39.そうして
静寂が空間を包む。
部屋一つと廊下を隔てた先に、賑やかな人の往き来があるなど、とても信じられない。
桂太はふと、少し離れた位置に座る少女に目をやり、すぐに戻した。
普段だと他人との沈黙は気まずいものに感じるのに、今は全くと言っていいほど気にならないのが不思議だった。むしろどこか心地よくもある空気に、出来ることならずっとこのままでいたいとまで思う。
同じことを考えているのかそうでないのか、叶慧の方も口を開くこともなくずっと沈黙を守っている。
雨も止んでしまった今、数分経たずして桂太が叶慧のどちらかが、この時間の終わりを告げることになるだろう。惜しむような気持ちで、桂太は内心そう思っていた。
けれど、静寂を破ったのは、そのどちらでもなかった。
「――かなえ様!」
焦りを帯びた女性の声が、どこからか聞こえる。
辛うじて聞こえるほどの声量からして、そんなに近いところにはいないのだろう。
ずっと無表情を貫いていた少女が、顔をしかめる。
その反応から、呼ばれているのがこの少女であることは、一目瞭然だった。
「かなえ様、どちらにおられるのですか!」
少し、声が大きくなる。
少女はため息を零しながら、すっと立ち上がる。
さらりと、長い黒髪と着物が擦れ合う音が聞こえた。
「……そろそろ、行かなくてはな」
そう言って、桂太を見る。
「結局、長話に付き合わせてしまったな。休んでいただろうに、邪魔してすまなかった」
「とんでもありません」
反射的に、答えていた。
邪魔などと、そんなことあるはずがない。
忘れていたことを、思い出させてくれた。
無様な自分を、肯定してくれた。
随分と久しぶりの、安らぎを与えてくれた。
前を向いて歩く気概を、見せてくれた。
この雨の一時が、どれほどのものを、自分に与えてくれたことか。
感謝する理由こそ尽きないが、文句などあるはずもない。
(――そうだ、まだお礼も言ってなかった)
ここにきてようやくそのことに思い至り、桂太は慌てて腰を上げる。
口を開きかけたその先で、自分に真剣な目を向ける少女と目が合って、その瞳に浮かべる鋭さに、桂太は言葉を詰まらせた。
……否、目が合ったというのは、正確には違う気がした。
というのも、視線は確かに桂太に向けているのだが、意識は別の方に向いているように思えたからだ。
まるで桂太を通して何かを見据えているような、怒りとも悲嘆とも取れるような、そんな色を、秀麗な顔に浮かべていた。
やがて、少女が小さく口を動かした。
「……つくづく、業の深い」
ごく小さな声で、そう呟くのが聞こえた。
言葉の意味を図りかねて怪訝そうな顔をしていると、少女は身を翻し、「ではな」と短く言い残して、さっさと枝折戸向こうへと行ってしまった。
「あの……!」
焦って後を追いかけたが、少女の姿は既に母屋の敷地へと入っていて、やがて庭園の草木の影に紛れて、見えなくなった。
「速い」
よくあんな歩きにくそうな着物を身にまとったまま、普通に歩行ができるなと感心する一方で、よほど着慣れているのだろうと、桂太は独りごちた。
「お礼、言いそびれたな」
ぽつりと呟く。それだけが、どうにも心残りだ。
(でもまぁ、御澄家のお嬢様なら、そのうちまたお目にかかる機会もやってくるだろう)
いつになるかは分からないが、そう、希望を持つことにした。
「それにしても……かなえ様、か」
その名が、頭の中で引っかかり続けていた。
どこかで聞いたはずなのに、どうにも思い出せない。
御澄の名を背負う少女なのだから、聞き覚えがあって当然といえばそうなのだが、それだけではないような気がする。
「どこで、聞いたんだっけ……」
眉根を寄せて記憶をたどる。
けれど、いつまでたっても心当たりが出てこない。
霞を掴むようなそのもやもやした感覚は、結局その日の夜まで続いた。
御澄叶慧という少女のことは、同僚に聞いてすぐに分かった。
聞いたことがあるはずだ。まさか、本家のお嬢様だったとは。
同じ御澄家とはいえ、分家の一使用人である桂太が、一対一で言葉を交わすなど、本来であれば考えられないような相手だ。知れば尚更、あの瞬間が奇跡のように思えた。
興味本位で叶慧のことを聞いていく中で、驚かされたのは、その評判の多様性だった。
ある者は言う。
「さすが本家のお嬢様と言うべきか、あの年でもう、大人顔負けの気品と気高さを備えたお方だよ。環境がお人柄を作っているんだろうけどね」
ある者はこう言う。
「知り合いの子が同じ学校に通っているんだけど、どうにも近寄りがたい人みたいよ。それに何というか、高飛車で偉そうなところがあって、人を見下すような言葉を使うんですって。小さい頃から周りにおだてられてきたせいもあるんでしょうけど、いくら良いところのお嬢様だからって、そういう態度を取っちゃお終いよね」
またある者は言う。
「相当に優秀な人らしいなあ。学業はもちろん、お茶にお花に楽器にマナー、果ては武道まで、呑み込みの早さが尋常じゃないとか。当主になるわけでもあるまいに、なんでそこまでの教育が必要なのかは、理解に苦しむけどね。遠目にちらっと見た限りではすました顔で、お高くとまっているように見えたかな。まさに生まれついてのお金持ちってやつだったよ」
御澄叶慧についての評判は様々で、本当に同じ人物について語っているのかと疑うほどだった。
人は誰しも多面性を持つものだが、同時に変わらない何かを備え持っているはずなのに、それが見えてこない。何より桂太自身が抱いている叶慧の印象とは、どれもしっくりこないのだ。
気にかかることは、もう一点あった。
叶慧のことを聞いていく中で、その人柄について語る声は様々なのに、皆最後は口を揃えて同じことを言っていた。
『良いお家に生まれて、恵まれた環境で育てられて、何不自由ない生活を約束されて。とにかく、幸せなお人だよ』、と。
桂太は首を傾げた。
人並み以上の暮らしができて、周りにかしずかれ、大事に育てられて。
確かに、少女の置かれている環境だけを見れば、そう言えるのは間違いないだろう。
でも。
(本当に、そうだろうか)
どうにも違和感が拭えない。
彼らの言うように、真実、少女が幸せなのだとしたら。
何故。
何故あんな、哀しげで、どうしようもなく寂しそうな目をしていたのだろう。
考えても考えても、答えは出なかった。
けれどもそれは、当たり前のことだ。自分は彼女のことを、何も知らない。知らないのだ。
そしてこれからも、知ることはできないのだろう。
火を見るよりも明らかで決定的な事実が、とても残念に感じられてならなかった。
――それでも、彼女のことが、知りたい。
そんな、到底不可能で分不相応な願望を、いつからか強く、抱くようになっていた。
転機は、本家のお嬢様の付き人を探している、という触れ込みでやってきた。
もっともそれは、桂太自身に打診されたものではない。
直属の上司に声がかかったのを、上司が辞退し、代わりに自分を推薦した形で、回ってきたのだ。
朱里が臥せってから、桂太自身も一時期は満足に動けなくなったのを知っている上層部は、桂太を候補者に上げるつもりは無かったと思う。それに何より、桂太自身が、当初は躊躇いを持っていたのだ。
叶慧の付き人になれるのは、願っても無い。
けれども、本当に自分がその重役を担えるのだろうか。
同じ過ちを繰り返すつもりはないが、それでも今度こそ絶対に、主人を守り抜いてみせるなど、言い切れるのか。そう自問してみても、断言することなど、到底できなかった。
迷って、諦めかけて、それでも諦めきれなくて。
散々考えた挙句、桂太は、本家使用人の長である、須藤に直談判に行くことにした。
不安はある。けれどもそれ以上に自分は。
あの人のことを知りたい。
もっと、話をしてみたい。
気高く孤独なあの人の、助けになりたい。
――何よりも、あの時のお礼を言いたい。
そのためならば、こんな不安など、絶対に守り抜いてみせるという決意で塗りつぶしてやると、そう決意したのだ。
「良い、面構えをしていますね」
桂太の言葉に、男は柔和な笑みを浮かべてそれだけを言った。
それ以上の言葉をかけてはもらえなかったので、てっきり落ちてしまったかと思った。
だから数日後、採用の言葉を上司から聞いたときは、とても信じられなかった。
辞令から、数ヶ月後。
そうして、自分は。
「……あの日、お嬢のところにやって来たんです」
そう言って桂太は、穏やかな笑みをこぼした。




