41.答え
――先見の力は、どこに宿るのだろう。
世界を映す、この瞳だろうか。それとも、思考と神経の中枢を担う、脳だろうか。
そうでなければ、心臓? 指先? 皮膚?
あるいは全身を転々として、正体なんてものは存在しないのかもしれない。
科学的な世界からはみ出したこの力は、たとえどんなに突拍子のない仮説でも、否定しきれる者はいないだろう。
そんな風に、考えても答えの出ない問いを、それでも時たま、思わずにはいられない。
あの日も同じように、麻痺した感覚の中、そんなことをぼんやり考えていたなと、叶慧は思いを馳せる。
暗い部屋の中、叶慧は首をめぐらせた。
月が出ているおかげか、全く見えないというわけではない。
けれど見えたところで、飾り一つない部屋の寒々しさを主張してくるだけの景色を、叶慧は黙って眺めた。灯りをつける気には、ならなかった。
あの日もこうして、今よりはまだ飾り気のあったこの空間で、長い間、ただ立ち尽くしていた。
「ここにおられたのですね」
落ち着いた声音が背後から聞こえる。
振り向かずとも、声の持ち主は分かった。
叶慧は目だけを少し動かし、またすぐに戻す。
そして、また、何もない部屋を見る。
かつて柏谷深月を主としていた空間を、黙って見つめる。
「じきに、明槻君が雪奈様に呼ばれる時間になります」
「……そうだな」
叶慧はようやく、須藤に目を向ける。
見慣れた男の顔から視線を外し、前で組まれた両の手を見る。
皺が増えたその甲に、一筋、明らかに皺とは違う線が目に入り、叶慧は僅かに顔を歪めた。
――あの日、叶慧自身が刻んでしまった傷だった。
叶慧は自分の手を見やる。
絶対に離すまいと強く握っていた、固いプラスチックの感覚を、まだ鮮明に覚えている。
あの日、深月と、意識不明の深月の妹と会ったあの日、叶慧は無意識にこの部屋に足を運んでいた。
何の目的もなく、虚無感を抱いたまま、何度か入ったことのある部屋の真ん中で、へたりこんでいた。
感覚が失われた心で、自分の存在価値を否定せずにはいられない衝動に絶えず襲われながら、それだけを感じながら、座り続けていた。
自分がここに生きているということが、息をしているということが許せなくて、只管に気持ちが悪くて、暴れまわりたいのに体が動かなくて。
ぼんやりと濁った頭と眼で、見上げた先に、硬質な刃物の柄が目に入った。
何の変哲もないはずのそれに、あの時だけは何故か目が吸い寄せられるようだった。
気が付くと、手を伸ばしていた。
――先見の力は、どこに宿る。
瞳? 脳? 心?
そのどれでもなかろうと、一つだけ確実に言えることは、この目が光を失えば、先見の行使が出来なくなるという事実。
それが分かれば十分だ。
叶慧はゆっくりと、銀色に光る刃を、目に近づけていった。
痛いだろうとか騒ぎになるとか、そんな常識的な考えの全てが、あの時は取るに足らなかった。
行き場のない激情が渦を巻く。このままだとあまりの激しさに、皮膚を裂き、外側まで溢れ出てしまいそうだと、本気で思った。
自分の存在が、先見の目が、ただただ気持ち悪くて滅茶苦茶に壊したくて、そんな破壊的な衝動だけが、頭にあった。
投げやりな考えで目を刺そうとした手を、もう少しで眼球に届きそうだった刃を、強い力が阻んだ。
「叶慧様……!」
焦りを帯びた声には、叶慧を心配する感情が混ぜられていた。
叶慧の手からカッターを奪おうとする須藤に、反射的に叶慧は苛立ちと、何に向けてかは分からない、漠然とした「許せない」という思いを抱いた。
「放して!」
がむしゃらに抵抗しても、須藤の手はびくともしなかった。それが一層、激情を増幅させる。
「白々しい……!」
何故だか無性に泣きたくなって、かすれるほどの大声で叫んだ。
「……ここで止めるくらいなら、なぜあの時、助けてくれなかった!!」
須藤の肩が僅かにはねる。
瞬間、あれだけ強く押さえられていた須藤の手が緩んだ。
叶慧は力任せにカッターを手にとり、そのままの勢いで自分に向ける。
「……っ」
赤が、滴る。光のない部屋のせいか、それは視覚的には黒にも見えた。
うめき声と共に、ぽたぽたと、流れ落ちる黒を、叶慧は茫然と眺める。
鉄の匂いが、つんと鼻孔を刺激する。
刃物を素手で握りしめた須藤の手からこぼれ落ちる黒を、放心して見つめていた。
「……」
叶慧の手から、力が抜け落ちる。
どうしてか、抵抗しようという気がめっきりとなくなっていた。
「……申し訳、ありません」
叶慧が暴れまわったからかいたるところに傷があって、その全てが浅くはないだろうに、須藤は手当をしようともせず、全身からにじみ出るような謝罪を口にし続けた。
「……っ、ふ」
気が付けば、熱いものが頬を伝っていた。
一瞬遅れて、それは自分の流した涙だと気づく。
とすん、と、カッターが畳に落ちる音がした。
その音が合図だったように、涙があとからあとから流れ落ちて、どうしようもなくなった。
なんで、なんで、なんで。
もはや何に問うているのかも分からない言葉を、心の中で繰り返した。
ずっと、繰り返していた。
「――叶慧様」
須藤の声で、叶慧は我に返る。
視線の先に映った傷痕を見て、申し訳なさと苦さがこみ上げた。
叶慧は唇を噛みしめた。
物心ついた時から、誰よりも近くで見守ってくれたのは、須藤だった。
自分を嫌厭する親よりも、能力面でしか見ようとしない祖母よりもよほど、気にかけてくれたし、叶慧自身も心を許していた。
肉親より世話係より、他の誰よりも、信頼していた。
そんなだから、つい忘れてしまっていたのだ。
須藤が、誰の付き人であるのかということを。
須藤が最も優先すべき者は、叶慧ではあり得ないのだということを。
『申し訳ありません』
厚い扉越しに聞こえてきた言葉を聞く度、叶慧はその事実を思い知った。
須藤と自分の関係の、限界を知った。
須藤は叶慧の付き人でもましてや家族でもなく、祖母に仕える使用人だということを、思い出した。
だからと言って、信頼できなくなったわけではない。
線引きを見誤らなければ、須藤は叶慧にも忠節を尽くしてくれる。これまで与えられた情が、嘘だったとも思わない。
けれども、昔のように手放しで甘えることは、絶対に出来なくなった。
それが本来あるべき形だし、須藤のためにも、それでいいのだと思う。
あの日を境に引いた線は未だ残ったまま、須藤と叶慧が御澄家に居続ける限り、今後も消えることはない。
桂太に対しても、いつかそんな風に思う日がくるだろうか。
そう思うと、再び、苦いものが心を覆う。
叶慧はため息を零す。
静観する須藤は、徐に口を開いた。
「……行かれないのですか」
叶慧は黙したまま、動こうとはしない。
須藤は困ったように笑う。
「まだ明槻君が、信じられませんか?」
「……いや」
叶慧は緩やかに首を振った。
信じられないのではない。
桂太の誠意と熱意は、もう十二分に見せてもらった。今更疑う余地など、いくら捻くれ者の自分でも、見つけられそうにない。
結局は、自分の問題なのだ。
「この期に及んで、しり込みをしているだけだ」
「そうですか……」
ぽつりと零した言葉に、須藤はそれきり口を閉ざした。
叶慧はぎゅうっと手を強く握りこんだ。
(……誰かと関わるというのは、本当に恐ろしい)
分かっている。
深月と桂太が全くの別人で、彼らを重ねて見たりしてはいけないということは。
そうは思っていても、やはり桂太もいつか深月のように、自分が傷つけてしまう日が、自分の元を離れて行ってしまう日がくるのではと、その可能性を疑わずにはいられない。
万が一にでもそうなるくらいなら、最初から自分からは遠く離れた見えない場所で、つつがない日々を送ってほしいと、思っているのも事実だ。
(だけど)
それでも、もう知っている。
桂太が真っすぐに向けてくれた心に、自分に与えてくれたものに報いるためには、彼の言葉を信じること以上に、相応しいものはないのだと。
誰かを信頼するという恐ろしくて美しい勇気を、叶慧が持つしかないのだと。
「本当に、怖いな……」
自分一人で完結しない決断は、誰かを巻き添えにすることを前提にした決断は、いつだって恐ろしい。
けれど、それでも傍にいたいと言ってくれた彼の言葉に、誠意を見せたい。与えてくれた情に、報いてみせたい。
それに。
――御澄さんが、本当に望むことって何?
不意に、少女の声が聞こえた気がした。
叶慧は緩く笑んだ。
あの時は言葉に詰まってしまったけれど、今なら答えられそうな気がした。
叶慧は覚悟を決めて、顔を上げた。
「須藤」
張りのある声で男の名を呼ぶ。
自分を強く見返す叶慧の表情を見て、須藤は目を瞠りながらも、嬉しそうに目を細めた。
「はい、叶慧様」
従順に答える須藤を、叶慧は正面から見やる。
「今日の事件について、君にいくつか教えて欲しいことがある」
「……ええ、何なりと」
皺を深くし、腹に一物抱えたような笑みを浮かべる使用人を見て、叶慧は艶やかに笑んだ。
望むものを手に入れるために、まずは闘わなければいけない相手がいる。
叶慧は須藤といくつかの問答をすると、小さくため息をついた。
「――やはり、そうか。礼を言う」
唇を噛む。
現状手に入れられる手札はそろったが、まだ推測や憶測を多分に含んだ状況に変わりはない。
今から一戦交えようとしている人物相手には、どうにも武器が足りない気がしてならない。
それでももう、時間がない。
叶慧は緊張の面持ちで、踵を返した。
「――叶慧様」
須藤の声がかかる。
振り向いた先に、穏やかな笑みをたたえる須藤がいた。
「叶慧様は、お小さい時から、常に周囲に気を配っておられる方でした。それに先見の力を持っておられるせいか、ご自分の行動にひどく慎重で、心を押し殺してばかりで」
「……そうとも、言い切れないと思うが」
叶慧は怪訝な表情をしつつも、苦笑いを浮かべる。
自己犠牲など、そんな高尚な思想は掲げたつもりはない。
もし須藤がそう見えるというのなら、自己犠牲を装った自己中心的な部分を、見抜けていないだけだろう。
須藤は言葉を続ける。
「そんな叶慧様が、勝てる見込みの少ない博打に、打って出られようとしている。場違いながらも、感慨深いものを感じます」
「何かと思えば、嫌味か?」
叶慧は苦笑した。
勝ち目がないと言われて、腹は立たなかった。事実、その通りだ。
「とんでもない。寧ろ、とても粋だと、申し上げたいくらいですよ」
「……」
叶慧は複雑な表情を浮かべる。
須藤は一体、何を言いたいのだろう。
「叶慧様」
改めて、名を呼ぶ。
「たとえ千里を見通す目を持っていても、先がどうなるかなんて、この世の誰にも完全にはつかめないもの。今、何をして今度どうなろうか、何人も分かりはしない。だからこそたまには今を好きに生き、未来に結果を丸投げしてみるのも一興だと、私は思います」
「……!」
叶慧は目を見開き、須藤を見つめる。
ややあって、楽しそうに笑った。
「……先ほどから、好き勝手に言ってくれる。言っておくが私は負け戦をするつもりはない。思いもしない結果になって、後で慌てないよう気を付けることだな」
「それは失礼いたしました」
対する須藤は、変わらず穏やかな顔で笑みをたたえる。
そして、恭しく腰をおると、廊下を手で示した。
「お時間を取らせてしまい、申し訳ありません。……ご武運を」
「――ああ」
叶慧は表情を引き締めると、静かに歩き出す。
二、三歩歩いて、我慢しきれずに駆け出した。
途中すれ違った使用人たちが驚きの表情を浮かべるのもかまわず、走る。
体が、心が急く。もどかしさを振り切るように、走る。
――これからも、お嬢の傍にいさせてくれませんか?
声を固くして問うた声を思い出し、叶慧は口許を緩める。
(……馬鹿だな、君は)
そんなもの、言葉にすることが出来なかっただけで、とうに答えは出ている。
馬鹿は、そうと分かっていたのに目を逸らし続けていた自分かもしれないと思うと、尚更笑いがこみ上げた。
未来がどうとか立場がどうとか、そんなこと気にしない。
恐れを振り切ると、勇気を持つと、決心したのだ。
だから、今は。
(早く、早く)
――君に、伝えたい。




