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先見のお嬢は、未来を憂う  作者: 和広奈子
35/44

35.ありがとう

「明槻……?」


「お嬢……!」


 掠れた声でその名を呼ぶと、桂太はすぐに叶慧を見つけ、その姿を目に留める。

 無事を知ってほっとしたのだろうか。一瞬だけ緩められた表情は、目の前の状況を見て、すぐに鋭さを帯びる。


「……っ」


 急転した展開に気を取られ、ほんのわずかに力が抜けたタイミングで、隆明は叶慧を突き飛ばす。

 叶慧の腕から、鋏を持つ手がすり抜けた。


 そのまま立ち上がった隆明と、険しさを増幅させた桂太の視線がかち合う。


「……お前が、新條隆明だな?」


 そう言って桂太は、ゆっくりと近づく。

 語気を荒げたわけでも凄んだわけでもないのに、全身を覆う怒気に、叶慧でさえ尻込みをしてしまう。

 それは隆明も同じようで、身体を硬直させ、息を呑む気配が叶慧にも伝わってきた。


「うちのお嬢に、怪我させたのはお前か?」


「……っ、だったら、どうした。腕の一本や二本でも、へし折っていくか?」


 表情を固くさせながらも口角をつりあげた隆明を、桂太は無感動に眺める。

 その瞳に、ぎらりと鈍い光を放つ刃が映った。


「……明槻」


 焦りを含んだ声で、叶慧は呼びかける。

 視線は隆明が持つ鋏に注がれる。

 その切っ先は、自分たちではなく隆明自身に向けられているのだと、直接伝えられないのがもどかしい。

 じりじりとした思いで唇を噛んでいると、刹那、桂太の視線が自分に向いた。


「……!」


 一瞬のことだったが、桂太がほほ笑んだのが分かった。

 まるで、大丈夫ですよとでも言うように。

 信じられないような、安心するような、何とも言えない感情が心を占める。


 叶慧が困惑している間にも、叶慧に向けた笑みとは正反対の冷たい石のような声で、桂太は話しかけた。


「今すぐにでもそうしてやりたいのはやまやまだけど、そんな野蛮なことしねえよ。あんたは曲がりなりにも新條家の人間で、俺だって今はまだ叶慧お嬢様の付き人だ。主に迷惑をかけかねないことは、するわけにはいかないんでね」


 そう言って口許を歪ませた桂太は、叶慧が知っている姿からはあまりにもかけ離れていて、思わず目を疑った。


 桂太は、少しずつ、それでも確実に隆明との距離を詰めていく。

 気圧されるように隆明も後退するが、桂太の歩みがそれを上回る。



「――だからさ」


 更に三歩。まだ遠い。


「しっかり」


 加えて、五歩。まだ少し遠い。


「覚えていてほしいんだよ」


 もう二歩。だいぶ距離が詰まってきた。


 あと数歩で、隆明に手が届くだろう。

 けれどまだ、手を弾くには遠すぎる。



「……っ」


 その瞬間、隆明の手が動いた。


「隆明様……!」


 悲痛な叶慧の声が響く。

 思わず腰を上げたその先で、叶慧は大きく目を見開いた。



「え……」


 開いた双眸に、右手を抱えて背を曲げる隆明と、足を振り上げたままの桂太の姿が映る。


(まさか、あの距離を一瞬で詰めて……?)


 信じがたいことだが、それしか可能性が考えられない。


 呆けた顔で立っていると、事もなげな様子の桂太が、ほほ笑みを浮かべて隆明の肩に手を置く。



「これは、俺個人の、独断的な報復だって」


 そう言うと拳を握りしめ、うなりをあげて隆明の鳩尾に叩き込んだ。


「ぐ……かはっ……」


 ずるずると崩れ落ちる隆明を、桂太は粗雑に受け止め、床に寝かせる。

 変わらず冷めた目で見つめる横顔は、息一つ乱していなかった。




 叶慧はただ黙ってその様子を見つめる。今の桂太は、気安く声をかけていいのか分からないような、そんな気がした。


「……」


 桂太はやがて、小さく息を吐くと、ぐりんと顔を勢いよく叶慧の方に向けた。


「お嬢、大事ないですか!」


 叶慧のところに駆け寄り、跪くと、正面から叶慧に声をかけた。


 その剣幕に、叶慧は目を瞬かせる。


「打ち身に擦り傷、切傷に打撲……どこもかしこも、傷だらけですね」


 眉を寄せて呟く桂太に、叶慧は慌てて声をかけた。


「いや、でも見た目ほどは痛みもないし、服が破れたり汚れたりしているからひどく見えるというのもあるかと……」


 桂太の表情を見て、叶慧は言葉を中断する。

 まるで自分が怪我をしたかのように痛ましげな顔をする桂太を見て、申し訳なさがこみ上げる。


 分かっていた。自分が傷を負ったら、桂太がこんな顔をするだろうということは。

 それなのに、一瞬でも投げやりな思いを抱いてしまった自分が憤ろしくて、叶慧は唇を噛んだ。



「……駆け付けるのが遅くなり、申し訳ありません」


 痛みをこらえるような声に、叶慧はぶんぶんと首を振る。

 ここに来てくれた。叶慧の声に気付いてくれた。すんでのところで、隆明を止めてくれた。

 もう十分すぎるほどだ。


「あ、あの……」


 叶慧はぎこちなく口を開く。

 何故だか、言葉がすぐには出てこない。


 あれほど、桂太には言いたいことが山のようにあったのに。

 いざ目の前にすると、途端に声が詰まってしまう。


(肝心なところで何も言えないようじゃ、何の意味もないじゃないか)


 気合をこめる意図でぱんっと頬を叩いた叶慧に、桂太はぎょっとする。


「おじょ……叶慧様、本当に大丈夫ですか? もしかして頭を打ったりは……」


「し、してない、いや、そう見えるだろうけど、これはそういうやつじゃないんだ。あの、明槻、その……」


 取り乱し、しどろもどろになる叶慧に桂太は不思議そうな目をするが、叶慧の体調自体は正常だと分かると、ほっと息を吐く。


「叶慧様、立てますか。とにかく、外に行きましょう。救援組の方々がお待ちです。皆さんにも、ご無事なことを報告しないと」


「……っ!」


 差し出された手を、叶慧は困り果てた目で見つめる。


 桂太の言う通りだ。

 今は何を置いても一刻も早く迷惑をかけしまった人たちに謝罪し、家に帰らなければならない。


 だけど、その前にどうしても、伝えたいことがある。


(しっかりしろ)


 叶慧は自分を叱咤する。


「叶慧様?」


 自分の手をぎゅっと掴み、挑むように己を見て来る叶慧に、桂太は声をかける。

 叶慧は、息を吸うと、呟くように声を出した。


「……お嬢で、いい」


「……!」


 桂太の目が、ゆっくり見開かれていく。

 前髪からのぞく、少し茶の混じった透き通る瞳を、正面から見つめる。


「ひどい勘違いをして、勝手に避けて、遠ざけてしまってごめん。君はいつも、私のことを気遣ってくれていたのに、その気持ちを無下にするようなことばかりをして、本当にすまない……」


 制服の裾を握りしめ、吐き出すような声を出す叶慧を前に、桂太は首を横に振る。


「お嬢、違います。お嬢が謝らなければいけない理由なんて、どこにも無いんです。……俺の弱さが、お嬢に全てを打ち明けることを、拒んでしまった。あれほど貴女に信じて欲しいと言っておきながら、その信用に足るものを、俺自身が示せなかった。だから、謝らなければいけないのは俺の方で、お嬢が詫びる理由なんて、何も……っ」


 桂太は、一息にそう言って、言葉を切る。

 言いたいことが溢れすぎて、収拾がつかなくなっているようだった。


 叶慧は何も言わず、ただ静かに言葉を待つ。

 今度こそ彼の話を聞きたいと、最後まで聞き届けると、そう決めていた。


 その穏やかで強い光を秘めた瞳を見て、桂太は顔を上げた。


「お嬢。一つだけ、一つだけ言わせてください。確かに俺が、お嬢の元に来ることになった経緯は、朱里様が絡んでいます。けど、他の誰でもないお嬢にお仕えしたいと、お嬢のお役に立ちたいという思いは、偽りのない俺自身の意志です。それだけはどうか、信じていただけませんか」


 絞り出すように零された声は、真っすぐに叶慧の心に届く。


 湧きあがる喜びを確かに感じながら、叶慧はふわりとした笑みを口の端にのせた。


「ああ。……信じる」


 強い思いを込めて、たった一言、そう言った。

 柔らかく細めた瞳は、驚きの表情を浮かべる桂太の顔を、しっかりとらえる。


「明槻」


 揺れる視界の中で、桂太の顔がくしゃりと歪んだのが見えた。


「助けに来てくれて、ありがとう」


「……こちらこそ、ありがとうございます」


 振り絞るように声を吐く、俯いた桂太の顔は、叶慧からは見えない。

 けれど、震える声が、小刻みに揺れる肩が、青年の心情を何よりも明瞭に物語っていた。


 明槻、と、もう一度名を呟く。


「本当に、ありがとう」


 紡いだ言葉に、桂太は泣きそうな顔でほほ笑んで、口を開いた。

 風にのせるように呟かれた声は、小さく、けれどはっきりと叶慧の耳に届いた。


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