第9話 祖霊が選んだオーク(前編)
若い女は、すでに多くのことを覚えていた。
毎日の仕事は単純だ。
朝になると。新鮮な葉を入れた石鉢。先端を丸く削った石の杵。そして、小さな水の器。
その三つが、檻の中へ入れられる。
女は葉を潰し。少しずつ水を加え。濃い緑色の練り薬を作る。
一刻もかからない。
出来上がった練り薬の一部は、前日から血を流したオークたちの傷へ塗られる。残りは薄く延ばして乾燥させ、急な怪我に備えて保管された。
ルークは小さな檻の前へしゃがみ込んだ。格子の隙間から、追加の葉を一掴み差し入れる。
若い女はルークを見なかった。葉を鉢へ加える。
「もう、水を入れる量まで覚えたな」
杵は止まらない。石鉢の中を、一定の速さで回り続ける。
「そこらのオークに作らせるより、よほど出来がいい」
ごり。ごり。ごり。
女は両脚を折り、体の下へ入れるように座っていた。顔へかからないよう。髪は、自分の服から裂いた布で後ろへ結んでいる。
連れてこられたときに全身を覆っていた痣は、もう消えていた。
だが。表情は、集落へ入れられた日から変わっていない。
怯えてはいない。反抗しているようにも見えない。
ただ。見ている。
「俺たちの話を、全部理解しているだろう?」
女は杵を鉢の側面へ押しつけた。葉が、さらに細かく潰れる。
「誰かが話すたび、そいつを見る」
返事はない。
「言われれば動く。使い方を教えられる前から、その杵も扱えた」
女は顔を上げない。
ルークは膝の上で腕を組んだ。
「それほど賢いなら、どうして捕まった?」
杵は止まらなかった。
若い女は、ルークを見ることさえしない。
ルークは待った。
返ってくるのは。石と石が擦れる音だけ。
ごり。ごり。ごり。
「戦士でもない人間に話しかけて、何になる?」
背後から声がした。
ルークは肩越しに振り返る。
数歩離れたところに、ロッカが立っていた。口には、細長い葉を咥えている。
ニガハ。
強い苦味を持つ草だ。噛み続ければ。子を産んだことのない雌でも、乳が出やすくなる。
アカヤナギ茸は十分な量を持ち帰ることができた。治療役が毎日、新しい練り薬を使ったことで。アイアンハイドとの戦いで開いたロッカの脇腹と肩の傷は、すでに塞がっている。
育児穴での役目を、終えたばかりなのだろう。
今日は胸当ても。鎧も身につけていない。
上半身を覆うものが、何もなかった。
ロッカはこれまで、誰との交配も拒んでいた。
子を宿せば。腹が大きくなり。戦士として動けない期間が生まれる。
それが理由だった。
だが。自分の子を産むことを拒んでも。一族の幼子へ乳を与える役目までは、拒まない。
レッドタスク族では。どの幼子も、一族全体のものだった。
ルークはロッカへ一度だけ目を向けた。すぐに視線を外す。
そして。なぜそうするのかを考えるより先に。自分の広い肩へかけていた毛皮を外していた。
ロッカへ差し出す。
「これを使え」
ロッカは毛皮を見た。
次に。ルークを見る。
その顔に、珍しく困惑が浮かんだ。
「何に使う?」
「幼子へ乳を与え終わったなら、体を隠せ」
ロッカはもう一度。毛皮とルークを交互に見る。
それでも、受け取った。両肩へ回し、胸の前で重ねる。
「やはり、おまえは変だ」
「そうか」
「近くに敵はいない」
ロッカは毛皮の端を掴んだ。
「何から体を守る?」
「何からでもない」
「なら、なぜ隠す?」
「いいから着ていろ」
ルーク自身にも。うまく説明できなかった。
寒いわけではない。危険もない。
ロッカが肌を晒していたところで。オークなら誰も気にしない。
以前のルークも。何も思わなかったはずだ。
だが最近。前の人生では当たり前だった感覚が。理由を思い出すより早く、体を動かすことが増えていた。
檻の中で。石が擦れる音が止まっている。
若い女が。ルークからロッカへ、視線を動かしていた。
ロッカは毛皮を肩へ結びつけた。
そして。何の前触れもなく言った。
「私と戦え、ルーク」
ルークは、もう一度ロッカを見る。
挑まれること自体は。それほど意外ではなかった。
アイアンハイドとの戦い以降。ロッカが自分を観察していることには気づいていた。
意外だったのは。彼女がルークの名前を呼んだことだ。
これまでロッカは。ルークを、ほかの狩人の一人としてしか扱っていなかった。
檻の中の女は視線を下げた。再び、葉を潰し始める。
ごり。ごり。
「加護を使え」
ロッカが言った。
石の音が。再び止まった。
今度は。若い女が鉢と杵を抱えたまま、格子の近くへ移動した。
手だけは練り薬を作り続けている。だが。目はロッカに向けられていた。
「アイアンハイドとの傷が、治ったばかりだろう」
ルークが言った。
若い女の目が、ルークへ移る。
「なら、おまえのほうが有利だ」
ロッカが答える。
視線は再び、ロッカへ。
「何の意味がある?」
ルークは尋ねた。
「俺は戦士ではない」
若い女がルークを見る。
「それでもオークだ」
今度はロッカへ。
ほんのわずかな動きだった。
だが。一度気づいてしまえば。見落とすことはできない。
二人のどちらかが話すたび。若い女の視線は、その相手へ移っている。
ロッカの目も。ルークから、檻の中の女へ向いた。
若い女の動きを見たのではない。
ルークが、どれほど注意深く捕虜を観察しているか。そちらへ気づいたらしい。
「戦え」
ロッカは言った。
「嫌だ」
「なら」
ロッカは、檻の中の女を顎で示した。
「おまえの飼いものを、目の前で殺す」
ルークは息を吐いた。
レッドタスク族では。役目によって、個人が所有できるものが決まっている。
狩人なら。自分の槍。石小刀。罠。狩猟袋。
獲物を仕留め、集落へ運ぶために必要な道具は持てる。
だが。それ以上は認められない。
戦士なら。自分の武器と鎧。襲撃で奪った戦利品。そして、自ら従えた獣を所有できる。
ブランカがロッカのものであるように。
狩人が犬を育てたとしても。それが獲物を追い。命令を理解し。戦いにも使えるとわかれば。
犬は一族か、戦士へ渡される。
鹿を追うためだけに使うより。敵へ噛みつかせるほうが価値がある。
それが、レッドタスク族の考えだった。
狩りは一族の腹を満たす。必要な仕事だ。
だが。敵を殺し。土地と食料を奪い。捕虜と武器を持ち帰る戦士ほどの誉れはない。
狩人は、襲撃へ誘われることがある。そこで力を証明すれば。戦士に選ばれる可能性もある。
ルークも。ブロッグも。まだ、その手前にいるだけだった。
そしてルークには。捕虜を所有する権利もない。
若い女は、モルグがルークへ負わせた重荷だ。
ルークの食事で養い。逃げればルークが追い。問題を起こせばルークが責任を取る。
だが。彼女そのものが、ルークの所有物になったわけではない。
ロッカが檻から引きずり出し。今ここで殺したとしても。ロッカを罰する者はいない。
なぜルークが反対するのか。理解できない者のほうが多いだろう。
若い女は。殺すと脅されても、表情を変えなかった。
ただロッカを見ている。言葉が終わるのを待つように。
「なぜ、そこまで俺と戦いたい?」
ルークが尋ねる。
若い女の視線が、ルークへ戻った。
「群生地で使った加護を見せろ」
ロッカが言った。
杵が、石鉢の縁へ当たった。
硬い音。
その直後。若い女の視線が。ルークの顔から、体の下へ動いた。
脚。
そして。足首の痣で止まる。
ルークが女を見る。
若い女はすぐに目を伏せた。何も見ていなかったように。再び杵を動かす。
「俺は小刀を投げただけだ」
「その前に、見た」
ロッカが一歩近づく。
「何を?」
「川を横切ったものだ」
ルークは何も言わなかった。
「バロクの加護を使ったとき」
ロッカは、自分の足首へ目を向けた。
「周囲のすべてが遅くなった」
川から跳ねた水は。重い雫となって落ちていた。
アイアンハイドの巨体も。一つ一つの攻撃を追えるほど、鈍くなっていた。
ロッカは、それを思い出すように目を細めた。
「それでも」
ルークを見る。
「私の目で追えないものが動いた」
「アイアンハイドと戦っていたんだ。何を感じてもおかしくない」
「姿は見えなかった」
ロッカは言った。
「動いただけだ」
さらに一歩。
「おまえの立っていた場所から川を渡った」
ルークとの距離が縮まる。
「アイアンハイドの後ろを通り」
もう一歩。
「同じ場所へ戻った」
「俺もバロクの加護を持っている」
ルークは答えた。
「だが、あれでそこまで速く動けないことは、おまえも知っているはずだ」
「私の加護では無理だ」
ロッカは、ルークの前で足を止めた。
「だから」
顔を近づける。
互いの牙が。あと少しで触れそうな距離。
「おまえの加護を、私へ使え」
ロッカの目は逸れなかった。
「祖霊は、価値のないオークに並外れた力を与えない」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だからこそ。一言ずつが、はっきりと聞こえた。
「おまえは戦士たちを置いて逃げ帰った」
ロッカは言う。
「臆病者として生きることを選んだ」
ルークは、その目を見返した。
「それでも」
ロッカの視線が、ルークの足首へ落ちる。
「祖霊の加護は、おまえの中で燃え続けている」
もう一度。ルークの目を見る。
「私は、その理由を知りたい」
「それが、戦いたい理由か?」
「そうだ」
「戦って、何がわかる?」
「祖霊が間違えたのか」
ロッカは答えた。
「それとも」
声が、さらに低くなる。
「おまえが、自分を偽っているのか」
ルークは黙っていた。
少しして。檻の中の若い女へ目を向ける。
女は頭を下げている。
だが。その目は。ルークの足首にある痣から離れていなかった。
ロッカが背を向けた。
「武器を持ってこい」
歩き出す。
「どちらかが血を流すまで戦う」
数歩進んだところで。ロッカは肩越しに振り返った。
ルークから受け取った毛皮が。その背中を覆っている。
「前の襲撃のあとと同じように、臆病者のふりをして逃げるな」
ロッカは言った。
「祖霊が、おまえの何を見たのか」
その口元が。わずかに持ち上がる。
「私に見せろ」
ロッカは去っていった。
しばらくして。石の擦れる音が戻る。
ごり。ごり。ごり。
ルークは檻の中の女を見る。
「今の話を理解していたように見える」
杵は止まらない。
「だが」
ルークは小さく息を吐いた。
「理解していないようにも見えるな」
若い女は顔を上げない。
「おまえを殺すと脅していたんだぞ」
杵は。一度も止まらなかった。




