42.談判
叶慧は息を切らして、目前に迫った雪奈の部屋を見る。
乱れた呼吸を整えながら、一歩一歩ゆっくりと、仄かに漏れる灯りに導かれるように歩いていく。
「……」
心臓が早鐘を打つ。
じっとりと汗を滲ませる拳を強く握る。
ややあって入口で立ち止まると、叶慧はごくりと喉を鳴らし、大きく息を吸った。
「お祖母さま。叶慧です」
応えは、数秒遅れて返ってきた。
「なんです、こんな時間に」
「夜分遅くに、申し訳ありません。少しお話をさせていただきたいのですが、入ってもよろしいでしょうか」
「今、貴女の付き人の報告を聞いているところです。用件は明日になさい」
付き人、という言葉を聞いて、叶慧は一瞬息を詰まらせる。
心を落ち着かせて、再び口を開いた。
「お話したいことというのが、まさにその明槻についてです。今、聞いていただきたいのです。どうか入室を許可してください」
食い下がる叶慧の言葉に、しばしの沈黙が下りる。
やがて、小さなため息が漏れ聞こえた。
「……入りなさい」
叶慧は、襖を横に滑らせる。
差し込んだ灯りと共に、祖母の顔と、次いで驚きの表情を浮かべる桂太の顔が目に入った。
叶慧に席を譲ろうとする桂太に、「そのままでいい」と声をかけ、叶慧は桂太の隣に腰を下ろした。
叶慧が座るや否や、机を挟んで叶慧と桂太に向かい合う形になった雪奈が、前置きもなく問いかけてきた。
「それで、話したいこととは?」
今更期待もしていないが、身内に話しかけているというのに、温かみは微塵も含まれていない。
冷たい声音はいつものことながら、加えて今日は、刃のような鋭さも孕んでいるように聞こえた。
声を聞くだけで怯んでしまいそうな心を叱咤して、叶慧は口を開いた。
「……単刀直入にお聞きします。此度の件について、今後の明槻の処遇を、どうされるおつもりで?」
大きさはさほどではないながらも良く通る声で問うた言葉に、雪奈は柳眉をぴくりと動かした。
切れ長の目を僅かに細めて、雪奈は言葉を放つ。
「言わずとも、見当はついているでしょう」
そう言って、ついと桂太を見やる。
「付き人でありながら主人から目を離し、むざむざ攫わせ、その身を危険に晒した。それも事前に注意が必要だと忠告していた相手にも関わらず。そんな人間をこのまま付き人として雇い続けることに、何の意味が?」
「……あれは、故意に彼を遠ざけた私にも原因があったのです。それに彼はこれまで十分に役目を果たしてくれましたし、何より着任してから、まだ数か月しか経っておりません。酌量の余地は十分にあると思いますが」
「貴女にも落ち度があったことなどとうに知っています。どんなことがあろうとも、主人の身を守るのが付き人の役目です。一介の使用人ならいざ知らず、付き人の肩書を一度背負った者に妥協は許されません。それほどまでに重要な任だからこそ、付き人はあらゆる面において優遇されるのは、貴女も知っているはずでしょう」
祖母の返答はにべもない。
叶慧は隣に座る桂太を、横目で一瞥する。
表情では平静を装いながらも、握る拳に強い力がかけられているのが見て取れた。
ああそんなに強く握っては怪我をするのにと思いながら、叶慧は祖母を見る眼差しに力をこめた。
「お祖母様のおっしゃることはもっともです。確かにただの誘拐犯相手にも此度のような失態をしでかせば、付き人失格でしょう。けれど今回のことは、あまりにも相手が悪かったと言えるのではないでしょうか?」
雪奈は眉をひそめた。
「理解できませんね。新條隆明はそれほどまでに手ごわい相手だったとでも?」
「いいえ。隆明様が本来は英明な方であることや新條家のご子息であることは別として、今回の首謀者が隆明様だけではなかったことは、誰よりもお祖母様がよくご存知のはずでは?」
表情を崩さない雪奈に、叶慧はにこりと笑いかけた。
「――いかな付き人であるとはいえ、流石に相手が新條将道様とお祖母様では、太刀打ちできるはずがないと、そうは思いませんか?」
「……!」
桂太が息を呑む気配が聞こえた。
驚きというよりは、叶慧が雪奈相手に面と向かって言及していることを案じているような様子に、やはり桂太も気付いていたのかと、叶慧は心の中で呟いた。
言葉を待ったが、雪奈は一向に口を開こうとはしない。
鋭さが増しただけの冷ややかな瞳を見て、叶慧は呼吸が止まりそうになった。
昔から、射すくめるような祖母の目が苦手だった。
先見の目はあくまで対象の未来を垣間見るだけで、心までは読み取れない。他ならぬ叶慧自身がそのことをよく知ってはいたが、まるで実験動物を見るような視線を受けると、心の奥底に隠した本心まで見抜かれるようで、どうしようもなく恐ろしかった。
叶慧はゆっくりと瞬きをして、浅く息を吸った。
間違っても弱弱しい声にならないように、心を奮い立たせて口を開いた。
「……そもそも今回の件が驚くほどあっけなく片づいたのは、隆明様側に離反者が出たからです。あんなことをしでかしたのですから、裏切り者が出ること自体は驚きません。問題は、どのタイミングで決心したのかという点です」
可能性は大きく分けて二つ。誘拐の実行前か、後かだ。
仮に実行後だとしたら、不自然な点が多すぎる。
隆明たちは叶慧を攫ってからずっと、基本的に固まって行動していた。
そんな中、秘密裏に外部に情報を流すのは至難の技だろう。もし上手く連絡を取れたとしても、少なくとも車で移動中の時ではないはずだ。
それにしては救助が駆け付けたタイミングがあまりにも早すぎる。叶慧を連れ込んだあの屋敷は、御澄家と新條家から車で少なくとも数時間はかかるのだから。
日下部は、もっと早い時期に誘拐に加担しないと決めていた。とうの昔に、隆明の計画は新條家に筒抜けだったと考えていい。
ではなぜ、誘拐が実行されたのか。最初に思い当たったのが、日下部が新條尚之と内通していた可能性だ。時期当主は尚之に決定したとは言え、長男である隆明を担ぐ存在は残り続けるだろう。今回の誘拐は隆明派の者を黙らせるには十分すぎる材料となる。
けれど、叶慧が救出される直前に、隆明は将道と電話で話していた。その時にはっきりと聞こえたのだ。「日下部は将道の手の者だ」と。その時点で今回の件、裏で糸を引いていたのが誰なのかが、はっきりと分かった。
全ては、新條将道の計算通りというわけだ。身内の中にいらぬ火種をまかないようにするためだろうが、一族のためなら実の息子まで切り捨てる潔さは流石と言わざるを得ない。
そして。
「いくら協力関係にあるとはいえ、御澄家の人間が巻き込まれる以上、将道様がお祖母様に伝えないわけがない。それに、より正確に隆明様の行動を予測するのに、先見の目を利用しない理由もない」
日下部の報告と雪奈の先見。
情報としては十分すぎるものがそろっただろう。隆明の一挙一投足まで、事前に知ることができたはずだ。
「場面場面を思い出せば、色々と不可解な点ばかりでした。いつもなら車が到着するのを待っている者や門に取り付けられた監視カメラを見張る者がいるのに、今日に限っていなかったり、そもそも家にいる使用人自体が少なかったり。聞けば全員、上からの急な言いつけで別の仕事をしていたそうですけれど」
叶慧は息をつく。
雪奈は相変わらず平坦な表情で黙したままだ。
「それに、私が連れ去られたことが判明してからすぐ、お祖母様の指示で明槻たちはあの屋敷に向ったそうですね。ごく一部の者はお祖母様の先見による指示だと思ったかもしれませんが、そんなことは有り得ない。先見の目はあくまで対象を通しての「未来の光景」しか見えやしない。見えたものから判断材料を掻き集め、どれだけ精密な情報を得ようと、結局は推測の域を出ません。細かな外観的特徴から屋敷の特定をするには、あの限られた時間では不可能ですし、それでもいくつかの候補を絞るまでに留まるでしょう。それなのにお祖母様が言明したのはあの屋敷だけだったのは、どう考えても不自然です。事前にあの屋敷の情報を掴んでいた可能性を除いては」
きっぱり言い切った声は、部屋の中で響き渡り、聞く者の耳にはきと届く。
叶慧は表情を引き締め、正面から真っすぐに祖母を見つめた。




