38.雨音③
「……重圧からは、抜けられたのですか」
徐に発された声に、叶慧は目を瞠る。
やがて、小さく「いや」と零した。
「いつになっても逃れられる気はしないし、逃れたくないとも、思っているから」
答えは明瞭で、淀みがなかった。
桂太が何故、と問えば、少女は小さく笑った。
「さあ……。漠然とそう感じているだけで、これといった答えを、考えたことはないけれど」
何でもないことのように言って、頭を軽くひねる。
内容の重苦しさとは対照的な態度に、桂太は戸惑いを覚えた。
少女はふと、目を細めた。
「……そうでも思わないと、前を向くことが出来なかったから。というのが、一番の理由かもしれない」
ぽつりと呟いて口を閉ざすと、静かな瞳で雨を見つめた。返す言葉を考えあぐねて、倣うように、桂太も庭に目を戻す。
こんな何てことない行いでも、何かをしていなければ、張り詰める空気感に息がつまりそうだった。今日はよくよく雨に感謝する日だと、奇妙な感慨を抱く。
ちらりと、少女を盗み見た。
本当に、不思議な少女だ。あれほどの負の感情を内に秘めておきながら、ここまで落ち着いて話せるものなのか。
きっとこれまで何度も自身の感情と向き合って、前に進んできたのだろう。年齢にそぐわない大人びた雰囲気が、それを物語っている気がした。
「……貴女は、強いですね」
気が付けば思わず、そんな言葉が零れていた。
「強い?」
桂太の言葉に、少女は目を大きく見開いた。
桂太は薄く笑む。
「そのお齢で、自分の内面とちゃんと向き合って、目を逸らすのではなく呑み込んで、乗り越えてこられたのでしょう? 大の大人ですら、こうして情けなく逃げ回っているというのに。……並大抵にできることではありません」
「……」
少女は黙り込む。
またしばらく沈黙が降りた。雨の音だけが、時間が経過していることを証明する。
「まだ、乗り越えられてはいないよ」
「え……」
雨音に溶かすように聞こえてきた言葉に、桂太は声を漏らす。
とっさに目を向けると、少女はほろ苦い笑みを浮かべていた。
「踏ん切りがついたわけでも、心の整理ができたわけでもない。それでも恙なく振る舞えているように見えるのなら、少しだけ、向き合えるようになったということだろう」
一呼吸おいて、静かに続けた。
「……動けなくて蹲っていても、どれほど時が止まればいいのにと願っても、季節も人の心も、変わり続けてしまうから。自分自身も、同様に」
言葉を切り、目を遠くの方にやる。
――何をしようと、何が起きようとも、時間は平等に、中身を問わずに過ぎていく。
その事実を思い知った数年前のあの時を、少女は思い出す。
何事もなかったかのように過ぎ去る時の流れを、恨めしく思いながらも、反面、そのことに甘えるように、空っぽのまま何日も過ごしていた。
目に映る事耳に入る事、その全てがどうでもよくて、景色も思い出も、急速に精彩を欠いていった。
そしてそれは、あれほど大事に思っていた、彼との記憶も、例外ではなくて。
日を追うごとにおぼろげになっていく元付き人への想いに気付いた時、芽生えたのは恐れと、焼けつくような怒りだった。
「このまま目を逸らして逃げていたままでは、彼がくれた時間も思い出も最初から無かったものにされてしまうような、そんな気がしたんだ」
漠然とした、けれど強烈な激しさを内包した恐怖。
けれど、恐れを抱くと同時に、それだけは絶対に耐えられないという、何より強い思いが心の内で生まれた。
使命感か罪悪感か、あるいはその全てかもしれない。
ただ一つ確かなのは、自分の中から、そして御澄家から深月の存在が消えてしまうのは、他の何を置いても許せない。そう強く思うことだけだった。
「乗り越えたわけじゃない。ただ、前を向かなければいけない理由がある。だからこうして、歩いて行ける。私にあるのは、それだけだ」
言い切った少女は、その全身に、何者の介入を許さないような毅然とした雰囲気をまとっていた。
桂太は前を向く少女の横顔を見る。自分が感じているものと酷似した恐れを抱いていたという少女に、驚きと、憧憬を抱かずにはいられなかった。
(……すごいな)
ごく自然に、そんな思いが浮かんだ。
覚悟を決めたような、どこか痛みをこらえるような表情を見て分かる。少女が、どれほどの痛みを抱えて、歩いてきたのかは。
今よりもっと幼い年齢の時分に、それほどの哀しみと向き合い、呑み下すのは、どれほど苦しかっただろう。決然と顔を上げる姿が何よりも尊く痛々しく、己を顧みた時に苦々しくも思えた。
いつの間にか大粒の雨は霧に変わっていて、庭園を穏やかに包み込んでいる。その様子を眺めながら、少女は話し出した。
「……私からも、聞いて良いか」
桂太は驚きつつも、「何なりと」と答える。
その声を聞き届けて、少女はそっと息を吐いた。
「君が、裏切ってしまったという主は、君にとってもう、苦しみや悲しみの対象にしかなっていないのか? 記憶の中に、温かなで幸福なものは、もう残っていない?」
「……!」
瞬間、桂太は呼吸を止めた。大きく見開いた目で、瞬きも忘れて、全身を硬直させる。
長い間を置いて、やがて震える唇で、「いいえ」と小さく零した。
……与えてくれた。残してくれた。たくさんの喜びも、身に余るほどの厚意も、かけがえのない思い出も。少女の言葉が合図だったかのように、幸せな記憶が途切れることなくよみがえる。
だけどその全てが今となっては思い出すと辛くて、振り返る度に動けなくなりそうで、それ以上に、一時でも温かなものに浸る自分が許せなくて。ずっと、思い出すことを避けていた。
それでも、まだ確かに、覚えている。出会ってから交わした言葉を、共に過ごした時間を。泣きたいほどに切なくて幸福な記憶に、桂太は息を詰まらせた。
少女は、ぎゅっと拳を握りこむ。
「もし、君の主人が残してくれたものの中に、幸せなものもあるのなら、まだ思いだせるのなら、ちゃんと覚えておいた方がいい。放っておくと、思考はどんどん卑屈な方へ、偏ってしまうから。それに」
言葉を切り、短く息を吸った。
「与えてくれたものを、さも無かったように考えるのは、その人に対しても失礼なことだと思うから。たとえ、恨まれていたとしても」
目を伏せ、まるで自分にも言い聞かせるかのように言葉を紡ぐ。
押し殺すように吐き出された声に、桂太はやっとの思いで「はい」とだけ口にする。
「ありきたりな、言葉だけれど」
少女は前を向いて、再び言葉を紡ぐ。
「君が抱えるものは、君自身にしかどうすることもできない。でもだからこそ、目を背けようが立ち止まろうが進もうが、全ては君の自由だ。他の誰かに口を挟まれる筋合いも、急く必要もない。……君が、考え抜いて選んだ道なら、それがきっと、君にとって最も必要なことだから」
「……!」
桂太は息を呑んだ。思いが胸に詰まって、言葉が、すぐに出てこない。
しばらくして、やっとのことで声を絞り出す。
「立ち止まっても、いいと……?」
掠れた声で、ぽつりと呟く。少女の言葉一つ一つを、心の中でかみしめる。
しばしの後、桂太はゆっくりと視線を上げると、蒼さを取り戻し始めた空を見上げる。見つめながら、胸の奥の重石が、ほんの少しだけ軽くなっていることに気付く。
桂太は眩しそうに目を細めた。
――ずっと、地に足がつかない状態だった。
朱里への贖罪の念はあっても、彼女のために何も為すことが出来ない。その術が分からない。
負い目に立ち向かえず、逃れることもできず、ただ後悔に取りつかれて屍鬼のように毎日を過ごして、果ては動けなくなった。
『どうにかしなければ』
そう思えば思うほど、見えない網に絡み取られる気分だった。
停滞することは罪だと、思い込んで疑いもしなかった。
それなのに、この少女は。
「……」
桂太は唇を引き結ぶ。
似たようなことは、同僚たちとて繰り返し言ってくれた。
その時はそのまま受け取れなかったのに、この少女の淡々とした、それでも凛とした響きをもった声で言われると、抵抗感なく受け入れられるのが自分でも不思議だった。
聞く者によっては冷淡ともとれる声音が、今はこの上なくありがたかった。
息を吸って、ゆっくりと吐く。肺に満ちた清涼な空気が心地よい。何とも言えない安堵感が全身を包む。
桂太は、ゆっくりと目を閉じる。
優しい雨音の中、しばらくこの感覚に浸っていたいと思った。




