36.雨音①
いつの間にか、雨が降っていた。
水滴が絶え間なくフロントガラスを流れ落ちていく様を、叶慧は何とはなしに見ていた。
小さい頃から、雨は好きだった。
常より活気が減り静まった世界に浸っていると、普段、自然と肩にこめている力が抜けるのだ。ゆっくりと呼吸ができるような、気兼ねなく休めるような、安らかな気分になれるのだ。
そんな日は稽古事や祖母の用事以外、部屋で何もせずに過ごした。
ざあざあと全てを呑み込むような音を聞いていると、自分の存在ごと包んで覆い隠してくれるような気がして。飽きもせずに、何時間も雨音に耳を澄ませていた。
世界が身を寄せ合い、穏やかな安らぎに包まれたような、恐ろしいまでに優しい静謐が好きだった。
「――お嬢」
雨音に紛れるように、自分の名前を呼ぶ声があった。
ゆっくり目を開けると、見慣れた車内の様子があった。
運転席には桂太が座っていて、他には誰もいない。規則正しく伝わる振動が、心地よかった。
「お休みのところすみません」
「いや、別に寝ていたわけじゃないから構わない。……どうした」
どうしたも何も、桂太がわざわざ今、この状況で言いたいことなど分かり切っている。
それでも聞く形を選んだ叶慧に、桂太は緊張気味に話し出す。
「一つ、聞いてもよろしいですか。……朱里様のことは、どこまでご存知なのですか」
意を決するように発された言葉に苦笑して、叶慧は口を開く。
「何も。知っているのは、君が私の元に来る前に、朱里の付き人をしていたことだけだ」
口にして尚更自覚するが、本当に、笑えるくらい自分が把握していることは少ない。
「そうですか……」
さして驚いた様子も安堵も見せずに、桂太は応じる。
続く言葉を考えあぐねている付き人に、叶慧は声をかける。
「明槻、私からも一つ聞いて良いか。一体、朱里に……いや、君と朱里の間に、何があったんだ?」
桂太の肩が、ぴくりと揺れた。
そこから一呼吸分の間を置いて、固い声が桂太の口から出てきた。
「すみません。これは朱里様にも深く関わることなので、俺の一存では、詳しいことまでお話することはできません。……ただ一つ言えることは、俺が朱里様を、裏切ってしまったということだけです。取り返しがつかないほど、ひどいかたちで」
叶慧は大きく目を見開く。
とっさに桂太を見るけれど、少しだけ見えた横顔は、固く張り詰めていて、それ以上のことは聞くことができなかった。
「……そうか。ならば質問を変える。なぜ君は、そんなことがあったというのに、私のところに来てくれようと思ったんだ?」
詳しいことは分からないまでも、朱里とその付き人であった桂太との間に何事が起ったのだとしたら、それに先見の目が関わっている可能性は大きい。
だとしたら、先見に対して相応の拒絶感情は持っていてもおかしくはない。いや、抱いて当然なのだ。
(それなのに、なぜ)
叶慧は運転席を見つめる。
――出会ったばかりの頃、同じ質問をした。
あの時は桂太の勢いに圧倒されるばかりで、ろくに内容を受け止めていなかった。
だからもう一度、ちゃんと聞いておきたい。
桂太は困ったように微笑んだ。
「以前申し上げたことに、偽りはありません。昨年の冬の会合で、貴女をお見かけしたことがきっかけだというのも、本当です。……けれど」
桂太は言葉を切り、一つ息を吸うと、口元に笑みを浮かべた。
「もっと正確に言えば、あの時、貴女が俺にかけて下さった言葉がどうしても忘れられなかったから。もう一度お会いしたいと願わずにはいられなかったから、というのが本音です」
「……!」
思いがけない言葉に、叶慧は腰を浮かせる。
「君と私は、以前、直接言葉を交わしたことがあるのか?」
その可能性を探らなかったわけではない。
ただ探しても、心当たりが見当たらなかったのだ。
昨年の会合と、そこまで範囲を絞られても、やはり思い当たるものがない。
戸惑う叶慧を見て、桂太は苦笑を漏らした。
「お嬢が思い出せないのも、無理もないです。ですがこれは、覚えておられませんか? お屋敷のお庭、使用人が使用する区域の一角で、何をするでもなく、ただ陰気に外を眺めていた男がいたことを」
「え……」
そう言われて、必死に記憶をたどる。
昨年の冬。たしかその時は、西の分家が会合の場所だった。
代わり映えのしない顔ぶれ、聞きなれた口上に張り付けた笑み、纏わりつくような声。
いつも通りのそれらに、固くした表情の下で、始終ため息をついていた。
(そう、去年の会合の時も、こんな風に雨が降っていて……)
形式だけの顔合わせと挨拶に疲れ果てて、どこか落ち着けるような、人の声が届かない場所を探した。
庭園の間を抜けて、立ち入り禁止の区画にまで足を踏み入れ、どんどん人だかりから離れていった。
そしてやっと、ゆっくりと腰を落ち着けられるような軒先を見つけて、ほっと息をついた。
どうやらそこは、使用人部屋の近くだったらしく、その時間には誰も廊下を歩いていなかった。
丁度いいと腰を下ろし、腕を伸ばしたところで、初めてその存在に気付いた。
三メートルほど向こうに、同じように座っている人物がいることを。ひどく存在感が希薄で、ずっと俯いていたので、顔もよく見えなかった。
ただ、淀んだ眼差しと身にまとう重い空気感に、ただならぬ状態であることは分かった。
尋常でない様子が気になって、思わず声をかけると、その人物はーー。
「あ……!」
叶慧は大きく、目を見開いた。
そして、ミラーに映る桂太の顔を凝視する。
記憶の中にある面影とすり合わせ、やはり信じられない思いで口を開いた。
「もしかして、あの時の……⁉」
そう零すと、青年はふわりと笑った。




