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第10話 沈黙の代価

 決闘から、数日が過ぎた。


 レッドタスク族の集落には。すでに夜が降り始めている。


 ルークは、小さな檻へ向かって歩いていた。


 左腕は革紐で作った吊り帯に収め、胸の前へ固定してある。腫れは、かなり引いた。


 だが。少しでも不用意に動かせば。手首から肩まで、鈍い痛みが走る。


 右手には、広い葉で包んだ夕食を持っていた。


 檻の横では。トクが人間の長剣を研いでいる。


 人間なら。両手で扱うための武器だろう。


 だが。トクの太い腿へ載せられると、少し長い剣にしか見えなかった。


 ルークは。トクがその剣を使っているところを、一度も見たことがない。


 トクは戦士だった。


 だが。襲撃へ出るより。門や柵。捕虜檻の見張りを任されることのほうが多い。


 トクが持つ、ラゴンの加護。


 それは。敵の攻撃を受けても、体を壊れにくくする力だ。


 敵がどれほど強いのか。トクは、まず自分をどれほど強く殴れるかで測る。


 最初の一撃を受け止め。敵を足止めする。


 集落を守る見張り役は。ラゴンの加護を持つトクに、最も合った役目だった。


 トクは。集落の戦士の中でも、多くの武器を所有している。


 斧。槍。曲がった刃。人間の長剣も、何本か。


 襲撃で手に入れたものは少ない。


 多くは。自分の力を試そうと、レッドタスク族の縄張りへ踏み込んだ冒険者たちが残したものだった。


 運のよい者は。集落へ近づく前に逃げる。


 少し興味深い者は。武器だけを残していく。


 トクは。良質な金属で作られたもの。珍しい形を持つもの。柄や鍔に、作り手の工夫が残るものを集めていた。


 刃を研ぎ。錆を落とし。必要なら、自分の手に合うよう柄を作り直す。


 そして。満足すると、ほとんど使わずにしまい込む。


 今夜も。トクは剣だけを見ていた。


 ルークが近づいても。顔を上げない。


「鹿」


 トクが言った。


 砥石が、長い刃を擦る。


「野生タマネギ。木の実」


「よい鼻だな」


「毎晩、似たような匂いを持ってくる」


 小さな檻の中では。若い女が、すでに格子の近くへ座っていた。


 集落へ連れてこられてから、つい最近まで。ルークが食事を中へ入れ。檻から離れるまで。女は奥の格子から動かなかった。


 だが今では。ルークが来る時間を覚えている。


 夕方になると。外から続く道が見える位置へ座り。彼が現れるのを待っていた。


 女の視線は。最初に、ルークの左腕へ向いた。


 吊り帯。


 そのあとで。右手の葉包みを見る。


 ルークは檻の前へしゃがんだ。格子の隙間から、葉包みを差し入れる。


 女は。中身が傾く前に両手で受け取った。


 葉を開く。


 中には。細く切った鹿肉。野生タマネギ。潰した木の実と果実を混ぜたもの。


 女は焼いた肉を一切れ取り。静かに食べ始めた。


 トクの目が。一度だけ、ルークの左腕へ向いた。


「まだ、それをつけているのか?」


「つけている」


「外せ」


 砥石が動く。


「弱く見える」


「折れた腕を、動かないようにしている」


 ルークは答えた。


「今のところ、実際に弱い」


「骨が折れただけだ」


 トクは言う。


「ウルガルを受け止めたあとでな」


「受け止めたのは、ブラッドマウの骨板だ」


 砥石が止まった。


 トクは。人間の長剣の平を、太い指で叩いた。


「骨板が止めたのは刃だ」


 低い音。


「力までは止めていない」


 ルークは答えなかった。


 トクは。ラゴンの加護を持っている。


 普通のオークなら、体を砕かれる攻撃にも耐えてきた。ウルガルで強化された一撃も。一度や二度ではない。


 トクは。その重さを知っている。


「昔」


 トクが言った。


「デュラグに殴られて、両足が地面へ埋まったことがある」


 再び砥石を動かす。


「ラゴンがなければ、肋骨は体の外へ出ていた」


 砥石が。一定の速さで刃を擦る。


「ウルガルの重さは知っている」


 ルークは。自分の吊り帯を見る。


 トクの考えは間違っている。


 ロッカの斧は。ブラッドマウの骨板だけでは止められなかった。


 毛皮の下で。ラゴンの力を、わずかに呼び起こしていなければ。左腕だけでは済まない。胸まで潰されていた。


 だが。トクはその可能性を考えていない。


 ルークがバロク以外の加護まで持つとは。思ってもいないのだろう。


 だから。別の答えへ辿りついた。


「ロッカは、ウルガルの力をすべて使わなかった」


 トクが言った。


 ルークも。それはわかっていた。


「手加減したのか?」


 ルークは小さく笑う。


「ロッカは、それを恥だと思うだろう」


「優しさで手加減したんじゃない」


 トクは剣から目を離さない。


「斧を振る前に、どれほど力を出すか決めていた」


 砥石が。刃の同じ場所を何度も通る。


「大抵のオークなら死ぬ」


「だが」


 トクの目が、ルークへ向く。


「おまえなら、耐えるかもしれない」


 ルークは黙っていた。


「ロッカは、そういう強さを選んだ」


 女が肉を噛む速さが。わずかに遅くなった。


 表情は変わっていない。


 それでも。視線だけが。ルークとトクの間を動いている。


「なぜ、そんなことを?」


 ルークが尋ねた。


 トクは。なぜわからないのかという顔で、ルークを見た。


「おまえが、どれほどのオークか測った」


 それだけ言うと。再び、剣へ視線を戻した。


「ロッカは、グアーグの座を欲しがっている」


「もう、秘密ではないな」


 グアーグとデュラグは。ひと月以上前に集落を離れた。


 東へ向かう大きな襲撃のため。ほかの三つの一族から集まった戦士たちと、戦団を作ったのだ。


 二人が留守の間。ロッカは何度も襲撃を率いた。


 決闘の前なら。戦利品を欲しがっているだけだと考える者もいただろう。


 だが。ロッカがバロクとウルガル。二つの加護を持つと知った今。その意図を疑う者は少ない。


 二つの加護があれば。族長へ挑むだけの力はある。


 だが。グアーグを倒せることと。その後もレッドタスク族を従えられることは、同じではない。


「グアーグには、デュラグがいる」


 トクが言った。


「それに、デュラグの角笛へ応じてきた戦士たちもいる」


 デュラグの角笛が鳴れば。戦士たちは武器を持ち。その後ろへ集まる。


 何度も同じ角笛のもとで戦えば。命令へ従うだけではなく。角笛を鳴らす者そのものへ、忠義が生まれる。


「ロッカがグアーグの腕を折っても」


 トクは続ける。


「そいつらは残る」


 刃の角度を変える。


「グアーグを殺せば別だが」


 砥石が、かすかに鳴った。


「簡単ではない」


「だから、自分の戦士が必要になる」


「グアーグが戻る前に集めている」


 ルークは。決闘のあとで呼ばれた名前を思い出した。


 あれは。次の襲撃へ参加する者を、選んだだけではない。


 ロッカが。自分の隣へ立たせたいオークを。一族全員の前で示したのだ。


「おまえの名も呼ばれたな」


 ルークが言った。


「呼ばれた」


「それでも、檻を見張っている」


「断った」


 ルークはトクを見る。


 トクは。何事もなかったように剣を研いでいた。


「次の獲物は、人間の村だ」


 トクが言う。


「農民は、よい武器を持っていない」


「それが断った理由か?」


「城壁のある町を襲うときに呼べと言った」


 トクは、剣の刃を持ち上げる。焚き火の光を反射させ。研ぎ残しがないか確かめる。


「兵士が三十人以上いる町だ」


「ロッカは、それを受け入れたのか?」


「今度の襲撃で」


 トクは、刃の一か所へ目を留めた。再び砥石を当てる。


「その町を攻めるための物資を集めると言った」


「言い争わなかった?」


「しなかった」


 ルークには。グアーグならどうするか、想像できた。


「グアーグなら」


 ルークは言った。


「拒否を命令違反と呼ぶ」


「呼ぶ」


「デュラグなら、門まで引きずっていく」


「そして」


 トクが鼻を鳴らした。


「文句は襲撃が終わってから言え、と言う」


 グアーグは。レッドタスク族を強くするものなら、何でも認める。


 デュラグは。その強さを。暴力と恐怖で、目に見える形にする。


 ロッカは。少なくとも今は、別の方法を使っていた。


 強いオークへ。自分の側へ立つ理由を、一人ずつ与えている。


 トクには。強い敵。そして。珍しい武器を手に入れる機会を。


「ロッカは」


 ルークが言った。


「おまえに、自分で従うことを選ばせたいらしい」


 トクは喉を鳴らした。


「自分で選んだ角笛なら」


 砥石を持つ手は止まらない。


「戦いが悪くなったくらいで、別の角笛へ走らない」


 ロッカがそれを。族長になったあとも続けるのか。


 それとも。座を得るまでの方法にすぎないのか。


 まだ、わからない。


 ロッカもまた。誇りの高いオークだ。


 力で従わせられる立場を得れば。グアーグと同じ方法を選ぶ可能性もある。


 だが今。彼女が集めているのは。命令に従うだけの戦士ではない。


 自分のために角笛へ応じる者たちだった。


 ルークは。決闘のあとで呼ばれた名前を、もう一度思い返した。


 一人ずつ。ロッカの側へ立つ理由が違う。


 戦利品。地位。強い敵。新しい戦団での居場所。


 では。ルークには、何を与えたのか。


 ロッカは。ルークへバロクを使わせた。


 ウルガルの一撃で。ルークがどこまで耐えられるのか試した。


 破れた毛皮の下で。ラゴンの痣を見た。


 そして。一族へ何も告げなかった。


 まだルークの血が。地面へ落ちている間に。全員の前で、彼の名を呼んだ。


 一つずつなら。気まぐれで済ませられたかもしれない。


 だが。すべてを並べれば。そこには意図がある。


 ロッカは。優しさで秘密を守ったのではない。


 ルークを。自分にとって使えるものとして、生かした。


 守ったのは。ルークの自由ではない。


 秘密だ。


 その沈黙が。誰にも見えない革紐となって。ルークへ結びつけられている。


 ロッカが秘密を守る限り。ルークは、彼女の呼びかけを無視しにくくなる。


 沈黙の代価。


 それは。ロッカの角笛が鳴ったとき。ルークが、そのもとへ立つことだ。


 ルークの目が。一度だけ、檻の格子へ向いた。


 若い女が。こちらを見ている。


 食べかけの肉を、指の間へ持ったまま。動きを止めていた。


 表情からは。何も読み取れない。


 だが。ルークたちが思う以上に。話を理解しているのかもしれない。


 ルークはトクへ向き直った。


「おまえは、ロッカを支持するのか?」


「俺は」


 トクは剣の刃を指先で確かめた。


「持ち帰る価値のある武器が手に入る襲撃を支持する」


 答えにはなっていない。


 だが。トクがそれ以上答えるつもりがないことだけは、よくわかった。


 ルークは小さな檻へ目を戻した。


 若い女は。食べるのをやめている。


 開かれた葉の上には。まだ半分以上の肉が残っていた。


「どうした?」


 ルークは人間語で尋ねる。


「口に合わなかったか?」


 女はルークを見る。


 返事はない。


「おまえの飼いものは、もう腹が満ちたんだろう」


 トクが言った。


 女の目が。トクへ向いた。


 その視線に。ほんのわずか。不快そうなものが浮かぶ。


 今夜。初めて見せた変化だった。


「飼いものではない」


 ルークは言った。


「それに、なぜ満腹だとわかる?」


「おまえは、昼ごろには狩りへ出ていることが多い」


「そうだな」


「その間に」


 トクは砥石を動かしたまま答える。


「育児穴の幼子が何人か来る」


 ルークは。女の手を見る。


 二本の指先に。濃い色の果汁がついていた。


「何をしに来る?」


「木の実や果実を、格子へ押し込む」


「なぜ、食べ物を?」


「傷を見せるからだ」


 トクが言う。


「こいつが、緑の薬を塗る」


「その礼か」


「次の日に、食べ物を持ってくる」


 ルークは女を見る。


 女は。食べ残した肉を一切れ、広い葉の上へ戻した。


 落ち着いた動きだった。


「治療役に見せるほどの傷なのか?」


「違う」


 トクは言った。


「だから、こいつに見せる」


 少し間を置く。


「とくに、薬が必要ない傷をな」


 ルークには。光景が想像できた。


 幼子たちは。腕や脚へついた小さな擦り傷を見せる。


 なければ。古い傷を見せる。


 それでも足りなければ。棘で少し皮膚を引っかく者までいるかもしれない。


 若い女は。練り薬を指へ取り。その傷へ塗る。


 幼子たちは翌日。森や集落の端で拾った食べ物を持って戻ってくる。


 檻から一歩も出ず。一言も話さず。


 それでも女は。育児穴の幼子たちとの間に、自分だけの取引を作っていた。


 ルークが狩りへ出ている間に。檻を中心として。小さな生活が始まっている。


 ルークだけが。それを見落としていた。


 砥石の動く速さが。少しずつ遅くなっている。


 トクの目は。若い女が包み直そうとしている肉へ向いていた。


「食わないなら」


 トクが言った。


「俺へ寄越せ」


 ルークはトクを見る。


 今夜。ロッカについて聞いたどの話より。その言葉のほうが意外だった。


「焼いた肉を食べたことがあるのか?」


「ない」


「なら、口に合わないかもしれない」


「焼いたくらいで」


 トクは剣から目を上げない。


「肉が肉でなくなるわけじゃない」


「匂いも妙だぞ」


「毎晩嗅いでいる」


 トクは言った。


 言ってから。砥石へ少し強く力を入れた。


「食えないとは思わない」


 若い女は。トクから。折り畳みかけた葉包みへ視線を移した。


 少し考える。


 それから。包みを檻の扉へ向かって押した。


 格子を背にして横になり。二人へ背中を向ける。


 トクが欲しがっていることを。十分に理解したらしい。


「食べていいぞ」


 ルークは言った。


「朝まで置けば、今より味が落ちる」


 トクは。剣を研ぎ続けた。


 すぐには動かない。


 砥石が。一度。二度。三度。刃の上を通る。


 ルークは待った。


 トクの目は剣へ向いている。


「食べないのか?」


「食う時は、俺が決める」


「さっきから、ずっと見ていただろう」


 砥石が止まった。


 トクが。ゆっくりと顔を上げる。


「おまえの顔を見ていると」


 低い声。


「食欲がなくなる」


「それは残念だ」


「焚き火へ戻れ」


 ルークは立ち上がった。


「わかった」


 小さな檻の中では。若い女が背中を向けている。


 だが。眠ってはいないだろう。


 ルークは歩き出した。


 一歩。二歩。三歩。


 五歩も進まないうちに。


 背後で。木の留め具が持ち上がる音がした。


 葉が擦れる。


 すぐに。留め具が元の場所へ落ちる。


 そして。肉を噛みちぎる音。


 少しの間。何も聞こえない。


 次に。もう一口。


 ルークは振り返らなかった。


 そのまま中央の焚き火へ向かう。


 だが。口元へ浮かんだ笑みだけは。隠せなかった。


 クラグだけではなくなった。


 ルークの焼いた肉を口にして。二口目まで食べるオークが。


 また一人、増えた。

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