第8話 狩人への依頼 (後編)
ロッカの足首を囲む印が、さらに強く燃え上がった。
アイアンハイドが、巨大な前脚を振るう。
だが。その爪が届く場所に、ロッカはもういなかった。
橙色の光が、獣の横を駆け抜ける。
直後。斧の刃が、アイアンハイドの横顔へ叩き込まれた。
硬い黒毛が裂ける。左目の下へ、一本の赤い線が走った。
浅い。
アイアンハイドが咆哮し、首を振る。ロッカはすでに反対側へ回っていた。
斧が肋の上を横切る。黒い毛が宙へ散った。
新しい傷から血が流れたが。刃は、その下にある厚い皮をわずかに切っただけだった。
ブロッグが、折れた槍を杖代わりにして体を起こした。
「いい一撃だ、ロッカ!」
ロッカは答えない。
再び踏み込む。
斧が、アイアンハイドの頭蓋へ向かって振り下ろされた。
獣は片方の前脚を持ち上げる。刃は、腕を覆う密集した黒毛へ当たり。硬い音を立てて、横へ弾かれた。
その時点で。ロッカはもう後ろへ跳んでいる。
直後。もう一方の前脚が、先ほどまで彼女のいた場所へ落ちた。
泥が爆ぜた。水と土が、周囲へ高く飛び散る。
ロッカは。望んだときに、いつでもアイアンハイドへ攻撃を当てられる。
問題は、そこではない。
斧を振るうたび。同時に、獣の爪が迫る。
一撃を加えたあと。必ず、すぐに離れなければならない。
足を地面へ固定し。腰を回し。全身の重さを斧へ乗せる時間がない。
さらに。無理に体を捻るたび。まだ塞がっていない脇腹と肩の傷が引きつっている。
急ぎながら振るう。傷を庇いながら振るう。
そんな斧では。アイアンハイドの分厚い皮を、深く割れない。
ロッカは、獣の周囲を回った。
アイアンハイドも。彼女を追いかけるのをやめた。
その場で向きを変え。頭を前脚の陰へ隠す。小さな目だけが、橙色の光を追っていた。
学んでいる。
速い相手を。無闇に追いかけても意味がないと。
ロッカが左側から踏み込んだ。アイアンハイドが前脚を振るう。
ロッカは爪の下へ潜った。獣の懐へ入る。斧を下から跳ね上げる。
狙いは顎の下。
アイアンハイドは。その巨体からは想像できない速さで、体を捻った。
隠れていたもう一方の前脚が。ロッカの胸へ叩き込まれた。
鉄が潰れる音。
人間から奪った胸当てが、中央から内側へ折れ曲がった。革紐が切れる。
ロッカの体が地面から浮いた。むき出しになったアカヤナギの根へ、背中から叩きつけられる。
そのまま泥の上を転がった。
「ロッカ!」
ブロッグが駆け出そうとした。負傷した脚が折れる。
片膝から地面へ崩れ落ちた。
アイアンハイドが突進する。
ロッカは横へ転がった。
次の瞬間。巨大な爪が、先ほどまで頭のあった場所へ振り下ろされた。
アカヤナギの根が砕ける。木片が飛んだ。
ロッカは片膝をついた姿勢から、斧を横へ振った。刃が、アイアンハイドの前脚を切る。
獣が身を引いた。
ロッカは斧を地面へ突き。それを支えにして立ち上がる。
胸当ての片側が。折れたまま、脇腹へ食い込んでいた。
ロッカは潰れた鉄の縁へ指をかける。残った革紐ごと引きちぎった。
胸当てを川へ投げ捨てる。
重い鉄が水へ落ち。濁った水が跳ねた。
押し潰された鎧の下で。塞がりかけていた傷が、再び開いていた。
脇腹から血が流れる。肩にも。アカヤナギの根へ叩きつけられた腕にも。新しい傷が増えている。
ロッカは一度だけ。肋骨のあたりへ手を当てた。
それから。背筋を伸ばした。
泥にまみれた足首で。橙色の印が、先ほどよりも強く輝いている。
もう。笑ってはいなかった。
「もう一度だ」
ロッカは走った。
アイアンハイドの頭が、左右へ激しく動く。
ロッカが攻撃するたび。別の場所に傷が増えた。
頬。前脚の付け根。肩。
黒い毛が赤く濡れていく。
だが。どの傷も浅い。
ロッカは二度、頭蓋を狙った。どちらも、アイアンハイドの前脚に斧を弾かれた。
喉も狙った。
分厚い首周りの毛へ刃は食い込んだが。その下にある血管までは届かない。
アイアンハイドは。ロッカを捕まえられない。
ロッカも。まだ、アイアンハイドを殺せない。
浅い傷を増やし続ければ。いずれ獣も弱るだろう。
だが。足首の光が。少しずつ不安定になっていた。
強く燃え。次の瞬間には、わずかに弱くなる。
ロッカの呼吸音も。攻撃を重ねるたびに大きくなっている。
斧を振ったあと。獣の間合いから離れるまでの時間が、少しずつ長くなっていた。
ブロッグが、川岸から石を拾った。
「こっちだ!」
投げる。
石は、アイアンハイドのこめかみに当たった。
傷にはならない。だが、獣の顔がブロッグへ向く。
その瞬間。反対側から、ロッカが近づいていた。
アイアンハイドの爪が。ブロッグへ向けた勢いのまま、ロッカの進路を横切った。
ロッカは体を捻る。攻撃を諦め、後ろへ跳んだ。
「私の戦いへ入るな!」
「ブ、ブロッグは助けようとしただけだ!」
アイアンハイドが突進する。
ロッカは避けた。
だが。今度は、余裕がなかった。
爪の先が、狼皮の外套を掠める。灰色の毛が何本も宙へ舞った。
ブロッグが、もう一つ石を拾おうとする。
ルークは、その手首を掴んだ。
「やめろ」
ブロッグがルークを睨む。
「放せ」
「次はロッカへ当たる」
ブロッグはしばらく抵抗した。
だが。最後には石を落とした。
ルークは戦いへ視線を戻した。
ロッカが勝つ可能性はある。
浅い傷でも。増え続ければ、アイアンハイドは血を失う。動きも鈍る。
だが。先に限界へ達するのは、ロッカの加護だ。
アイアンハイドは。あと一度。彼女へ爪を当てればいい。
ルークは腰の石小刀を抜いた。
ロッカが、もう一度踏み込む。
アイアンハイドは後ろ脚で立ち上がった。両方の前脚を、高く持ち上げる。
その巨体が。ロッカの視界から、後ろにいるルークたちを隠した。
左の肋骨。
ロッカが斧で開いた傷が。持ち上げられた前脚の下に見える。
ロッカの斧は。すでにアイアンハイドの首へ向かって上がっていた。
巨大な前脚も。同時に。ロッカの顔へ振り下ろされている。
斧は当たる。爪も当たる。
たとえ首を深く切ったとしても。アイアンハイドは、すぐには死なない。
最後の一撃を止めるには。間に合わない。
ブロッグは、ロッカだけを見ている。
ロッカは、アイアンハイドだけを見ている。
誰も。ルークを見ていなかった。
右足首が熱を持つ。
印が燃え上がった。
音が消えた。
川の水が。跳ねた形のまま、空中に留まる。
アイアンハイドの黒毛に付着した血の粒も。宙へ浮かんだまま動かない。
ブロッグは。石像になった。
ロッカだけは。止まっていなかった。
だが。遅い。
あまりにも遅い。
斧が、少しずつ上がっている。
アイアンハイドの爪も。一寸ずつ、顔へ近づいている。
ロッカの足首では。橙色の印が燃え続けていた。
同じバロクの加護。
それでも。ルークとロッカの間には。埋められないほどの差があった。
ルークは川を渡った。
一歩。二歩。
水面を蹴る。飛び散った水滴の間を抜ける。
アイアンハイドの横へ到達したとき。ルークは気づいた。
ロッカの目が、動いている。
ルークへ向いたのではない。
川を横切った何かを。視線だけで追おうとしている。
頭は回らない。体も、加護の限界を超えて動かせない。
だが。目だけが。わずかにルークの移動を追っていた。
見えている。
いや。何かが動いたと。感じ取っている。
ルークは石小刀を握り直した。
ロッカが開いた、左肋骨の傷へ刃を突き立てる。
切っ先が骨へ当たった。
引き抜く。角度を変える。
もう一度。
一回。二回。
三回目。
刃が肋骨の隙間へ入った。根元まで沈む。
硬いものが。刃の先で、ゆっくりと縮んだ。
心臓。
ルークは刃を抜いた。同じ穴へ、さらに二度突き刺す。
すべての刃が。ロッカの斧で開いた傷の中へ消えた。
外から見れば。新しい傷は残らない。
ロッカの目が。今も、動く何かを追っている。
何を見ているのか。理解はできていないだろう。
それでも。何かがいたと。気づいている。
ルークは小刀を引き抜いた。
同じ道を戻る。川を渡る。ブロッグの横へ立つ。
その間。ロッカの斧も。アイアンハイドの爪も。指一本分すら動いていなかった。
ルークは加護を止めた。
音が。一気に森へ戻った。
水が落ちる。咆哮。風。斧が空気を裂く音。
ルークはすぐに、石小刀を投げた。
刃は。振り下ろされるアイアンハイドの前脚。肉球の中央へ突き刺さった。
獣の指が縮む。
前脚が、反射的に横へ逸れた。
爪は。ロッカの顔のすぐ横を通り過ぎる。
同時に。ロッカの斧が、アイアンハイドの首へ入った。
黒毛。皮。肉。
すべてを深く割り。最後に骨へ当たって止まる。
アイアンハイドの体が傾いた。
ロッカは斧の柄から手を離さない。
片足を獣の肩へ乗せ。全身で引く。
血が噴き出す。
斧が抜けた。
ロッカはもう一度、振り上げる。
同じ傷へ。
二撃目。
刃が入る。
骨が砕けた。
アイアンハイドの頭が。胴体から離れた。
浅い川へ落ち。水の中を転がる。
残った巨体も。その横へ倒れた。
泥と水が跳ねる。
それきり。動かなかった。
ロッカは死体の横に立っている。両手で斧を握ったまま。
胸が大きく上下していた。
足首の光が。少しずつ消えていく。
ブロッグが、折れた槍を頭上へ掲げた。
「ロッカが殺した!」
大声を上げる。
「ロッカがアイアンハイドを倒した!」
ロッカが振り返った。
最初に、ブロッグを見る。
次に。ルーク。
視線が、ルークの足元へ落ちた。
泥の上には。川へ向かって立った、新しい足跡が二つ。
その先は。アイアンハイドの突進と水しぶきで、すでに踏み荒らされている。
「狩人」
ロッカが言った。
ブロッグの声が止まる。
「次に私が戦うときは、手を出すな」
ブロッグがルークを見る。
「でも、ルークは俺が手を出すのを止めて、そのあと自分で手を出した」
「おまえの石は、爪をロッカへ向けた」
ルークは答える。
「俺の小刀は、爪を逸らした」
「どっちも手を出してる」
ロッカの視線は、まだルークの足元にある。
「言い訳にはならない」
ブロッグの背筋が伸びた。
「わ、わかった、ロッカ」
折れた槍を下ろす。
だが。その目はルークへ向いたままだった。
ルークは何も言わない。
ロッカは川岸へ向かって歩き出した。
一歩目。二歩目。
足取りは安定している。
三歩目で。わずかに体が傾いた。
ルークは腰の水袋を外した。差し出す。
ロッカが足を止める。
水袋ではなく。ルークの顔を見た。
しばらくして。受け取る。
口をつけ。一気に飲んだ。
水が口元からこぼれ。顎を伝う。
半分ほど飲んでから。何も言わず、ルークへ返した。
ブロッグは。アイアンハイドの死体へ近づいていた。
「ルーク!」
前脚の下へ両手を入れる。
「手伝え!」
持ち上げようとする。
死体は。ほとんど動かなかった。
「全部は運べない」
ルークは言った。
「小刀を出せ。皮を剥ぐ」
「頭は?」
「頭も重い」
「持って帰る」
ブロッグは、川へ転がった頭へ近づいた。粗い黒毛を両手で掴む。
泥の中から引き上げた。
「これは、ロッカの戦利品だ」
胸を張る。
「ブロッグが運ぶ」
ルークはアイアンハイドの前脚へしゃがんだ。
自分の石小刀が。肉球の中央へ突き刺さったままになっている。
柄を握る。引き抜いた。
刃についた血を、黒毛で拭う。
ロッカは。その動きを黙って見ていた。
◇◆◇◆◇◆
集落へ戻ったころには。すでに夜になっていた。
脚を痛めているにもかかわらず。門を最初にくぐったのは、ブロッグだった。
アイアンハイドの頭を両手で持ち上げている。
中央の焚き火へ向かい。高く掲げた。
十歩も進まないうちに。周囲のオークたちが集まり始めた。
「アイアンハイドだ!」
誰かが叫ぶ。
「どこで見つけた?」
ブロッグは、さらに頭を高く掲げた。
「ゴブリンの森だ!」
オークたちへ見せつけるように、巨大な頭を回す。
「ブロッグの槍を、胸でへし折るほどでかかった!」
集まった者たちから、驚きの声が上がる。
「ブロッグへ突っ込んできた!」
ブロッグは自分の胸を叩いた。
「だが、ロッカが横から体当たりして、吹き飛ばした!」
さらに多くのオークが集まる。
ブロッグは。アイアンハイドが、ロッカの人間鎧を一撃で押し潰したと話した。
ロッカが。壊れた鉄を自分の手で引きちぎったこと。
血を流しながら。鎧もないまま戦い続けたこと。
足首の加護が、さらに強く燃え上がり。獣の爪でも追えないほど速くなったこと。
話すたび。アイアンハイドは大きくなった。ロッカは速くなった。
三度目に語ったときには。アイアンハイドの爪は、アカヤナギの一番高い枝へ届くことになっていた。
「ブロッグは?」
誰かが尋ねた。
ブロッグは待っていたように胸を張る。
「槍を折られても逃げなかった!」
実際には、立てなかったのだが。その説明は省かれた。
「石を投げて、獣の注意を逸らした! ロッカが攻撃する隙を作った!」
焚き火の端。
ロッカは地面へ座っていた。肉を手で裂き。黙って口へ運んでいる。
ブロッグの話にも。アイアンハイドの頭へ集まるオークたちにも。興味がないように見えた。
ルークは剥いだ皮。切り取った爪。残りの戦利品を解体場へ置いた。
それから。採集袋を持ち、捕虜檻へ向かう。
若い女は、小さな檻の前方へ座っていた。
ルークが来ると。すぐに顔を上げる。
今日は料理をする時間がなかった。
代わりに。森で集めておいた木の実と、食べられる果実を格子の隙間から差し入れる。
女は、一つずつ匂いを確かめた。
その後ろで。ブロッグが、戦いの終わりを語り始める。
「アイアンハイドが、ロッカの頭を潰そうと前脚を振り上げた!」
集まったオークたちが静かになる。
「ロッカは首を狙った! だが、獣の爪も同時に迫っていた!」
ブロッグは。頭を持ち上げる腕へ、さらに力を込めた。
「そのとき、ルークが小刀を投げて――」
言葉が止まった。
オークたちが身を乗り出す。続きを待っている。
ブロッグは。すぐには話さなかった。
わざと間を作ったようにも見えた。
だが。その目は、聞いている者たちへ向いていない。
焚き火の端。
ロッカはもう。アイアンハイドの頭を見ていなかった。
集まったオークたちも。ブロッグも。見ていない。
その視線は。捕虜檻の前へしゃがむルークへ向いていた。
ブロッグも、その先を見る。
指が。アイアンハイドの顎の下へ食い込んだ。
「――小刀を投げた!」
声を張る。
「だが、外した!」
何人かが笑った。
ブロッグは頭を高く掲げる。ロッカの視界を塞ぐように。
「その前に、ブロッグが投げた石で、獣の注意を逸らしていた!」
自分の胸を叩く。
「だからロッカは爪をかわした!」
ブロッグは、アイアンハイドの首を指さした。
「そのまま一撃で――」
切り離された断面を見せる。
「首を斬り飛ばした!」
集まったオークたちが吠えた。
拳が上がる。足が地面を踏み鳴らす。
「頭は、その一撃で転がった!」
ブロッグはアイアンハイドの頭をさらに高く持ち上げた。
完全に。ロッカからルークを隠すように。
新しい集団が近づいてきた。
「どうやって殺した?」
誰かが尋ねる。
ブロッグは笑った。
最初から話し直す。
今度は。小刀の話はなかった。
ルークもいなかった。
いたのは。一撃でアイアンハイドの首を斬り飛ばしたロッカ。
そして。その戦利品を持ち帰った、勇敢な狩人ブロッグだけだった。




