
人間たち。汚れ一つない服。長く磨かれた卓。白い皿の横で、銀の食器が光っている。
丁寧に作られた料理から、湯気が立ち昇る。
全員の前に料理が並ぶまで。誰も先に食べ始めない。
最後の一人の前に、皿が置かれる。
それから。
卓の上座で、人間の手が静かに杯を取った。
自分の手だ。
葡萄酒をひと口飲む。それを合図に、皆が食器へ手を伸ばした。
ルークは焚き火の前で、動かなくなった。
名前は思い出せない。何を話していたのかも。その食卓にいた人間たちが、今も生きているのかすら知らない。
だが。
待っていた。
皆で食べ始めるために。
その習慣を。ルークは知っていた。
鹿肉は、まだ半分以上残っている。ここで全部食べるつもりだった。そのために持ち出してきた。
だが。
檻の中にいる若い女を思い出した。
モルグは、食事をルークの取り分から出せと言った。見張りは、おそらくルークへ渡されるはずだった肉を、そのまま女へ与えただろう。
生肉を。
空腹の人間なら。いつかは食べるかもしれない。
だが、生肉へ慣れていない人間は。飢えが限界へ達するまで、口へ入れない可能性がある。
ルークは残った鹿肉を見た。
それから。幅広い葉で包んだ。
◇◆◇◆◇◆
集落へ戻ると。
若い女は、小さな檻の中へ移されていた。膝を胸へ抱き。木の格子へ背を預けている。
足元には、生肉が一切れ置かれていた。手をつけた跡はない。
予想通りだった。
檻の外には、トクが座っている。
広い肩。膝の上には剣。砥石を刃へ滑らせていた。
ルークが近づくと。トクの鼻が動いた。
視線が、ルークの持つ採集袋へ向く。
「また肉を焦がしたのか?」
「そうだ」
トクは檻の中を見る。
「自分の人間を見に来たか?」
「俺の人間ではない」
「なら、自分の重荷だ」
ルークは、檻の中に置かれた生肉を見る。
「食べていないのか?」
トクは肩をすくめた。
「おまえの取り分から出した肉だ」
砥石をもう一度滑らせる。
「食うかどうかは、あれが決める」
「穀物を煮たものは?」
「モルグは、一族の蓄えから食わせるなと言った」
「そうだったな」
ルークは檻の前へしゃがみ込んだ。格子の隙間から手を伸ばし。足元の生肉を取り出す。
採集袋から、葉の包みを出した。
開く前から。焼いた肉の匂いが漏れていた。
若い女が顔を上げた。
最初に見るのは。ルークの牙。
次に手。腰へ差した石の小刀。それから、葉の包み。
ルークは人間語で話した。
「火を通してある」
女の目が、大きく開いた。
「食べられる」
驚いている。
オークが人間語を話したからではない。この山では、話せるオークも珍しくはない。
だが。ルークの言葉が、あまりにも明瞭だった。
唸り声を混ぜず。乱暴に単語を並べることもなく。人間のような順序で話した。
女の視線が、ルークの顔へ戻る。
疑いは消えていない。
当然だ。
ルークは鹿肉を小さくちぎった。自分の口へ入れる。
噛み。飲み込む。
それから葉の包みを、格子の隙間から檻の中へ押し入れた。すぐに手を引く。
女は動かない。ルークも待った。
トクは剣を研ぎ続けている。興味がないふりをしていた。
だが、砥石を動かす速さが先ほどより遅い。
しばらくして。若い女が、少しだけ前へ動いた。
まず匂いを確かめる。次に、ルークを見る。
毒を疑っている。あるいは。食べた後に何を要求されるのか、考えている。
ルークは何も言わなかった。
やがて。女が肉へ手を伸ばす。
指先で掴み。口へ運んだ。
一口だけ噛む。
動きが止まる。
目がわずかに見開かれた。
次の一口は、少し大きかった。その次は、さらに早い。
女は両手で肉を持ち、夢中になって食べ始めた。
ルークは、食べ終わるまでその場にいた。
最後の欠片を飲み込む。檻の隅に置かれていた水の器を持ち上げ。何度も飲んだ。
昼間。ルークは、理由もよくわからないまま女を生かした。
夜になり。人間の食卓を思い出したあとで。自分の料理を、半分与えた。
大したことではない。
一度の食事だ。
ただ。
今は、それで十分だった。




