37.雨音②
――雨の音がする。
雨は、昔から好きではなかった。
生来、家でじっとするより外に出ることを好む自分にとって、強制的に家に閉じ込められるのは気にくわなかったし、無遠慮に耳に飛び込み思考を邪魔する雨音が、鬱陶しくてしょうがなかった。
でも、今に限っては、ありがたいと思った。
ざあざあと降りしきる音が、世界から自分を覆い隠してくれるようで、ほっとしたから。
動き回るのが好きだった自分が、一歩も動きたくないと感じたのは、おそらく人生初ではないだろうかと、思う。
ぼんやりと、目前の庭を見つめる。
夏が始まる頃には盛りを見せていた花々も草木も、枯れはててしまい見る影もない。
その光景を見るたび、あの日から経過した時の長さを考えずにはいられない。
そして、同時に思う。
季節というものはこんなにも痛烈に、存在を主張してくるものだったかと。
知らぬ間に始まり、気付いた頃には過ぎ去っていた森羅万象の変化が、今はじりじりと身をしめつけるほど克明に感じる。
何故と自問し、やがて気付いた。
それは、自分が停滞しているからに他ならない、と。
共に流れていた頃には気付かなかったものが、立ち止まったことで初めて、その速度や情景が分かるようになる。
つまりはそういうことだろう。
状況と考えようによっては喜ばしいことかもしれないが、今は、分かったところでそれがなんだという、冷めた感慨しか湧いてこない。
新たな発見に心を動かす余裕など、生憎と持ち合わせていない。
だから相変わらず、寝ているか起きているのか分からない淀んだ目で、庭を眺め続けるにとどまる。
――なんと無意味で、空虚な時間なのだろう。
「……」
手で顔を覆う。
どこからか、甲高い、引きつれた悲鳴が聞こえる気がした。
あの時からずっと、寝ても覚めても頭に浮かぶのは、自分を信じると言ってくれた少女の、絶望した表情。
その顔が浮かんだ途端、どれほど己を奮い立たせて動こうとしても、凍り付いたように心と体が停止する。満足に歩くことさえ、出来なくなる。
そんな自分を心配して、同僚たちは休めと言ってくれた。
今日の会合とて、本来は自分も応援に駆け付けるはずだったのに、こうしてただ座り込んでいるだけなのは、そういう理由だ。
「俺、何やってんだ……」
雨音だけに意識を向け、何をするともなく佇んでいたその時、不意に、凛とした声が耳朶を打った。
「――ここは、君の場所だったか?」
「え?」
とっさに声のした方を見ると、目が覚めるような端麗な顔立ちをした少女が、そこに座っていた。
前髪の間から覗く、意志の強そうな瞳。堂々とした身のこなしに、達観した言葉遣い。
その全てが、顔立ちから察せられる年齢とはかけ離れたものだった。
一目見て上等のものだと分かる着物に袖を通し、しゃんと背筋を伸ばすその姿は、この上なく眩しく見えた。
御澄に名を連ねる誰かであることは、一目瞭然だった。
「……とんでもありません。俺……いや、私はただ休憩していただけなので、どうぞそのまま、ここをお使い下さい」
御澄家の人間が、なぜこんなところに。
そうは思ったけれど、それよりも今は、さっさとこの場を去りたかった。
けれど立ち上がりかけた桂太に、叶慧は声をかけた。
「待て。そんなに、慌てて去ろうとしなくていいだろう。それに元々ここにいたのは君が先だったんだから。私に構わず、そのまま休憩してくれればいい」
「は……」
そんな無茶な、と思いながらも、言われるがままに、浮かしかけていた腰を下ろす。
「あの、付き添いの方は近くにおられるのですか」
おそるおそる問うと、「まいてきた」と短く返された。
「少し、息抜きするだけだ。まさか御澄の敷地内で不埒者に出くわすことなど、そうそうないだろう。たまには解放してくれなくては、息がつまってしょうがない」
すぐに戻るから、心配は無用だ。
言い切った少女に、なんと返していいか分からなかった。
人を呼びに行くべきかとも思ったが、何物にも邪魔されず一人になりたい気持ちは、皮肉にも今の自分は、痛いほど分かっていた。
結局迷った末、「そう、ですか」とだけ答え、黙り込む。視線の置き場に惑い、迷った末、元のように、庭を見つめることにした。
「ーーところで」
しばらく互いに声を発さず、再び雨音に意識を戻しかけた時、またしても突然に話しかけられた。
「君はなぜ、そんなに思い詰めた顔をしているんだ?」
「え?」
不意打ちに等しい問いかけに、不敬にも胡乱な声を漏らす。
少女は構うことなく、話し続ける。
「先ほどからずっと、何かに追い詰められたような表情をしているだろう」
「……そうでしょうか」
「自覚がないのか?」
「いえ、そういうわけでは」
桂太は気づかれないほど小さく眉をひそめた。
今の自分がさぞ、ひどい顔をしていることくらいは分かっている。
問題は、目の前の少女が、なぜこれほど踏み込んでくるのかということだ。
「お互い、雨が降っている間はすることもないだろう。止むまでの話し相手だと思って、理由を話してみないか」
本当に興味があるのかも怪しいほど、淡々と紡がれる言葉に、桂太は眉根を寄せた。
自分のことは気にするなと言ったそばから、勝手がすぎないだろうか。
第一、そんな、ただの退屈しのぎに語れるような単純な話ではない。
出来ればしたくないというのが本音だった。
けれど目の前の相手は御澄のお嬢様だ。
もし不興を買ったら、自分のみならず家族にも影響が及ぶかもしれない。
表情を消し去った顔の下で、心の百面相をしながらそう考え、深く息を吐いた。
(やっぱり、はやく上がれこの野郎)
未だやまぬ気配のない雨模様を睨み、桂太はゆっくりと口を開いた。
いざ口にするとなると、一層心は重くなる。
桂太は一呼吸置き、沈み込むような声で話し出した。
「……ひどい、裏切りをしてしまったんです」
叶慧は両目を大きく開いた。
「裏切り?」
頷き、奥歯を噛みしめる。閉じた瞼の裏に、まだ幼さの抜けきらない、少女の姿が浮かんだ。
「……繊細で、少し気弱なところがあるけれど、誰より純粋で優しくて。自分がお守りするのだと、心に決めていた方でした。俺なんかを信頼してくださっていたのに、俺は、あろうことかその心を利用して、踏みにじってしまった。……これがあの方のためだと、都合のいい理屈を並べて」
それが結局、自分の保身以外の何物でもなかったと、その選択がどんなに朱里の心を傷つけるものかと、気付いた時にはもう、全てが遅すぎた。
『――大丈夫。だって私、貴方なら信用できるって、そう思うの』
少し照れ臭そうに話す、はにかんだ笑顔が心をしめつける。
あの方をあんな風に変えてしまった自分が、自分だけが、どうしてのうのうと過ごしている。
考えるといつも、自己への嫌悪で、吐き気がしそうだった。
自責と躊躇いを感じながらもしばらくの間は、騙し騙し、何とか生活していた。
だけど。
――このまま過ごしていると、朱里の存在も「当たり前の毎日」の中に埋もれて、いつかは忘れ去られてしまうのではないか。
そんな恐怖に酷似した疑問を、いつしか感じるようになっていた。
己を苛む恐怖に射すくめられるように、今度は満足に体も動かなくなった。心と体が直結しているということを、生まれて初めて、嫌というほど感じた。
何をするにも億劫で、気付けば朱里のことばかりを考えている。
(詫びても、詫びきれない)
そんなことは分かっている。
それでも脳裏に姿が浮かぶ度に、申し訳ありませんと懇願することが、桂太の毎日になっていた。
「……そうか」
硬質な声音と、ひりひりとした痛みが、桂太を現実に引き戻す。
いつのまにか、血がにじむほど強く手を握りこんでいたことに気付く。
ぎこちない動作で込めた力を解くと、桂太は隣にいる叶慧に意識を向けた。
ずっと黙り込んでいるが、やはり不快にさせただろうか。
自己保身のために主を見捨てた不忠者と、無表情の下で自分を軽蔑しているのかもしれない。
「……お耳汚しな話をお聞かせしてしまい、申し訳ありません」
今更ながらに言うと、相手は短く「いや」と答えた。
「強引に話させたのは私だ。君が謝る必要はない。……それに」
少女は言葉を切る。
数秒置いて、再び音が空気を震わせた。
「罪悪感と後悔に、潰されそうになる気持ちは、分かる気がする」
「…………」
深く沈むような声を受けて、瞬間、桂太が感じたのは憤りだった。
――簡単に「分かる」などと言うな。
身を裂くような悔恨を、行き場のない怒りを、己を苛む怨嗟を、会ったばかりの部外者に、まして玉のように育てられたであろうお嬢様などに、易々と理解されてたまるか。
安っぽい同情を向けられるのも、自己陶酔のための仲間意識を持たれるのもまっぴらごめんだ。
桂太は反感を持って、叶慧を見る。
無礼なのは百も承知だが、異論の一つも言ってやらずにはおれなかった。
けれど、向けた視線の先で、青年は用意していた言葉の全てを呑み込んだ。
「……」
思わず、絶句する。
少女の眼が宿すのは、およそ十代の娘が抱えられるとは思えないほどの、暗闇だった。
誰に向けたものだろうか、隠しきれぬほどの負の念が渦を巻き、黒より濃い濁りをその瞳に湛えている。
冥く冷たく、それでいて煌々とした光を失わない瞳で、毅然と前を見つめる姿に、桂太は言葉を失う。
――何が、少女にこんな目をさせているのだろう。
つい先ほどまで抱いていた怒りは鳴りを潜め、代わりに困惑と疑問が頭を占めた。




