40.願い
「――そうして、お嬢のもとにやって来たんです」
落ち着いた、心地よい声音が耳に入る。
叶慧は何とも言えない、複雑な心境で桂太の言葉を聞いていた。
嬉しいと、思う。
自分の言葉が、少しでも桂太の助けになったことも、たった数分のやり取りをずっと覚えていてくれたばかりか、会いに来ようと決心してくれたことも。
叶慧に向けてくれていた言葉や笑顔は、間違いなく自分への想いが込められていたということも、何もかもが勿体ないくらいにありがたくて、心が震えるほど嬉しい。
けれでもそれ以上に、申し訳なさをどうしても抱いてしまう。
桂太は自分の言葉に救われたというけれど、そのせいで、再び御澄の深奥に足を踏み入れてしまったということだ。
そんなやり取りがあったことすら忘れかけていた何気ない言葉のために、桂太をまた柵の中に取り込んでしまったような、せっかく抜け出せかけていた沼に引きずり戻してしまったような、そんな罪悪感にも似た感情が湧きあがってしまう。
(出来ることなら、私にも御澄にも関わりないところで、自由になってくれたら良かったのに)
その言葉を、叶慧は飲み込んだ。
どんなきっかけであれ、会いに来てくれたのは、桂太の意志によるものに他ならない。
それを自分のエゴで否定するなど、心得違いの思い上がりも甚だしい。それこそ傲慢というものだろう。
幼い子供でもあるまいに、大の大人が決断したことを間違いだと詰る権利など、叶慧も含め、他の誰も持ちえない。
それが分かっているからこそ、己の心情を言い表す言葉を見つけられないまま、叶慧は途方に暮れたような顔で口を閉ざし続ける。
「お嬢」
けれどそんな叶慧に不服な気配など一切見せず、桂太は変わらず穏やかな声で話す。
「……実は今夜、雪奈様に御目通りする予定になっています。此度の件の顛末をご報告することが表向きの理由になってはいますが……」
桂太は初めて声を曇らせると、一呼吸置いて再び話し出した。
「おそらくその場で、俺は解雇を言い渡されるでしょう」
冷静な声で語る言葉を、叶慧は静かに聞いていた。
ぎゅっと拳を握る。予想はしていたが、いざ音にして聞くと心が凍るようだった。
――御澄の名を語る者に、無能はいない。
祖母が、須藤が、御澄家の中で立場のある者が、あらゆる場面で口にする言葉。
役立たずに用はない。失態を犯した者に御澄家での居場所があると思うな――。
乱暴な言い方だが、そのようなことを暗示する言葉だ。
主である叶慧をみすみす攫わせ、怪我を負わせた。
それは誰がどう見ようと、付き人である桂太の落ち度だ。
「……」
叶慧は唇を噛みしめる。
桂太が、いなくなる。
そのことを思う度、胸の中で焦燥と不安が膨れ上がっていく。
「……お嬢をお守りすることが、付き人である俺の最優先任務なのは言うまでもありません。それにもかかわらず俺は、お嬢をあんな危険な目に遭わせてしまった。言い逃れなど、出来るはずもない」
「……っ、違、う」
叶慧は息をつまらせ、堪らず頭を横に振る。
違わない。桂太の語ることは、何も違わない。
それでも、否定せずにはいられなかった。
何故、桂太が責められなければいけないのだ。
桂太を突き放し、立場も弁えず一人になりたいと駄々をこね、無防備に屋外に立ち尽くしていた自分こそが、責められるべきなのに。何故、桂太が自分の失態を被らねばならない。
頭では分かっていても、聞き分けの無い子供みたいに、「嫌だ」と心が暴れまわる。
顔を俯かせ、堪えるように口を引き結ぶ叶慧に、桂太は驚きの表情を浮かべる。
けれどすぐに、眉を下げ、穏やかな微笑を浮かべると、言い聞かせるように口を開いた。
「でも、お嬢。それでも俺は、貴女にお仕えすることを、諦めるつもりはありません」
「え……」
叶慧は目を見開く。
顔を上げた先に、自分を見つめる桂太の顔があった。
その朗らかで、決然とした表情に、叶慧は目を奪われる。
「厚かましくとも、往生際が悪かろうと、自分から貴女の傍にいる道を、どうしても手放したくはない。どんな形であっても、お嬢の近くにいられる権利を得たいんです」
桂太は眉を下げて笑う。どうしようもない奴だと、自分自身に笑いかけているような笑みだった。
「……そう、雪奈様にお伝えするつもりです」
笑いながら、けれど覚悟を決めた表情をする桂太に、叶慧は何と声をかけていいか分からなかった。
やっとの思いで吐き出した言葉は、自分でも驚くほど頼りなげで、弱弱しかった。
「どうして、そこまで……?」
あの雨の日の恩返しというなら、もう十分なものを返してもらった。
桂太がそこまで、自分を犠牲にする必要など、もうどこにもないというのに。
問えば、桂太は驚くような顔をして、少しの間考え込む。
やがて、ふわりと朝陽のように温かな笑顔を浮かべた。
「多分、あの日俺は、貴女という人に魅せられたんだと思います。もうどうしようもないくらい、鮮烈に」
叶慧は目を瞠る。かけられた言葉のスケールの大きさに驚くことしかできない叶慧に、桂太は話を続ける。
「一番近くで、お嬢のこれからを見ていたい。俺なんかでも力になれることがあれば、手伝わせてほしい。叶えたい願いがあるなら、どこまでも一緒に、戦わせてほしいんです」
「……それが、君が心から望むことなのか?」
「はい」
間髪入れずに返した桂太の声を聞き、叶慧はぎゅっと手を握りこんだ。
目線を桂太から外し、口を閉ざす。
「お嬢、身勝手は承知ですが、一つだけお願いがあります」
桂太の声が降ってくる。
止めようもないその声に、叶慧は耳をすました。
「――俺をこれからも、貴女の傍にいさせてくれませんか?」
その言葉に、叶慧ははっと息をのむ。
反射的に、握りしめる手の力を強めた。
言葉の答えは、その決定権は、本来、叶慧が有するものではない。
一見して無意味なこの問いを、そうと分かっていてそれでも尋ねる桂太の真意に、叶慧は言葉を詰まらせた。目をぎゅっと瞑り、震える手を必死に抑える。
――良いのだろうか。
嬉しい。
けれど、もしかすればいつかは。
それでも私だって、本当は――。
様々な思いが入り混じって、容易に言葉を発せられない。
思い詰めた顔をする叶慧に、桂太はゆっくりと声をかける。
「今すぐ、答えてほしいとは思っていません。けれどもし、雪奈様のお許しを得られたのなら、その時に、どうかもう一度、聞かせていただけませんか」
固い声で、それでも言い切った桂太の言葉に、叶慧は顔を上げて唇を引き結んだ。
「――約束する」
ごく短い返答に、桂太は嬉しそうな笑みを零す。
「ありがとう、ございます」
そう、柔らかで温かみのある声で返した。
「……」
聞くだけで心が凪ぐような、耳に心地よい声を、名残惜しむように聞き届ける。
ああ、やっぱりこの声が好きだと、叶慧は心の中で呟いた。言葉の中の温もりが、全身へと駆け巡っていくような感覚を、叶慧は目を閉じて感じていた。
その言葉を最後に、御澄家に着くまで、叶慧も桂太を離そうとはしなかった。
車内が静まり返っていたが、ずっと、穏やかな霧雨の音が空間を包んでいた。
二人の間に流れる音はそれで十分だと、互いに心の中で思いながら、時間が過ぎていく。
――やがて、御澄家に到着した。
車から降りる一瞬だけ、すれ違いざまに目を合わせる。
そのまま振り向くことはせず、それぞれが向かうべき場所へと、叶慧と桂太は足を運んで行った。




