5.呼び名
「おはようございます叶慧様。本日も良いお日和で、週の始まりに相応しい天気ですね」
「……おはよう。今日も無駄に明るいな、君は」
太陽の如き笑みを向けてくる相手に、冬の木枯らしのような眼差しで応じる。
桂太が叶慧の付き人となって、一週間が経とうとしていた。
今日も変わらず快活な桂太に、叶慧はげんなりとした様子で言葉を返し、車に乗り込んだ。
(さすがに、運転はうまい)
滑らかな運転技術を見て、密かに感心する。
外の景色を見ていた叶慧は、ふと、気になっていたことを口にした。
「ところで、今更だが明槻。外で私のことを「叶慧様」と呼ぶのはやめてくれないか。正直「様」付けで呼ばれるのはぞっとする。家人が見ている場所はともかくとして、家の外では出来るだけ他の呼び方にしてほしいんだが」
言えば、桂太は眉を曇らせた。
「そうですか……。私としては実にしっくりくるのですが。本家の使用人の方々も、そう呼ばれていますし」
「彼らは一日に顔を合わす回数など片手で足りる程度だから、さして気にもならないんだ。……が、君は、そうじゃないだろう」
「……!」
何気ない、本当に何てことない言葉なのに、何故か桂太は顔を輝かせた。
(……どういう反応なんだろう)
叶慧は内心、首を傾げる。
桂太は咳払いをすると、改まった口調で話し出した。
「そう、ですね。この先、一日に何度も何度もお話しすることになるのですから、叶慧様がご不快に思われる要素は、出来得る限り取り除いた方がいいでしょう。それでは、何かご希望はございますか?」
何度も、に妙に力がこもっている気がしたが、ひとまずは気にしないことにする。
「何でもいい。極端に言えばいちいち名前なんか言わなくとも、「あの」とか、呼びかけの声をかけてくれればそれでいい。どうしても不自由なら、せめて「御澄様」と呼んでくれ」
叶慧が無頓着な顔でそう言うと、桂太は悩まし気な表情を浮かべる。
「しかしそれでは、あまりにも味気がないような……」
思案顔をして、桂太はぶつぶつと一人で呟き始める。
「様をつけたらダメなんだよな……。とは言え叶慧さん、はあまりにも馴れ馴れしいし。お嬢さん、も距離が近すぎる……あ」
何やらひらめいたような声に、「思いついたのか?」と声をかける。
バックミラーに、桂太の満足そうな笑顔が見えた。
「はい。では、「お嬢」はどうでしょう?」
「………………」
叶慧は思わず、後部座席でずり落ちた。
予想外の提案に脱力しそうになりながら、なんとか体勢を立て直す。
「いかがですか?」
「いかがも何も……。昨日から思っていたが、君はどこか、感覚がズレていないか?」
「え。自分では中々良いと思ったのですが……お嬢、はお気に召しませんか?」
「違和感がありすぎる。それに、余計に恥ずかしさが増している気もするんだが」
「左様ですか……。申し訳ありません、自分にはこれ以上に良い案は思い浮かびません」
「だから、名前なんか呼ばなくていいと言って…………露骨に残念そうな顔をするな!」
そんな風に言い合っているうちに、学校に着いてしまった。
一目見て高級車と分かる車に、いつものように生徒の視線が集まる。あまり注目を浴びたくないと、叶慧が早々に下りようとした時、
「いってらっしゃいませ、か……御澄様」
と、桂太が声をかけてきた。
どことなく精彩にかける声音に、叶慧は渋面をつくると、やがて、盛大なため息を吐き出した。
「ああもう分かった! 家では「叶慧様」、外では「お嬢」、もうこれでいい。これでいいから、その残念そうな顔をさっさと戻せ!」
半ばやけくそに、そう言い放った。
「‼ よろしいのですか? では早速お嬢、ありがとうご」
桂太は途端に顔を輝かせる。
最後まで聞かずに、叶慧はやや乱暴にドアを閉めると、手で追い払うような仕草をする。
桂太は腹が立つほど良い笑顔で、窓越しに一礼すると、そのまま車を転回させた。
視界からいなくなる車を見送りながら、叶慧はほっとするような先が思いやられるような気持ちを味わっていた。
遠い目をして、始まったばかりの付き人生活に一抹の不安を覚えつつ、昇降口へと歩を進み始める。
「毎日毎日、高そうな車で馬鹿みたい。学校くらい、自分で歩いて来いっての」
嘲るような笑い声と一緒に聞こえてきた言葉に、とっさに視線を向ける。
目をやった先に、三人組で歩いている、同学年の女子生徒の姿があった。叶慧が顔を向けた時にはもう、素知らぬ顔をしていたが、仕草がわざとらしい。
叶慧は小さく嘆息すると、くすりと笑いを浮かべる。
「そんなに羨ましいなら、君たちも許可を取ってきたらどうだ?」
「……はあ? 何のこと?」
声をかけられた生徒は足を止めた。
正面から声をかけられるとは思っていなかったのか、とぼけるような顔をしながらも、表情が引きつっている。
そんな顔をするくらいなら、最初からちょっかいなど出さねばいいのにと、冷めたことを思う。
「ああ、でも言ったところで君たちの家には、あんな車はないか。すまない、悪いことを言った」
「な……っ⁉」
先ほどまでの白々しい演技はどこへやら、頬を紅潮させて叶慧を睨んでくる女子を無視して、叶慧は再び歩き始めた。
一部始終を見ていた生徒たちの、興味や非難を含んだ視線を浴びて歩く。
(ああ、これこそ日常だな)
歩きながら、桂太に乱されかけていた調子が徐々に戻っていくのを、叶慧を感じていた。




