8.発見
叶慧は腕時計の針を見て、顔をしかめた。
時刻はもう12時半をまわり、昼休みはあと30分しか残されていないところまできていた。
5時限目には余裕で間に合うが、ゆっくりと昼食を楽しむにはやや厳しい時間だ。
早く先を急ごう。そう思って足を踏み出しかけると、桂太がおもむろに声をかけた。
「お嬢、見送りはもうここまでで結構ですよ。後は俺一人でも駐車場くらいまでならたどり着けますし」
そう申し出る付き人に、叶慧はふるふると首を振った。
「いや、どうせいつも昼食を食べている場所が、駐車場と同じ方向なんだ。だから君が気にする必要はない」
「ああ、そうなんですね。それではお言葉に甘えて、ご一緒させていただきます」
顔を綻ばせた桂太に、何だかむずがゆいものを感じながら歩き出そうとした叶慧は、突然、ぴたりと足を止めた。
「? どうしました、お嬢」
不自然に停止した叶慧に、桂太は訝し気に聞く。
叶慧は静かに、というように口に人差し指を当て、すぐ傍の窓から校内を指す。
指さした先には、4、5人で連れ立って叶慧たちの方向へ歩いてくる、男子生徒の姿があった。
一番大柄で、声も大きい男子を中心に横一列に広がって、我が物顔で廊下を闊歩している。
叶慧はとっさに、男子生徒たちから死角になるように、地面にしゃがみこんだ。
「どうしたんですか? あの態度がでかそうな男子生徒が何か?」
一緒に腰をかがめて、小声で声をかける桂太に、叶慧は疲れたような表情を浮かべる。
「……同じクラスの生徒だ。少々はしゃぐのが好きな性格でな、自分たちの目につく学生は、何かにつけてからかうのがお好きな連中なんだ」
桂太は会得がいったように頷いた。
「……ははあ、なるほど。御澄家当主のご息女で、何かと人目に付くお嬢はさぞ、からかいのネタにされやすいでしょうねえ」
大きな笑い声をあげ、廊下いっぱいに広がった生徒たちを見て、桂太はのんびりと呟く。
「まあ、それもあるが……」
叶慧は思わず口ごもり、遠い目をする。
――入学して間もない頃、自分の席のすぐ近くで大騒ぎをする彼らに、「うるさい」と言い放ったことを思い出し、叶慧は気まずげな顔をした。
(他のクラスメイトの机まで陣取って、いつまでも占領していたから、つい……)
と、叶慧にも言い分はあるのだが、そんなもの、彼らには微塵も関係ない。
はあ……と、重いため息を吐く。
とにかくあれ以来、何かと目の敵にされているのだ。
「……これ以上彼らに絡まれるきっかけは作りたくはない。無視し続けるのも疲れるんだ」
「分かりました」
短く言い、桂太は口を噤んだ。自分たちのすぐ近くまで男子たちが近寄ってきているのが、声の大きさで分かったからだ。
「――だから今日の放課後は部活が休みだろ? 久しぶりにゲーセン行かねえ?」
「はあ? 休みつっても、来週テストだから休みになっただけだろ。もし見回りの教師に見られたら説教されんぞ」
「そんなこと言ってっと、俺ら一年中遊べねえだろ。皆やってることだし大丈夫だって」
「まあ確かに俺も行きたくないわけじゃねーけど……」
言葉では拒みつつも、まんざらでもないようだった。明らかにわくわくしているのが分かる声音を聞き、息を潜めていた叶慧は呆れた声を漏らした。
「テスト期間中にゲームセンターか。まあ与えられた時間を何に使うかは彼らの勝手だが、わざわざ規則を破ってまで行く意味があるのか?」
「おそらく、そのスリルをも楽しんでるのでは? それに、確かに運動部はこんな時でない限り放課後に寄り道なんてできませんから、はしゃぐのも無理はないかもしれません」
「そういうものか……」
やれやれといった様子で立ち上がり、何となく男子生徒たちの方を見る。
もはや背中を向けていて、小さく横顔が見える位置まで離れている彼らを一瞥したかと思うと、叶慧は再び血相を変えて振り向いた。
「…………!」
めったなことでは表情を変えない叶慧が、珍しく目を大きく見開いている。
ただならぬ空気に、桂太は緊張感を声に含ませた。
「お嬢、どうかしましたか?」
問いには答えず、叶慧は口を手で覆って、物憂げな表情を浮かべた。
眉間には深い皺が刻まれ、瞳が不安げに揺れている。
しかしそれも数秒のことで、しばらくすると、叶慧は顔を上げた。
腹を決めたようにひきしまった表情で真っすぐに前を向く。
凪いだ水面のように揺るぎない眼差しを見て、桂太は何事かに気付いたのか、目を瞠った。
「お嬢、もしかして――……」
叶慧は、桂太の言を最後まで聞かず、片腕を支点にしてひらりと窓枠を飛び越えた。
海老茶色の制服がはためき、髪が弧を描きながら舞う。
軽々と廊下に着地すると、身なりを整えるのも後回しに、すぐさま口を開いた。
「――勉強を放り出してゲームセンターとはな。君たちはよほど、学力に自信があると見える」
遠くまでよく通る、透き通った張りのある声で、叶慧は言葉を放つ。
片方の唇の端が吊り上がり、それが秀麗な顔に、不敵な笑顔をつくっている。
「は……⁉」
和気あいあいと廊下を歩いていた男子生徒たちは、背後から不意打ち同然にかけられた声に驚き、音の主を探す。
ややあって、窓枠にもたれ腕組みをした状態でこちらを見つめている叶慧の存在に気付くと、とたんに瞳に剣呑な色をのせた。
「は? いきなり何なんだよ。お嬢様には関係ないことだろ」
睨まれながら唸るような声をかけられているというのに、叶慧は、涼しい顔をしている。
全く堪えていない叶慧の様子に、ますます不穏な空気を身にまとい、男子生徒たちは更に言い募る。
「つーか何? 人の話盗み聞きとか、趣味悪すぎ」
「友達がいねえから、よっぽど暇なんだろ? まあこんだけ性格悪けりゃ無理ねーけど」
敵意を隠しもせず、表情を歪めて口々に雑言をあびせる。
とっさに立ち上がろうとする桂太をこっそりと制して、叶慧は鼻で笑った。
「相変わらず何の捻りも無い嫌味をどうも。しかし今、私にそんなことを言って良いのか?」
「は……?」
「つい先ほど職員室で聞いたんだが、どうやら今日は高戸先生が見回りをするらしいぞ。佐伯智宏、確か君は男子バスケットボール部だったな? ここまで言ったら、いくら君達でもあとは想像がつくだろう?」
「な……⁉」
叶慧の言葉に、男子生徒たちはとたんに顔を強張らせる。
高戸教諭は男子バスケットボール部の顧問にして、生活指導を担当する教師だ。
その性格も指導も、厳格なことで有名な人物であり、生徒たちには蛇蝎のごとく嫌われている。
生徒の間で「クソジジイ」という単語が出たとしたら、それは大体が高戸教諭を示唆していることで間違いない。
「……告げ口するつもりかよ。でもお前馬鹿だろ? こうして聞いちまった以上、俺たちがこのまま素直にゲーセン行くわけねえだろ」
叶慧に声をかけられた佐伯智宏という学生が、そう答える。
叶慧は余裕綽綽な態度で、嫣然とほほ笑む。
「それならそれで構わない。私は日頃のささやかな意趣返しが出来たらそれで満足だからな」
「……………お前、マジで最悪」
佐伯少年は憎々し気に吐き捨てた。
「そう思うのなら、普段の下らない当てつけや陰口をやめることだ」
すました顔で言ってのけた叶慧を、負の感情をたっぷり込めた目で睨みつけると、男子生徒たちは背を向けて歩き始めた。
舌打ちをしながら立ち去る後ろ姿を、叶慧はただ黙って見送る。
「お嬢……」
躊躇いがちに名を呼び、横に立った桂太は口を開く。
「何か、見えたんですね」
叶慧は答えない。
ただ俯き気味な姿勢のまま、黙り込んでいる。
「お嬢」
もう一度、今度は少し語気を強くした桂太の声に、叶慧は息を吐いた。
「………駅前の、大型ショッピングモール」
ややって、ぼそりと呟く。
「その前に、大きな車道があるだろう。彼らが、横断歩道や陸橋を使わずに、道路を横切るのが見えた。……この辺りのゲームセンターといえば、そこくらいにしかないはずだ」
断片的な情報だけを口にする叶慧を見て、桂太は顎に手を当てて頷いた。
「つまり、あの学生たちがゲームセンターに向かう途中で事故にあう未来が見えた、ということですか?」
「……」
「なるほど、それは確かに見過ごせませんね」
無言で首肯する叶慧の横で、桂太は唸った。
「それでお嬢、高戸先生という方が見回りをするというのは本当ですか?」
「……いや、でまかせだ。これからお願いしに行くつもりだけれど」
応じてくれるかどうかは、聞いてみないと分からない。
そう言いつつも、御澄家の名をちらつかせればおそらく動いてくれるのだろうと、叶慧は確信していた。 思わず、唇を噛みしめる。
「お嬢、ではこうしてみては?」
表情を曇らせる叶慧の目の前で、自身の手帳をかざしながら桂太は笑う。
「放課後、お嬢を御澄家に送り届けた後で、俺が学校に落し物をしてきたと言って、急いで戻ります。その間に、あの学生たちの動向も確認してくる、という案はどうでしょう。時間にして大体数十分というところでしょうが、そのくらいの自由なら俺にも許されるはずです」
叶慧は息を呑む。
「な……っ、しかし、君だって自分の仕事があるだろう。そこまでしてもらうわけには……」
「そのくらいの時間、急げば挽回できます。……こちらのことは気にせず、どうかお嬢が本当に望むことを、教えてください」
「……!」
(また、君は)
叶慧は嘆息する。
相変わらずこの付き人は、言葉にできない自分の思いまでも、くみ取ろうとしてくれる、と、心の中でそっと呟いた。
その理由を探すのは、やめにしようと決めたけれど、それで驚きが消えるわけではない。
ありがたいような申し訳ないような、それでいてどこか恐ろしいような気持ちになって、叶慧は息をつまらせた。
何故だか直感的に、この申し出は受けてはいけない気がした。
けれどもいくら考えても、それが最善であるように思えて仕方がないのも確かな事実で。
「……本当に、いいのか?」
おそるおそる、言葉を紡ぐ。
心細げに発された声を受けて、桂太は口許を綻ばせる。
「はい、勿論」
「………ありがとう」
叶慧は安堵の息を漏らした。
喉の奥でつまっていたものが取り除かれたように、急に呼吸が楽になる。
――行動の自由が限られる自分には、回避したい未来が見えたとて、そのために動けない。
願うだけでは未来は変わらないと分かっているのに、満足な動きが取れず、歯がゆくて情けない思いを、今まで何度もしてきた。
だからだろうか。
たまたま未来を垣間見てしまう時は、一瞬、まるで金縛りにもあったように、身体が強張る。凍り付いたように動けなくなる。
それは意識ではどうしようもない、条件反射にも似たものだった。
指の先まで冷えきった手を、叶慧は握りしめて、慎重に呼吸を行った。




