第1話 料理をするオーク
ルークは今、オークとして恥ずべきことをしていた。
肉を焼いている。
いや、ただ腹を壊さないよう火を通しているのではない。血を抜き、食べにくい部分を取り除き、火加減まで調整して。
きちんと料理していた。
拳ほどの小さな焚き火の上で、一羽の兎がゆっくりと回っている。こんがりと焼けた皮を脂が伝い、炭の上へ落ちた。
じゅっ、と小さな音が鳴る。
悪くない。
ルークは枝の隙間を抜けていく煙を見上げた。
「……多いな」
焚き火を囲む石を動かし、空気の通り道を狭める。火が弱まり、煙も細くなった。
匂いまでは消せない。
だが、幸いにも風は集落とは反対へ吹いている。誰かに気づかれる可能性は低いだろう。
たぶん。
少し離れた木の下には、大きな鹿が倒れていた。
喉はすでに切り開いてある。後ろ脚も、集落まで引きずって帰れるよう縄で縛ってあった。一人で運ぶには骨が折れる大きさだ。
戻るのが多少遅くなっても、誰も不審には思わない。これだけの獲物を仕留めたのだ。運ぶ前に少しくらい休んでも、罰は当たらないだろう。
問題は兎のほうだった。
朝のうちに罠へかかっていたものを、採集袋の奥へ隠しておいた。狩りの途中で兎を一羽食べたところで、誰も気にはしない。
だが、集落へ持ち帰る前の鹿から肉を切り取れば話は別だ。
柵の内側へ運び込まれた獲物は、レッドタスク族全員のものになる。持ち帰る前に自分の分を抜き取ったと知られれば、余計な詮索を招くだろう。
そのためルークは、鹿に煙の匂いがつかないよう、少し離れた窪地に火を起こしていた。
我ながら慎重なものだ。
少なくとも、木の陰にしゃがみ込み、生の臓物へ顔を突っ込むよりはよほど上品である。
レッドタスク族の連中がどう思おうと。
ルークは石の小刀を取り、兎の肉へ先端を差し込んだ。切れ目から透明な肉汁がにじみ出る。
中まで火は通っている。
完成だ。
焚き火の脇には、ニガネが一握り、野生タマネギが二つ、アカガサ茸が三本置かれていた。どれも幅広い葉で包み、炭の下へ埋めてある。
塩もない。
油もない。
鍋どころか、まともな器すらない。
これでは料理と呼ぶのも少々苦しい。それでも食べられるものにはなる。
運がよければ、それなりにうまいかもしれない。
ルークが兎を火から外した、そのときだった。
背後で枝が折れた。
ルークは振り返らない。
「出てこい」
返事はなかった。
茂みも動かない。
ルークは兎の後ろ脚を一本もぎ取った。
「わざわざ立たせるな。機嫌が悪くなる」
松の木の陰から、一人の幼いオークが姿を現した。
レッドタスク族の基準では、かなり細い。肩幅は狭く、腕にも大人のオークらしい太さがない。下顎から伸びる牙も、ようやく先端が見え始めた程度だった。
両脚は膝まで泥にまみれ、腰の縄には死んだリスが一匹ぶら下がっている。
クラグ。
育児穴で暮らしている幼子の一人だ。
クラグは、ルークの手にある兎をじっと見つめた。
「ルーク、焦がした」
「料理したんだ」
「料理?」
「これだ。今、俺がやっていること」
「黒いぞ」
「茶色いところもある」
「外、死んでる」
ルークは兎を見下ろした。
「兎なら全部死んでいる」
「違う。ルーク、血まで殺した」
「わざとだ」
「なんで?」
「火を通した肉のほうがうまいからだ」
クラグの顔から嫌悪が消えた。
代わりに浮かんだのは疑いだった。
「なんでルーク知ってる?」
ルークは兎の脚へかぶりついた。皮は香ばしく焼けている。中の肉も柔らかい。
やはり塩が欲しかった。
切実に。
「経験だ」
クラグが少しずつ火へ近づいてくる。鼻がひくひくと動いていた。
ルークは気づかないふりをした。
幼いオークは、働ける年になるまで育児穴でまとめて育てられる。誰がどの女から生まれたのか、気にする者はいない。大人を父や母と呼ぶこともなかった。
レッドタスク族は、自力で立てるところまで育った幼子には食わせる。立つことすらできなかったものは捨てる。
そして食わせてもらう代わりに、幼子も働いた。
クラグはすでに、罠で小動物を捕まえ、薪を拾い、自分から厄介事へ首を突っ込める年頃だった。
そのクラグは今も、兎から目を離さない。
「うまいのか?」
「いや」
クラグの目が細くなった。
ルークはもう一口食べる。
「じゃあ、なんでまだ食べる?」
「肉を捨てるのは、狩りへの侮辱だからだ」
「なら、血があるうちに食えばいい。新しい血のほうがうまいぞ」
「塩が足りない。香辛料も欲しい」
「塩ってなんだ?」
ルークは説明しようかと考えた。
やめた。
説明したところで、この幼子には通じまい。
「気にするな。俺はこうして食べるほうが好きなんだ」
「長老の言った通りだ」
クラグは納得したように頷いた。
「ルーク、変」
そう言いながらも、その目は兎に釘づけだった。
ルークはため息をつき、残った後ろ脚をもぎ取る。放ってやると、クラグは両手で受け止めた。
「ゆっくり食べろ」
クラグはすぐさま肉へ牙を突き立てた。
目が見開かれる。
二度噛み、飲み込み、今度は夢中になって食らいついた。ゆっくり食べろと言った意味は、まるで伝わっていないらしい。
ルークは何も言わず、クラグが骨から肉を削ぎ落としていくのを眺めた。
やがて、白い骨だけが残った。
「これ、うまい」
クラグは断言した。
「知っている」
「ルーク、嘘ついた。うまくないって言った」
「うまいが、まだ足りない」
「何が?」
「おまえは質問が多すぎる」
クラグは指についた脂を舐め取った。
「兎は全部こうなるのか?」
「料理すればな」
「イノシシもできる?」
「できる」
「鹿は?」
「できる」
「馬は?」
「たぶん」
「エルフは?」
ルークはクラグを見た。
クラグは小さく肩をすくめる。
「クラグ、まだ食べたことない」
「食べるなと頼めるものは食べるな」
「頼み方が下手でも?」
「駄目だ」
「でもデュラグ、人間食うぞ」
「あいつは一族最強の戦士だ。強く見せる必要があるんだろう」
「ならクラグ、一族最強になる。それで人間を料理する」
「それでも駄目だ」
クラグは不満そうに喉を鳴らした。規則に例外を認めないルークの態度が、気に入らなかったらしい。
ルークは炭をどけ、埋めていた葉包みを取り出した。
ニガネは柔らかくなっている。野生タマネギは崩れかけ、甘い匂いのする層へ変わっていた。
ルークはそれらを半分に分け、クラグへ差し出す。
クラグは焼けたタマネギを怪しそうに見つめた。
「それ、採集役の食い物だ。幼子が食うやつだ」
クラグはルークを見上げる。
「ルーク、弱いもの食う」
「そうか。なら、おまえは弱くないんだな。今日は何を捕った?」
「クラグ、リス捕った!」
クラグは腰にぶら下がった獲物を得意げに持ち上げた。
「なら要らないな」
「いる!」
「言うことが違うぞ」
「クラグはまだ弱い。採集役の食い物、寄越せ」
クラグはそれ以上の追及を避けるように、タマネギを丸ごと口へ押し込んだ。
何度か噛む。
それから、手元に残った分を見下ろした。
「火を使った採集役の食い物も、うまい!」
ルークはわずかに笑った。
十六歳のルークは、すでに大人のレッドタスク族と変わらない大きさまで育っている。オークは成長が早い。人間が見たとしても、ルークを少年だとは思わないだろう。
隣にいるクラグなど、立ち上がってもルークの腰に届くかどうかだ。
ルークの骨格は広く、体つきも頑丈だった。ただし、レッドタスク族の戦士たちが好むほど、筋肉が異様に膨れ上がっているわけではない。
それでよかった。
体の大きな戦士は注目される。
強い戦士は挑まれる。
野心があると見なされた戦士は、襲撃へ送り出される。
名誉を抱えて帰るか。
二度と帰らないか。
そのどちらかになるまで、何度でも。
だが、根を掘り、壊れた柵を直し、解体した獲物を運ぶだけのオークを気にする者はいない。
誰にも見られない。
誰にも期待されない。
侮られるというのは、存外自由なものだった。
ルークは、それを前の人生で学んでいた。
磨き上げられた長机。
四十人が並んで座れるほど広い食堂。
国境をどこへ引くか。
穀物へどれだけ税をかけるか。
一度も会ったことのない男女を、どの家の都合で結婚させるか。
そんな話ばかりをしていた者たち。
物資の数を間違えるたび、教師に指の関節を棒で叩かれたことも覚えている。
物資を数え間違える貴族は、敵の刃と同じだけ兵士を殺す。
そう教えられた。
人々の顔は、今も記憶に残っている。だが、その顔に抱いていたはずの感情は、すでに遠い。
かつての名前も覚えていた。
ただ、それが自分の名だとはもう思えなかった。
あれは別の男の人生だ。
今の彼は、ルークだった。
クラグはタマネギを食べ終え、空になった葉の包みを覗き込んだ。
「もうない」
「大発見だな」
クラグは木の下に倒れている鹿を指さした。
「あれ焼け」
「あれは集落のみんなのものだ」
クラグは真剣な顔で考え込んだ。
やがて答えを思いつき、顔を上げる。
「なら、また兎捕る」
「俺たちが?」
「そうだ。ほかのやつにも兎を焼く。みんながうまいって言ったら、鹿も全部焼ける」
「つまり、おまえは焼いた肉が気に入ったんだな」
クラグは小さな骨を牙で噛み砕いた。中の髄を吸いながら答える。
「うん。うまい。新しい血の肉のほうがもっとうまいけど、焼いた肉もうまい」
ルークの手が止まった。
自分の料理をうまいと言ったオークは、クラグが初めてだった。
これまでにも何度か、料理しているところをほかのオークに見つかったことはある。興味を持った者には味見もさせた。
だが、一口食べれば十分だった。
変な味だ。
わざわざ火を使う意味がない。
そう言って、二口目を欲しがる者はいなかった。
クラグは二本の小さな牙を見せて笑っている。
「わかった。ときどき一緒に狩りをしてもいい」
ルークは残った肉を口へ運んだ。
「ただし、これは秘密だ」
「なんで?」
「俺が肉を料理していると知られるだけなら、別に構わない。だが、おまえの場合は少し違う」
レッドタスク族は、肉を料理したくらいでルークを殺しはしない。もともと変わり者だと思われている。恥ずかしい癖が一つ増えたところで、大した違いはない。
だが、クラグはまだ幼子だ。
これから一族の中で、自分の立場を勝ち取らなければならない。
戦士になるのか。
狩人になるのか。
それとも、いつまでも雑用しか任されないオークになるのか。
まだ何も決まっていない。
そんな時期にルークの真似をしていると知られれば、力を証明する前から弱者の烙印を押される。
ルーク自身が笑われるのは構わなかった。
だが、その笑いをクラグにまで背負わせるつもりはない。
ところがクラグは、何かを理解したように目を輝かせた。
「わかった!」
本当にわかったのだろうか。
「秘密にする。誰にも言わない。そうすれば、全部クラグとルークで食べられる!」
やはり、わかっていなかった。
「少し違うが、秘密にするならそれでいい」
ルークは肉のなくなった骨を地面へ置いた。
クラグの笑みが、わずかに弱まる。
オークも肉を焼くことはある。
大きな獣の肉が硬すぎて、生では噛み切れないとき。あるいは、ごくまれに食べ切れないほど巨大な獲物が手に入ったとき。
だが、それは料理ではない。
食べるために仕方なく火へ放り込んでいるだけだ。
ルークのやっていることは違った。
肉を洗う。
臭みの強い腺を取り除く。
苦い部分を切り落とす。
腹を満たすためではなく、味をよくするために草や根を探す。
そんなことをするオークは、レッドタスク族にはいない。
肉を料理したからといって、殺されることはないだろう。
ただ笑われる。
変わり者だと。
弱いやつのすることだと。
だが、もしほかの者まで真似を始めたら。
とりわけ、クラグのような幼子たちが真似をしたら。
それはよくない。
ルークにとっては、笑われることよりも、そちらのほうがよほど厄介だった。




