9.厄介事
叶慧と桂太は、連れ立って学校の裏庭を歩く。
時折頭上から降り注ぐ、学生たちの賑やかな声を浴びながら角を曲がると、ひらけたアスファルトの広場に行きついた。
来客用の駐車区域には、車がまばらに止まっている。その中の一台を見止め、叶慧は桂太に声をかけた。
「じゃあ、私はこれからまた裏庭に戻るから、君はこのまま帰ってくれ。……ご苦労だったな」
桂太は頷く。
「勿体ないお言葉です。それでは失礼致します。お嬢も午後からの授業頑張ってくださ……」
言いかけた桂太は、言葉を途中で切った。縫い留められたかの如く動きが完全に止まり、瞳が大きく見開かれていく。
「? どうした」
常にどこか余裕を漂わせる桂太らしくない様子だ。
叶慧が訝し気に聞くと、桂太は歯切れの悪い声で話し出す。
「いや、その、ちょっと、というか大分、大変そうなものが見えてしまいまして……」
的を射ない説明に叶慧は首を傾げ、何かあったのかと背後を見る。
「……⁉」
次の瞬間、信じがたい光景が目に映って、叶慧は絶句した。
「なっ……」
思わず己の目を疑ったが、いくらこすっても目に映る景色は一切変わらなかった。
――叶慧たちがいる場所から十メートルほど離れた位置の校庭。背の高いクスノキの中腹あたりから伸びる枝に、女子生徒が立っていたのだ。
近くには脚立が倒れていて、まっすぐ伸びた幹には何も足をかけるものがない。
周りには友人と思わしき生徒もおらず、女子生徒自身も蒼白な顔で木につかまっている。彼女が立っている枝自体はがっしりとしているものの、体全体がふらふらと揺れており、非常に危なっかしい。
(どういう状況だ……?)
現状がのみこめないまま、叶慧はぼそりと呟く。
「なあ、明槻。普通、身投げをしようと思ったら、屋上に上るよな……?」
「それが普通かどうかは置いておいて、確実に命を絶とうと思えば、屋上から飛び降りるのが妥当かと」
「そうだな……。とすると、自殺志願者ではないことは確かか。あの程度の高さでは、骨折する程度にとどまるだろうし」
高さ五メートルほどの木を見ながら言うと、桂太は顔をしかめた。
「ですが、落ちどころが悪ければ命に関わります。本人も今にも気絶しそうな様子ですし、万一頭から落ちると取返しがつかないことになるやも」
「そうだな……」
冷静な声で会話しながらも、叶慧は頭をフル回転させていた。
女子生徒はこちらに気付いていない。下手に声をかけて刺激すれば、足を踏み外してしまうかもしれない。
緊張感をもって眺めていると、強い突風が、叶慧たちの後ろから吹き抜けていった。
「きゃ……っ」
風が木々を大きく揺らす。女子生徒がしがみついている枝もしなり、今にも華奢な体が飛ばされそうだ。
か細い悲鳴を聞き、叶慧の表情が一層鋭くなる。叶慧はそのまま目を瞑ると、深呼吸をした。再びゆっくり目を開いた先の焦点は、ぴたりと女子生徒に合わされていた。
「……」
数秒の間少女を黙視した後、叶慧は小さく息を吐いた。頭を軽く振り、次いで桂太に目を向けた。
「明槻。車の中から、ひざかけとクッションを全部、持って来てくれ」
「かしこまりました」
叶慧の指示に、桂太は即座に従う。桂太が車に向かうと同時に、叶慧は校庭に通じる階段をゆっくりと降り始めた。
やがてクスノキまで数メートルという距離で、努めて静かに、声を発した。
「君」
「‼ あ……み、みすみさ……」
突然声をかけられた女子生徒は慄きながらも、弱弱しい声で返事をする。足がしっかりと枝を踏み続けていることに、叶慧はほっと息を吐く。
「一応聞くが、自力で降りられないのか?」
「む、無理……っ、足が震えて動けないの。そ、それに、だんだん手の力も入らなくなってきて……っ」
今にも泣きそうな声で縋るように言う姿に叶慧は焦りを感じる。
冷や汗が頬を伝って、地面に斑点をつくった。
「お嬢、お待たせしました」
「明槻」
待ち望んでいた声に、叶慧は振り返る。振り返った先、大量の布類を抱えた桂太に心の中で親指を突き出した。今がまだ肌寒い日が残る春先で良かった。
「早速で悪いが、そのまま、こちらまで来てくれ」
「……? はい」
怪訝そうにしながらも、桂太は指示の通りに木の真下まで移動する。
「この位置、いや、もう少し左……うん、この辺りだ。そこで、腕を広げ足と腰を踏ん張った姿勢で待っていろ」
しっかり、しっかりだぞ。
念を押しながら、立ち位置を微調整する。
「……あの、お嬢。まさかとは思いますが」
何事かを察したのか、表情を強張らせる桂太に叶慧は口端を上げる。
「明槻。気張れ」
それだけを言い残して、叶慧はそそくさとその場から離れた。
無言の肯定を受けた桂太がぎょっとして口を開く。
「いやいやいやいやいや、そんな漫画みたいなこと、万が一位置がズレたら大変なことに……っ!」
そうは言いつつもきちんと指示された位置と態勢は維持する桂太に、叶慧はきりっとした顔を向ける。
「そのための先見だ。立ち位置と体の向きは合っているから、あとは文字通り君の腕にかかっている。付き人の類まれなる身体能力を存分に発揮してくれ」
「いや発揮て、こんな方向性での鍛え方はしていないというか、そもそも単純な身体能力の問題だけではない気がす……」
桂太が青い顔で必死に言い募っていたその時、一際大きな風が巻き起こった。
砂が舞い上がり、幹や枝が揺れ、青々とした葉を豪快に散らしていく。目を開けていることさえ難しい
ほどだ。
「………っ!」
少女は足を戦慄かせながらも、必死にしがみつき耐える。
けれど第二陣の風が吹き荒れた時、とうとう限界が来たのか、足が枝から滑り落ちた。
「あ……っ」
「ああもう、マジか……‼」
息をつまらせて真っすぐに落ちて来る少女を、桂太は覚悟を決めたように、険しい顔で待ち受ける。
やがて、どすっ……と、人一人分の重みを体現するかのような音が響く。
「つ……っ!」
腕にかかる重量に引き落とされそうになりながらも、桂太はすんでのところで受け止めた。
少女は毛布とクッションの山に埋もれ、放心状態で空を見上げている。その姿はしっかりと、桂太の腕に収まっていた。
「良くやった」
「今回ばかりは、俺もそう思います……」
近寄ってきた叶慧に、弱弱しく笑って桂太は応じる。
疲労困憊といった様子の付き人を見て、叶慧は笑みを浮かべた。
「でも流石だな。相手にも自分にも、怪我一つ負わせていないようだし。取り乱しながらも完璧に姿を捉えられていた証拠だ」
「お褒めに預かり、光栄です……でもこんなこと、二度とごめん被りますよ」
桂太は乾いた笑いを漏らして、女子生徒を木に寄りかからせた。少女はまだ茫然としている。
「さすがに、このまま放っていくわけにもいかないな……」
叶慧は腕時計を見る。昼休みは、あと十五分しか残っていなかった。
携えたままの風呂敷包みを切ない目で一瞥し、名残惜しむように表面を撫でる。ややあって、叶慧は諦めと哀感のこもったため息を漏らした。
(なぜこうも立て続けに面倒ごとが……)
麗しい顔に憂いの色をのせ、頭に浮かんだ言葉をぼそっと口にする。
「………厄日だ」




