第2話 祖霊の加護
焚き火は、ほとんど消えかけていた。
赤い光を残しているのは、灰の下に埋もれた炭だけだ。
クラグは倒れた丸太に背を預け、眠り込んでいる。腰には捕まえたリスをぶら下げたまま。満たされた腹の上に片手を置き、口を半分開けていた。
そのとき――
森の奥で、何かが叫んだ。
木々から鳥の群れが一斉に飛び立つ。羽音が森を揺らした。
クラグが跳ね起きた。反射的に腰へ手を伸ばし、石の小刀を掴もうとする。
もう一度、叫び声が響いた。
甲高い。
途中で引き裂かれたような、不規則な声。獣のものなのに、どこか人間の悲鳴にも似ている。
ルークは立ち上がった。
「……今の、なんだ?」
クラグが小声で尋ねる。
だが、その顔を見ればわかる。クラグはすでに答えを知っていた。
育児穴の幼子ですら、話だけなら何度も聞かされている。
「ブラッドマウだ」
ルークが答えた。
年老いた狩人たちは、このレッドタスク族の縄張りに、今も一頭だけ生き残っていると言っていた。
巨大な猫に似た魔獣。
大人のイノシシすら木の上へ引きずり上げる力を持ち、頭から尾の付け根まで、背骨を守る骨の装甲に覆われている。
口を閉じていても、二本の曲がった牙が外へ突き出しているという。
クラグが腰の小刀を握った。指が震えていた。
「走るな」
ルークは言った。
正面の茂みが揺れる。
クラグは消えかけた焚き火へ向かって、ゆっくり後ずさった。
「ブラッドマウ、一頭で狩る。なら、まだ逃げられる」
「駄目だ」
「なんで?」
「逃げれば、おまえを追う」
クラグの喉が鳴った。
ルークよりも小さい。
ルークよりも遅い。
追われた獲物が二つあれば、獣がどちらを選ぶかは考えるまでもない。
「じゃあ、どうする?」
「待つ」
「待つ?」
「腹を空かせていなければ、立ち去るかもしれない」
クラグが、ゆっくりと後ろを振り返った。
ブラッドマウは、すでにそこにいた。
ルークの胸近くまで届く巨体。頭蓋から尾の付け根まで、黒ずんだ骨の板が幾重にも重なっている。
まるで戦士の鎧だった。
青白い毛に覆われた口元には、乾いた血がこびりついている。
口から突き出した二本の牙。
黄色い目が、ルークを見た。
次に、クラグを見る。
小さいほう。
柔らかいほう。
食いやすいほう。
クラグが小刀を持ち上げた。
ブラッドマウが跳んだ。
ルークのほうが先に動いた。
右足首に熱が走る。
普段は古い火傷にしか見えない、生まれつきの痣。その下で、何かが燃え上がった。
光の筋が皮膚を走る。足首を囲み、脛へ巻きつきながら昇っていく。
やがて炎のような紋様となって、ルークの脚に浮かび上がった。
――バロクの加護。
世界が止まったわけではない。
ただ、遅くなった。
消えかけた焚き火から、火の粉が昇っている。
クラグはまだ小刀を持ち上げている途中だった。
ブラッドマウも宙にいる。
大きく開いた前脚。
剥き出しになった爪。
その先にいる幼子へ届くまで、あとわずか。
だが、ルークから見れば。
そのすべてが、泥の中を進んでいるように鈍かった。
三歩。
それだけで十分だった。
クラグが次の息を吸うよりも早く、ルークは二頭の間へ入っていた。
右手を伸ばす。
ブラッドマウの喉を掴んだ。
直後、巨体の勢いがルークへ叩きつけられた。足元の地面がひび割れる。
衝撃を受け、クラグが後ろへ転がった。
ブラッドマウは空中で体を捻った。骨の装甲に覆われた前脚が、ルークの頭へ振り下ろされる。
肩が熱を持った。
二つ目の印が燃え上がる。
光の筋が肩から腕へ走った。
見えない何者かが、肩から握り締めた拳まで、一息に紋様を刻み込んでいくかのように。
正確に。
迷いなく。
――ウルガルの加護。
ルークはブラッドマウの喉から手を離した。
そして、その頭蓋の横へ拳を叩き込んだ。
石と石を打ち合わせたような音が響いた。
いや。
石が砕けた音だった。
ブラッドマウの巨体が真横へ吹き飛ぶ。松の幹をへし折り、地面を何度も転がった。
最後に大岩へ叩きつけられる。
岩の表面へ、放射状の亀裂が走った。
森に静寂が戻った。
ルークは、自分の拳を見下ろした。
血は出ていない。
皮膚も裂けていない。
骨にも異常はなさそうだ。
背後で、クラグが息を詰まらせるような音を出した。
倒れたブラッドマウの後ろ脚が、一度だけ動く。
それきりだった。
ルークは獣へ歩み寄った。
頭蓋を覆う骨の板が、一枚砕けている。
拳が直撃した部分は内側へめり込み、折れた破片が頭へ突き刺さっていた。
槍傷には見えない。
斧で叩き割った痕でもない。
どう見ても、何か巨大な力で横から殴られた傷だった。
厄介だ。
「ルークが殺した!」
クラグが叫んだ。
ルークは答えなかった。
「片手で! 斧もない! 槌もないのに!」
クラグは興奮を隠そうともしない。いつの間にか石の小刀を抜き、ブラッドマウの死体へ近づいていた。
口元には、今にも涎が垂れそうな笑みが浮かんでいる。
ブラッドマウは、死体になっても価値が高い。
皮は丈夫だ。
二本ある牙は、片方だけでも鉄の刃物と交換できる。相手によっては、二本手に入るかもしれない。
背中を覆う骨の板は加工すれば、槍の穂先すら防ぐ鎧になる。
普通なら、これを集落へ持ち帰るだけで大騒ぎになる。
普通なら。
幼子が森の奥へ入りすぎれば、ブラッドマウに食われる。
大人の狩人が何人も揃って、ようやく追い払えるかどうかという魔獣だ。
そんなものを、狩人でも戦士でもないルークが、幼子を一人連れただけで持ち帰る。
当然、誰もが尋ねるだろう。
どうやって殺したのか、と。
ここへ捨てていくこともできない。
いずれ誰かが死体を見つける。
足跡を調べる。
そして結局、同じ疑問へたどり着く。
真実を話すのは、さらにまずかった。
ルークはブラッドマウの隣へしゃがみ込み、クラグと一緒に傷口を調べるふりをした。
クラグはルークの顔を見る。
それから、右足首へ視線を落とす。
次に、肩と腕。
二つの印はまだ淡い光を残していたが、少しずつ元の痣へ戻りつつあった。
「ルーク、デュラグより強い!」
「違う」
「でも、ブラッドマウ殺した!」
「こいつは岩に頭をぶつけたんだ」
「ルークが殴って、岩にぶつけた!」
「おまえの記憶力は、驚くほど頼りにならないな」
ルークは倒れた松を指さした。
「ブラッドマウは焚き火のそばで足を滑らせた。そのまま木を一本折って転がり、岩に頭をぶつけた」
クラグは口を開けたまま、ルークを見つめた。
「それ、すごく下手な嘘だぞ!」
「嘘ではない」
「嘘だ! ルークが殴った! 印も光ってた! 戦士が使うやつだ!」
ルークはクラグを見た。
「知っていたのか?」
「知ってる!」
クラグは胸を張った。
「祖霊の加護だ!」
「なるほど。少しは勉強しているらしいな」
「当たり前だ!」
クラグはさらに胸を張ろうとした。
もともと薄い胸なので、大した違いはなかった。
「なら、ルークも戦士だ! しかも加護が二つある!」
クラグは首を傾げる。
「なんで今は狩人みたいな仕事してる?」
クラグは間違っていた。
ルークが持つ加護は、二つではない。
三つだ。
最初の加護が目覚めたのは、初めて襲撃へ参加するよりも前だった。一族の決まりに従い、ルークはその日のうちに戦士として認められた。
レッドタスク族の全員が、その最初の印について知っている。
だが、二つ目と三つ目が目覚めたのは、二年前の事件の最中だった。
誰にも見られていない。
目撃者は、一人も残らなかった。
帰ってきたのは、ルークだけだった。
オークの戦士は、一つでも加護に目覚めれば幸運だ。生涯目覚めない者のほうが多い。
三つの加護を持つ者など、ルーク自身もほかに知らない。
だが、数が問題なのではなかった。
あの日。
人間の勇者たちが、レッドタスク族の戦士を次々と殺していく中で。
ルークは知ってしまった。
自分の皮膚の下に眠る力が、ほかのオークたちの加護とは比べものにならないほど強いことを。
死体が増えていく。
血の匂いが濃くなる。
人間の刃がルークへ振り下ろされる。
その瞬間。
体の奥で、何かが目覚めた。
その後のことを、ルークは今でも鮮明に覚えている。
自分で選んだわけではない。
自分で戦った感覚もない。
まるで、自分の目の奥から。
誰かが自分の体を使うところを、ただ見ているだけだった。
意識が戻ったとき。
人間の勇者たちは全員死んでいた。
谷は炎に包まれていた。
その中心に、ルークは立っていた。
傷一つない姿で。
そして同じとき。
前の人生の記憶も戻っていた。
この世界とはまるで違う場所で、人間の貴族として生きていた男の記憶。
ルークは集落へ戻り、死体の下敷きになって気を失っていたと説明した。
信じた者はいなかった。
戦いが始まる前に逃げ出し、すべてが終わってから戻ってきた。
皆は、そう結論づけた。
それでよかった。
臆病者だと思われるほうが、安全だった。
強さで生き残ったと思われるより、ずっと。
ルークはブラッドマウの後ろ脚を掴んだ。
「よく聞け」
クラグが顔を上げる。
「おまえは、こいつが俺たちへ襲いかかったところを見た」
「うん」
「こいつは焚き火のそばで滑った」
クラグの眉間に皺が寄る。
「それから、あの木にぶつかって倒した」
クラグは真っ二つになった松を見る。
「最後に岩へ頭を打ちつけて、頭蓋を割った」
クラグは亀裂の入った岩を見る。
「……それ、やっぱり下手な嘘だ」
「集落では、その下手な嘘を真実として話せ」
「なんで?」
クラグは本気で理解できないようだった。
「ルークが倒したって言えば、ルークが一族最強になれる!」
「言えば、俺はまた戦士にされる」
「戦士、強いぞ」
「常に見張られる。何度も戦いを挑まれる。襲撃にも送られる」
ルークはクラグを見る。
「そうなれば、料理する時間がなくなる」
クラグが黙った。
料理する時間がない。
その一点だけは、かなり深刻な問題として伝わったらしい。
「ルーク、強い。でも強いって知られたくない」
クラグは考え込む。
「やっぱり変だ。みんながルークを変って言うの、たぶんそれだ」
「今は秘密にしておけ」
ルークは静かに続けた。
「話したら、二度とおまえに肉を料理してやらない」
クラグの目が大きく見開かれた。
「秘密にする!」
返事が早い。
「これでクラグ、秘密を二つ持った」
クラグは指を二本立てた。
「ルークとクラグが肉を焼いて食うこと。それと、ルークがブラッドマウを殺したこと」
「その通りだ」
ルークは頷いた。
「賢いオークだ。呪術師に向いているかもしれない」
「嫌だ。クラグは戦士になる」
「そうか」
「呪術師、変な布を着て、棒持ってる。格好悪い」
「杖だ」
「格好悪い杖」
ルークは焚き火の跡を崩した。
残った炭を散らし、まだ熱を持つ部分へ土をかぶせる。煙が完全に止まるまで、何度か踏み固めた。
その間に、クラグは腰へ落としたリスを拾い直す。
ルークはブラッドマウの巨体を持ち上げ、片方の肩へ担いだ。
次に鹿のところまで歩き、そちらも反対の肩へ持ち上げる。
クラグは、しばらくルークを見上げていた。
「どうした?」
「何でもない」
どうやら、また何か言えば秘密が増えると考えたらしい。
二人がレッドタスク族の集落を見下ろす尾根へ着いたころには、太陽が木々の向こうへ沈みかけていた。
集落の中央では、大きな焚き火が燃えている。橙色の光が、毛皮の天幕や丸太造りの小屋を照らしていた。
ほかの狩人たちが持ち帰った獲物も、すでに夕食のために解体され始めている。
肉の匂い。
煙の匂い。
言い争う声と、骨を割る音。
いつもの夕暮れだった。
木の柵をくぐり、ルークとクラグが集落へ入った。
話し声が止まった。
いくつもの視線が、二人へ集まる。
最初に見られたのは、ルークの肩にある大きな鹿だった。
次に。
その反対側へ担がれた、鹿よりもはるかに巨大な魔獣。
誰もが口を閉ざした。
ルークは少しだけ身を屈め、隣を歩くクラグへ囁いた。
「秘密を忘れるな」
クラグは真剣な顔で頷いた。
「クラグ、覚えてる」




